97話 「仕組まれたモノ」
※三人称です。
――なにが、おこった?
『ガァッ――!?』
闇夜に響く苦悶の声。
マルファスは空中で姿勢の制御を失うと、真っ逆さまに地面へと落下していった。
(なにが――)
マルファスの眼に映る、銀色の月。
その視界の中に自らの脚がないという事実、その訳をぼんやりと考えながらマルファスは黒い大地へと激突した。
砂煙がマルファスの姿を覆い隠すようにして、夜空へと昇っていく。
上半身だけになった身体を怒りで震わせながら、マルファスは地面に回復したばかりの両腕、その両手の爪をつきたてた。
(このままでは……)
怒りもある。混乱もしていた。
しかし、それでもマルファスは状況の把握を怠ってはいなかった。
自らの状況を理解するにつれて湧きあがってくる怒り。しかし今はそれに向き合うよりも先に、マルファスは焦燥感を抱いていた。
【マルファス】は神である。
常人であれば即死の傷であっても、神ならば時間さえあれば完治することも不可能ではない。事実、斬り飛ばされた両腕は完治には至らずとも、こうして両腕として存在している。
欠損した程度であれば、回復することは可能なのだ。
そう。時間さえあれば。
「…………」
上下二つに分かたれた体。
自らが負った傷が、すぐどうこうなるものではないことをマルファスは地面に落下するよりも早く悟っていた。
だから、焦っているのだ。
(……このまま戦闘を続行するのは不可能だ)
件の少年の他にも、自らを敵と見定めている者がいることをマルファスは知っている。
最初に相対した少女クロエの姿。そして自らの身体を切り裂いた者とはまた別にもう一人。その姿をぼんやりと思い浮かべながら、マルファスはすぐに思考を切り替える。
彼らだけであれば問題ではないのだ、と。
問題なのは、もう一人。
長い黒髪をした女。その強者の存在をマルファスはしっかりと把握していた。
いいや、そもそもの話――。
『……くっ』
マルファスは屈辱に身を震わせた。
みっともなく地に伏している自らの有様。
生存を考えれば撤退以外に選択肢が無い事実。
そして――それすらも困難である状況に。
ざくり――と、何者かが大地を踏みしめる音をマルファスは聞いた。
瞬間、自らの肩が小さく震えたのをマルファスは自覚する。
(……恐れているのか……この私が)
ざくり。
ざくり。
小さな足音は木霊する。
「…………」
額から流れる汗をそのままに、マルファスは恐る恐る足音が聞こえてくる方向へと視線をやった。
視線の先。
いまだ舞う砂煙を、月明りが照らしている。
そこから浮かび上がるようにして、その影は徐々に鮮明に、大きくなっていった。
「――――」
マルファスがはっきりとした恐怖を自覚したのはこの時だ。
ゆらゆらとおぼつかない足取りで近づいてくる影。
その姿はさながら地獄の魔物を彷彿とさせるものだった。
なによりも――とマルファスは思う。
眼だ。
感情を感じさせない、どこまでも冷たく、無機質な、眼。
それがまっすぐマルファスを向いて離れない。
「…………ッ!」
撤退の他に道は無い。マルファスはすぐに行動を移した。
敵に背中を向けて地を這うようにして逃走を図る。
しかし――。
「……くっ」
マルファスの伸ばした腕。その手に激痛が走る。
深々と地面に縫い付けるようにして、マルファスの手のひらに突き刺ささったそれは月の光を映して銀色に輝いていた。
「……逃がすと思うのか? 僕が、オマエを」
決して威圧的な声色ではなかった。
淡々と紡がれたその言葉。
それでもマルファスは後ろに振り返ることができなかった。
理解していたのだ。
それは対話を目的としたものではないことを。
ただ、事実だけを一方的に告げられただけなのだ。
その恐怖、屈辱たるや――
「……ふざける、なッ!」
マルファスは自らの左手に突き刺さっていた短刀を逆の手で強引に引き抜くと、そのままユノ・アスタリオに向けて投擲した。
それが時間稼ぎにしかならないことをマルファスは知っている。
それからすぐに両腕に力を込め、マルファスは再び夜空へと飛び上がり、背中から鳥のように大きな二枚の翼を出現させた、その時。
突如としてマルファスの眼の前に現れたユノ・アスタリオが、無言で右足を振りぬいた。
強い衝撃と同時、マルファスは再び地に伏していた。
「……」
マルファスは思う。
(……不可能だ)
撤退。いいや敗走がどれだけ困難であるかをマルファスは痛みよりも先に知った。
同時に様々な考えが、まるで走馬灯のように浮かび上がっていく。
(まさか、これほどとは)
野良神の騎士。
自ら口にしたものではあったが、言い得て妙だとマルファスは改めて思った。
同時に、新たな疑問も生まれていく。
いったい、これは。この茶番はいつから仕組まれていたものなのか――。
「…………」
野良神の存在。それに連なった自らの仮定。
その真実に。正解に至る存在が、今、目の前にいるのだ。
しかし、新たな興味を探求することは、叶いそうにない。
ざくり。
ざくり。
ざくり。
足音が、近づいてきているのだ。
「………………フッ」
マルファスは笑うように鼻を鳴らした。
自らを終わらせに来る足音を聴きながら、一瞬だけこの状況から脱する方法が頭の中に生まれていたのだ。
例えば、自らの正体を明かしてみせるのはどうだろう――と。
当然、ここでの行いを正当化する面倒はあるとはいえ、英雄神の一柱である自分の存在を軽視できる者などいるはずがない。
だが、その結論にいたったときに、唯一の例外があることも理解していた。
だから、笑わずにはいられなかったのだ。
その例外こそが、奴なのだから。
「……終わりだ」
感情を感じさせない、冷たい声色。
最後に、マルファスが頭に思い浮かべたのは――自らの手で汚すことのできなかった美しい白銀の髪をした――。
――――――――――。
それは刹那のできごとだった。
マルファス自身にとっても予想外のできごとだったのだろう。
それは大きく見開かれた、眼が如実に表していた。
ユノ・アスタリオが短刀を振り下ろすよりも早く、突如として現れたその大きな黒い穴のようなものが、マルファスの身を無くなった足元から飲み込んでいく。
「ッ――!」
焦ったのはユノ・アスタリオだ。
その黒い穴ごと切り裂こうと、短刀を瞬時に振り下ろす。
自らの身体が吸い込まれていく不思議な感覚に心地よさと安堵を抱きながら、マルファスが、その場で最後に目にしたのは、先ほどまでのものとは真逆のもの。
怒りと焦りに満ちた、少年の表情だった。