93話 「己己」
【sideランス】
『それは僕の役目だ』
穏やかな音を宿して耳に届いたユノの声。
それでもボクの指先は求めるように彼の背中を追った。
――止めるべきだ。
使命感にも似たそんな思いは、次の瞬間に消え失せた。
『すぐ終わるから』
そう言ってニッコリと微笑むユノを見て。
「――――」
ボクはまるで、時間が止まったかのような錯覚をした。
全身が粟立つ感覚と……それから、心臓の鼓動。
耳の奥から絶えず聞こえてくるその音を聴きながら。
ボクは、ただ、ただ恐怖した。
おかしな話だった。
だってボクはこの場に来た時からずっと恐怖していたはずだ。
黒く揺らめく炎のような影。アレにボクは敵わない、それが分かっていたから。
あの感覚は知っている。濃密に香る死の予感。
誰だって、怖い……怖いはずだ。
それなのに――ユノの笑みは、そんな恐怖をたやすく超えてきた。
……知らなかったんだ。
人間というのは、むせ返るような殺気と、膝が震えてしまうほどの魔力が広がるその中で、あそこまで穏やかな笑みを浮かべることができるのだろうか。
未知の『違和感』それから…………筋違いな『期待』
それらがボクの恐怖の質を変化させた。
頭の中がごちゃごちゃになっていくのが分かる。
――だから、錯覚だと思ったんだ。
手を伸ばすのを躊躇うほど、隙の無い背中。
「……ユ、ノ?」
その背中を、ボクは一瞬で見失ったのだ。
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【sideマルファス】
油断は無かった……とは言いがたい、が。
「……おもしろい」
消えた。
そうぼんやりと思い浮かべた次の瞬間に、私の右腕は吹き飛んでいた。
業腹なことに痛みも多少ある。だが、これは罰として受け入れよう。
敵などいないと、目測を誤った私への罰。
当然、致命の一撃には程遠い。私にとってはかすり傷のようなものだ。
時が経てば、すべてが無かったことになる。その程度の傷だった。
消失した腕の先を眺めながら、私は何度も思う。
「……」
大した傷ではない。
油断が生んだ傷なのだ。
動揺など――
………………。
「…………貴様……」
冷静になる必要がある。
なにも辺り一面を焼け野原に変えたいわけでは無いのだ。
契約もある。可能ならばあまり大事にはしたくないというのに。
「なんだ……その顔は……?」
背後に立ち追撃もないまま、背中越しに私を見る小僧の顔。その表情が、私を急き立てる。
私の右腕を切り飛ばしたのだ。
神である、私の腕を。
知らぬとはいえ称賛ものだ。偉業と言える。伝説にもなり得よう。
それなのに。その男の顔には、『無』があった。
ただじっと、私を見つめる黒い瞳。その表情。
そこに喜びはない。
動揺も、悲しみも。
怒りも、恐れすらも。
まるで、それが――
「当たり前だとでも……言いたいのか?」
返答は、無い。
「……」
…………いかんな。
どうも頭の回転が速すぎるというのも考えものだ。
手に取るように、答えが分かってしまう。
被害妄想? いいや違うな。
二度は間違わん。声にならずとも、良く分かる。
「…………人間如きが」
…………ルシファー様。お許しください。
「……すぐにくたばってくれるなよ」
私は、自分を、抑えられない。
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【sideクロエ】
思わず耳を塞ぎたくなる大きな音と。
「…………」
思わず目を閉じてしまう程の眩しさ。
その繰り返しの中で、わたしは自分の目を疑っていた。
「……あ……え?」
唇が震えているのが分かる。
けれど、そんなの当たり前だ。
黒い影。
わたしはアイツの脅威を……強さを知っている。
自分が今、こうして足で立って……生きているのが奇跡だということも、もちろん理解している。
だから、こそ。
「……ユノ……?」
目の前の現実を受け入れられない。
飛び交う光の雨の中、その男の子は駆けていた。
それこそ、目で追うのがやっとな程のスピードで。
「……」
勘違いじゃなければ、ユノはあの化け物と対等にわたりあっているように私には見えた。
「……ッ」
黒い影と向き合った時の恐怖。思い返すたびに、体が震えた。
そうだ。あれはわたしたちじゃ、どうにもできない化け物のはずで。
…………じゃあ、それと対等に戦っているユノは?
今すぐ誰かに答えを教えてほしくて、わたしの目はさまよった。
その先で。目を見開いて固まっているランスの横顔をみつけて。
「…………そっか」
わたしはようやくこれが夢ではないことを知った。
「クロエねぇ、おれ、なにがおこってるかわからないんだけど……」
わたしの顔を横から見上げるようにして、ヨハンが不安そうな表情で言う。
安心してほしい。
「……大丈夫。わたしもだから」
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【sideフィーア】
到着してすぐに、私は視界に映った光景から状況を推測した。
子供たちを守るようにして立っているクロエ。
固まったように動かないランス。
そして――。
「……」
ユノ君に対して驚きはない。
それよりも、彼と対等に渡り合っている黒い影の正体を私は考え始めていた。
…………いいや、嘘ね。驚いている。
彼が、ユノ君が強いなんてこと、私はとっくに知っていた。
……正しくは、知っていると思っていた、のでしょうね。
「まさか、これほどとは」
彼の実力を知る度に、私は自分の不甲斐なさと、ロイド様への底知れぬ恐怖を感じてしまう。
さすがは特異点? ということなのかもしれない。
「……」
私は状況の詳細を知るために、静かに足を進める。
そうして近づいてきたランスの背中に問いかけようと、私が口を開いた瞬間だった。
「……フィーアさま」
小さな声だったけれど、彼はたしかに私の名前を呼んだ。
「……ボクは……止めるべきだったのでしょうか?」
「……」
じっと前を向いたまま動かないランスの背中。
私はなにも答えない。
その問いの答えを、きっと質問した本人も知っているから。
「……フィーアさま」
ランスはぎこちなく視線を私へとよこした。
「彼は……ユノ・アスタリオは……何者ですか?」
「……」
「暗部のルールは知ってます。秘匿すべきことも。聞いちゃいけないこともあるって」
ランスの瞳が、私をじっと見つめている。
驚き、不安。それから期待。
……表情には気をつけなさいってあれほど言ったのに。
けれどそれを責める気にはなれなかった。
「……」
私は小さくため息をついてから、少し間をおいて、ランスに告げた。
「彼の名はユノ・アスタリオ」
もったいぶるように前置いて。
「そして…………数字持ち」
ランスが目を見開いたのが分かった。
「序列は――」
――私はその数字を口にした。