幕間 「契約の名」
――ぽちゃん。
そんな気の抜けた音だった。
「…………」
暗がりの中、水の滴る音がやけに響いて聞こえてくる。
外ではない。しかし、室内、などというものでもないのだろう。
ひんやりと冷たい感触を背中に感じながら、『牢獄』という単語が脳裏をよぎる。
マルファスは、仰向けのまま擦れた声で疑問を口にした。
「…………ここは……?」
声が反響していく。
マルファスは暗い視界の中で、なにかを探すようにして視線を巡らせた。
「きみ、やっぱ少し変だよね。開口一番がそれ~?」
マルファスがその姿を視界におさめるよりも早く、明るい声が空間に響き渡る。
知っている声だ――というのがマルファスの率直な感想だった。
当然、マルファス自身、当たりはつけていた。
だからこの場合、予想通りであったということになる。
問題なのは、一言で言い表せるほどに簡単な疑問だ。
――なぜ?
この一言で事足りた。
突然の戦闘への介入。そして結果として危機を救われたという事実。
当然それに対しては感謝するほかないが、それよりも――なによりも。
「…………」
次々と浮かんでくる疑問と不安。それを口にするよりもまず、マルファスは視線だけを彼女へと向けた。
その女神は灰色の壁に背中を預けるようにして立っていた。
暗がりの中でさえ、映える漆黒のドレスと、この世のものとは思えない程、美しく幻想的な桃色の頭髪。そのツインテールがかすかに揺れている。
そして、無邪気に手を振るかのようにして、ひらひらと宙を舞う白い手のひら。その指先をどこからか差し込む月の光が照らしていた。
「やぁ。元気してた? って、そんなわけないよね」
冗談のように明るい声だ。その声色は、マルファスを酷く不安にさせた。
暗がりで強烈な存在感を放つ深紅の双眸。その視線がマルファスへとまっすぐ向けられる。
「それに……君が聞きたいのは、そんなことじゃないだろう?」
アスタロトの口角がやわらかく歪む。
人間であれば一目見て恋に落ちてしまいそうなほど可憐なその笑顔は、マルファスには毒だった。
見透かされているような、試されているような。
(…………ああ。やはり、私はあなたが苦手だ)
噛みしめるようにして、マルファスはそう思った。
普段は軽薄にうつる振る舞いも、すべては嘘だと知っているから。
前提として好みの同族などマルファスにはいない。
だが同時に、苦手だと思う者もそう多くはいないのだ。
なによりも、納得してしまう。
アスタロトの言う通りなのだ。
マルファスが尋ねたいことは『この場所がどこであるか』などではない。
「…………」
少し、間をおいて。
マルファスは絞り出すようにして口にした。
「――なにが、お望みですか?」
瞬間、暗がりに浮かぶようにしてアスタロトの表情に、凶悪そうな笑みが灯る。
それが正解であったことをマルファスはすぐに理解した。
「……ふーん。やっぱ君いいね。話が早くて助かるよ」
少しだけ声色を低くしながら、アスタロトは続けざまに口にした。
「そうだよ。理由が存在するんだ。特に、僕たちみたいな連中は、さ」
アスタロトは寄り掛かっていた壁から背中を離すと、足音を鳴らしてマルファスの元へと歩き始める。
コツコツと硬い音が木霊した。
「そりゃ、会話には前置きが必要な時もあるけど。今は必要ないって、君はちゃーんと分かってる。そしてそれを……僕は好ましく思っているんだよ?」
仰向けのままのマルファス。
その顔に自らの額がくっつきそうなほど近くまで、アスタロトは体を屈ませた。
互いの呼吸音が聞こえる距離。
アスタロトの長い髪が、マルファスの頬をなであげるようにして擦れた。
「正解だ。マルファス。助けた甲斐があったよ」
吐息交じりのその声を聞いて、マルファスは動揺を必死にこらえていた。
