91話 「輪舞」
――「……悪魔」
クロエの口から歯を食いしばるようにして放たれたその言葉を耳にしてすぐ、マルファスは歪な笑みをその顔に浮かべていた。
『……』
それを確かめるようにして、自らの白い指を口許へと添えてゆっくりとなぞり上げる。
(………………笑っている)
不思議な感覚だった。
小馬鹿にしようと笑っているわけではないのだ。
だからこそ、この笑みが、高揚が、自然と沸きあがってきた感情なのだと分かる。
この時マルファスの胸中に渦巻いていたのは、目の前の少女への感嘆。それと、郷愁にも似た胸の高鳴りだった。
おかしな話だとマルファスは思う。
『神』である自分に向かって、『悪魔』などと言い放たれて、抱いた感情が歓喜なのだから。
当然、目の前の少女も何か確信があって口にしたわけではないだろうことをマルファスは理解している。
状況が造り上げたもの。その答えが『悪魔』だったというだけの話。
『………ふふ』
分かっている。そんなことは分かっているのだ。
そうだとしても――とマルファスは思う。
少女の出した答えに寄り添わねばならない。
少女が夢想しているのは、きっと英雄譚なのだ。
今にも擦れ切れてしまいそうな心を必死に奮い立たせ、震えた膝を気づかれまいと強がって魅せている。
なるほど、ただの愚かな人間ではないことは分かるのだ。
強がってみせるだけの最低限の実力も有している。
しかし何よりも――とマルファスは更に興奮を強めた。
高みを見上げ、月の光を映して輝くクロエの瞳。
マルファスはその瞳をたまらなく愛おしく感じていた。
言葉にせずとも伝わってくるものがあったのだ。
恐怖、と責任感。
それを天秤に乗せて揺らめく、覚悟の炎。
それがマルファスの心の奥のナニかを疼かせる。
『ふふ……ふははっ』
ああ――忘れていた、とマルファスは自嘲した。
昔からそうだったのだ。
はるか昔から、そうだった。
『これが本能』
やはり肩書を変えても、自分は自分なのだ、と。
好きなものは、変わらないのだ、と。
『故に――』
――渇望する。
天秤の傾きを。
あの健気に強がる表情が、恐怖に歪むその瞬間が、今はたまらなく――
『ッ……見たいものだな』
腹を抱えてしまいそうなほどの衝動をこらえ、代わりに浮かべたのは冷酷な笑み。
マルファスはクロエに見せつけるようにゆっくりと胸のまえにうでを伸ばすと、おもむろに指を鳴らした。
パチン、と暗闇で音が響く。
その乾いた音を聴きながら、空気が変化したことをクロエは敏感に感じ取っていた。
「……ッ! みんな、私の傍から――」
――はなれないで。
振り向きざまにそう言葉にするよりも早く、クロエの瞳は子供たちの背後から迫る鳥のような大きな影を映した。
「ッ!」
咄嗟にクロエは右手に持っていた短剣を影めがけて投じる。
吸い込まれるように命中し影が霧散すると同時に、悪寒と怒りがクロエの全身を走った。
「……ッ……! 卑怯者ッ!」
マルファスを鋭く睨みつけ、クロエは怒声をあげた。
対して反応はない。夜空に漂うソレは、変わらず炎のように揺れるばかりだ。
しかし、不思議とクロエには分かった。
こちらを見下すアレが、今、楽しそうに笑っていると。
「……………………ふぅ」
焦りと怒りで混乱しかけている自分を律するように、クロエは深呼吸をして、自らの手元へ視線を流す。
(……投げたのは失敗だったかな)
得物を一つ失った、という現実がクロエに重くのしかかる。
しかし、だからといってあの状況で他にどうこうできたとは思えないのもまた事実。
「……」
クロエは視線をマルファスへと向けたまま、じりじりと地面に足を擦るようにして、子供たちの元へと後退した。
「……クロエねぇ……あいつ、もしかして悪いやつ?」
ぎゅっと、背中に誰かがしがみついてきたのが分かる。
クロエは振り返ることはしなかった。
ただ、背中に感じる重みをかみしめるようにして、精一杯明るい声色をつくってみせる。
「なにヨハン? 怖いの? いっつも生意気なこと言ってるくせに、こーゆー時だけお姉ちゃんって?」
ヨハン。
それがいつもクロエをからかう栗色の髪の毛をした少年の名だった。
「ちげーよ! そうじゃねぇって! ……クロエねぇ、あいつと戦うんだろ? 大丈夫なのかよ。たぶんやばいぜ……あれ」
「……へぇ? あんたも成長してんのね」
からかうように口にしたクロエだったが、内心驚いていた。
そして少しだけ後悔する。
背中から感じる重み、そして震え。
少しでもアレを感じることができているならば、怖くない筈がないのだ。
「……大丈夫だから」
最初に一言。
