98話 「一線」
――運命……なんて。
曖昧な言葉を使いたいわけじゃない。
けれど、たぶん。分かれ道ではあったのだと、今でも思う――。
神無の街を襲った黒い影。その姿を僕が見失ったあと。
「ユノ、すごいじゃん!!!」
キラキラと瞳を輝かせながら、クロエは言う。
僕のおかげで危機は去ったと。
よくやったと。
嬉しそうに口にして、僕の両手を握ってぶんぶんと振り回す。
心配していた僕に対する恐れや、動揺はクロエからは感じられない。
そのことに僕は一瞬だけほっとして。それからすぐに、今すぐ走りだしたいくらいの焦燥感に駆られていた。
――危機は、去った。
けれどそれは、今夜だけのお話で。
痛いほど分かっているのは、奴を仕留めそこなったという事実だけ。
「お疲れ様。ユノ君」
今まで聞いたことのないくらい優しい声色で言って、フィーアさんはねぎらうように後ろからボクの肩に手をのせた。
「あとのことは、まかせてちょうだい」
その言葉に、僕はなんて言って返しただろう。
……分からない。
記憶が曖昧だった。
「……ユノ、驚いたよ。まさか君が――」
ランスが少し呆れながら、けれど微笑みながら僕に何かを語りかける。
その間にも、僕の目は吸い込まれるようにして、その少女へと向かっていた。
くせのある肩までのびた紺色の髪。
白い肌と、顔の半分を覆う痛々しい火傷のような跡。
そして僕を見る、眠たそうな――瞳。
――そんな色褪せた記憶を、ぼんやりと思い返しながら、僕は暗くなった学園の廊下を歩いていた。
あれからどれだけの時間が経っただろうか。
分からない。分からないけれど、色々なことがあったのは確かで。
「…………」
足が異常に重く感じる。
こんなにもこの学園は広かっただろうか、なんて冗談を必死に思い浮かべながら。
僕は道すがら頭の中を整理しつづける。
ランス達が『ネム』と呼んでいたあの少女が、野良神だと判明したこと。
あの夜を皮切りに、毎夜、カンナの街に黒い影が出現するようになったこと。
その狙いはもちろん野良神であるネムだった。
始めは暗部構成員だけでも、なんとかなっていたはずだった。
僕自身も、彼らなら……暗部の幹部達であれば、と。そう考えていた節はある。
けれど、昼夜を問わず日に日に増していく黒い影……ファントム(ロイド先輩命名)の猛攻に、とうとう僕にも救援要請が届く。
僕は……その要請を二つ返事で引き受けた。
彼女の……ネムの力になりたいという想いからだった。
彼女の身に危険が迫っている。その事実だけで、動くには十分だったのだ。
身に宿る異常な力。その使い道。
守りたいものを、守れる力。
そして今日、僕は学園を休んだ。
目的は、ネムの護衛。
もちろんルナにも許可はもらっていた。
それから神様とティナにも……学園を休むことを伝えて……。
「……ッ」
両手を握りしめる。
落ち着け僕。まだだ。まだそうと決まったわけじゃない。
そう必死に自分に言い聞かせながら、僕は黙って足を進める。
目的地は、ロイド先輩が待っているはずの生徒会室。
……嫌な予感はしなかった、と言えば嘘になる。
任務の最中に、学園に戻るように言われたその時から、今も嫌な想像が止まらない。
例えば――この最悪な想像が、本当だったとして……。
「…………僕のせいだ」
学園が安全な場所だと決めつけていた。
離れるべきではなかったんだ。
……じゃあ、僕はネムの護衛を断るべきだったのだろうか。
それも、違う。……違うって思う。思ってしまう。
…………分からない。今は、なにも。
「…………」
眼前に迫った目的の扉。
僕は、震えていることを自覚しながら、腕を伸ばした。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「……もう一度、言ってください」
ユノ・アスタリオのか細い声が、暗く静寂に満ちた生徒会室に広がっていく。
瞬間、室内を唯一照らしていた机上に立つ蝋燭の炎が、大きく揺らめいた。
「…………」
自らの足元をじっと見つめたまま動かない少年の姿。
それを見て、フィーアは悲痛な面持ちで、隣に座るロイド・メルツへと視線を送った。
「……いいだろう」
ロイドは静かに瞳を閉じると、再び簡潔に口にした。
最初に告げた言葉と一言一句、違わずに。
「女神アテナが攫われた。ティナ・バレットと共に、だ」
「…………」
「なお、護衛にあたっていたアリス・ローゼは軽傷ではあるが、今も意識を失ったままでいる。……生徒会長……セレナは間に合わなかった。この報告は主に彼女からのものだ」
「…………」
ロイドは閉じていた瞳を開けると、ユノをまっすぐ見つめて口を開いた。
「……俺のミスだ。敵の真の目的を見誤っていた。…………いいや、詭弁だな。予想できなかった訳じゃない」
瞬間、ユノの肩が小さく震えたのを、フィーアは見ていた。
変わらず下を向いたまま動かないユノ。その虚ろな瞳を見て。
「ユノ君――」
ユノの傍に向かおうと一歩、足を前に進めたフィーア。その白い腕をロイドが掴みとめる。
「……ロイド様?」
意図を理解できずに、動揺を見せるフィーアを諭すようにして、ロイドは静かに口にした。
「やめておけ」
「……なにを――?」
そうフィーアが眉をひそめながら疑問を口にした瞬間だった。
生徒会室を唯一照らしていた蝋燭の火が――――掻き消える。
「――ッ!」
訪れたのは暗闇。
フィーアの口から小さな悲鳴が漏れ出したのと同時に、室内に青白い魔力を内包した突風が吹き荒れる。
その中心には、虚ろな瞳でロイドをまっすぐ見つめるユノ・アスタリオの姿があった。
「……違う。僕のせいだ」
それは穏やかにも聞こえる声色だった。
ユノは続けざまに質問をロイドへと投げかける。
「敵の……ヤツの居場所は?」
「捜索中だ。未だ所在はつかめていない」
「…………そうですか」
その言葉をきっかけに、室内に吹き荒れていた風の勢いが弱まっていく。
風に吹かれて大きく揺れていたユノ・アスタリオの黒髪が、元に戻る頃。
「……失礼しました」
そう最後に言い残すように口にして、ユノ・アスタリオは生徒会室を後にした。