言葉もそうだが、眼と鼻の先で妖し気に笑うその顔が、恐ろしい程に美しく思えて。
アスタロトはゆっくりと顔を離すと、後ろ手に腕を組みなおし、マルファスの周りをゆっくりと歩きはじめる。
硬く、軽快な足音が、再び暗がりに木霊した。
「でも、少しだけ違う。実はお願いがあるわけじゃないんだよね」
「……というと?」
「うーん。そうだな……こういうのは、提案って言うのかな?」
「……提案? 私に?」
「そう。提案だ」
足を止めてニヤリと笑うアスタロト。
マルファスは身構えるようにして身体を強張らせた。
既に消失していた下半身の回復はおおむね完了している。
ぼんやりと様々な予測をたてながら、見下ろすようにして向けられているアスタロトの赤い瞳に自らの視線を絡めた。
アスタロトの小さな口が開くさまを、じっと見つめながら――
「――協力、してあげよっか?」
まるで悪戯が成功したかのような顔でアスタロトはそう告げた。
「……は?」
思わず口から漏れ出したその声を誤魔化す余裕もなく、マルファスは表情に疑問をありありと浮かべた。
「だって君、困ってるみたいじゃん? だからさ、僕が協力してあげるってわけ。わるい話じゃないだろう?」
「……」
言葉がでないとはこのことだろう。
マルファスは予想外の言葉に閉口した。
筋が通らないのだ。それではあまりにも、都合がよすぎる、と。
そんなマルファスの胸の内を見透かすようにして、アスタロトは言葉を続けた。
「そんなに身構えないでよ~。君に手を貸すのはさ、僕にも都合が良いからなんだ」
「……私の目的を知っていると?」
「うーん……」
アスタロトはこれ見よがしに腕を組むと、小首を傾げた。
「なんとなくかな? こういうの苦手だからはっきり言っちゃうけど、君が彼女を攫ってくれるなら、僕は喜んでそれに協力するよ」
「…………」
二度目の閉口。
マルファスは、小さく一度息を吐いてから口を開いた。
「……私だけでは不可能だと?」
「いいや? 僕は単独でも可能だって思ってたよ。最初は、ね」
「ではなぜ?」
「あはは。だって君――レヴィにビビってただろ?」
「――――」
マルファスが微かに目を見開いたのを見て、アスタロトは顔に浮かべていた笑みを深くした。
「幸いなのは君が気づけたことだ。正直それを含めて僕も色々と予想外だったし、それに、どうやら実際あの子は無関係ってわけじゃないみたいなんだ。つまり、君の目的を達成するには、レヴィを避けては通れない。そこで僕だ」
少し遅れて、なるほど、とマルファスは思う。
自分では手に負えなくても、同格である者が手を貸してくれるなら――。
「僕らはみんな嫉妬深いし、自分のモノが他に奪われるのを何よりも嫌悪する生き物だ。その中でも彼女は特別厄介って言ってもいい。それは君も知ってるだろう?」
少しだけ呆れるように笑って、アスタロトはその深紅の瞳を輝かせた。
「僕がおぜん立てをしてあげる。君だけじゃ無理でも、僕が手を貸せば、可能になる。だろう?」
「…………」
アスタロトの言葉に嘘は無いように思えた。
当然、何がどう都合良いのかをはぐらかされたことに、マルファスは気づいている。
しかし、それでもなお、その提案はマルファスにとって魅力的なものだった。
「……では――」
マルファスがその提案をのもうと口を開いたその、その時だ。
――「ひとつだ」
仰向けのままでいたマルファスの顔の前に、白い指が一本、見せつけるようにしてそこにあった。
アスタロトは再び体を屈ませて、マルファスの顔を上からのぞき込みながら口を開く。
「条件が、一つだけある」
マルファスの眼と鼻の先にあるアスタロトの赤い瞳が爛々と輝きを増していく。
マルファスは、悟られないように小さく息を飲んでから。
――たしかに首を縦に振った。