クロエはヨハンだけでなく、背後にいる子供たち全員に語り掛けるように声をかけた。
あとは、そうだな……と、クロエは悩む。
こういう時は笑顔の一つでもみせてやった方が良いだろうことは分かるのだ。
だが、アレから視線を逸らすという行為に恐怖を感じてしまっていた。
「クロエねぇちゃん……」
「お姉ちゃん」
自分を呼ぶ声がぽつり、ぽつりと増えていく。
恐怖は伝播するのだ。
それが幼い子供たちであればなおのこと。
(…………)
クロエは小さくため息をついて。
「大丈夫だから」
同じ言葉を、言って聞かせた。
そして、子供たちの方へと振りかえる。
「すぐやっつけるから。……怖かったら目、閉じてなさい」
クロエの顔には底抜けに明るい笑顔が浮かんでいた。
クロエに隙が生まれる。
しかし、マルファスは動かず、じっとクロエを観察していた。
(バカバカしい……が、その度胸には礼を尽くそう)
マルファスが指揮者のように腕をあげてすぐ、クロエたちを取り囲むようにしてマルファスの使い魔が顕現した。
人の身を超える巨体。鳥のような黒い影。
それらが翼をはためかせるようにして動き出し、規則正しく、クロエたちの周りを旋回し始める。
『さて、どうなることやら』
にやり、とマルファスは笑みを浮かべた。
まるで観客のような気持ちでいるのだ。
次の幕は、果たして喜劇か――惨劇か。
『踊れ』
ぽつりと一言。
それが開幕の合図になった。
次々と向かってくる目にも止まらぬその影を、クロエは斬り続けた。
時は止まらない。
秒針が進む毎、増えていく痛み。
だが、それでいいのだと、クロエは開き直った。
子供たちが傷つくよりは、ずっといい――。
そうして最後に、向かってきた影を切り伏せてすぐ、クロエは荒い呼吸をしてその場へ倒れこむようにして膝をついた。
額から絶えず流れ落ちるものが、汗なのか、血液なのかもクロエには判断がつかない。
「はぁ………はぁ…………」
身体が酸素を欲していた。
混濁していく意識の中でさえ、クロエの視線は未だ衰えぬ鋭さでマルファスへと向いている。
「クロエねぇ! 血が!」
誰かが自分の名前を呼んでいるのが分かった。
同時に拍手の音が、聞こえる。
マルファスは音もなく地上へと降り立つと、ゆっくりとクロエの元へと歩みを進めていた。
パチパチと手を叩き、祝福するように。
そうしてクロエの元までくると、見下ろしながら、心からの賛辞を贈った。
『お見事』
殺してしまってもいい。
そう思っての攻撃だった。
事実、そうなる可能性が最も高かったはずだ。
しかし、マルファスの予想は外れたのだ。
ましてや――
(人の身を保ったままだとはな)
この結果には素直に感心するほかない。というのがマルファスの正直な感想だった。
『機会をやろう。そうすれば命だけは助けてやる』
その言葉が本気だとはクロエは考えなかった。
「誰が……あんたの……言う事なんて……」
『なに。難しい要求ではない』
そう鼻で笑うように言って、マルファスは視線を寄り添うように固まっている子供たちへと移した。
『言わずとも分かるはずだ。自ら私の元へ降るというならば……この女の命は助けてやる』
耳鳴りにまじって聴こえてくるその声に、クロエは困惑した。
「……? あんた……なにいって……」
一体誰に向かって言っているのか――その疑問は、すぐに晴れた。
クロエを庇うように、一人の少女がマルファスの前に立ちふさがる。
霞む視界の中、クロエは見上げるようにして目を小さく見開いた。
「…………ネ……ム?」
白く細い両手を横に広げて、ネムは立っていた。
「……なに……してっ!」
クロエの声を切り裂くようにして、マルファスは高笑う。
『ふはははははははははははッ。そうだ。それでいい! 誰のせいでこうなっているのを理解する頭は残っているようだな』
「……あんた……何言って!」
『黙っていろ』
クロエの肩がびくりと震える。
クロエの声に返ってきたのは、身も凍るような冷たい視線。それと本気で憐れんでいるかのような声色をした声だった。
『哀れなものだ。何も知らぬまま…………何もできぬまま……ッ』
嘲笑交じりのその声に、クロエの中で何かが弾けた。
「…………」
たしかに、クロエには分からなかった。
この状況も、正しい選択も。クロエには分からない。
それでも、分かることがあるのだ。
自分の代わりに、ネムが犠牲になろうとしている。
――いいはずがない。
クロエは膝を震わせながら、その場へゆっくりと無言で立ち上がると自分をかばうようにして立っているネムの肩を強く引き寄せた。
「…………」
一瞬にして、立場は逆転していた。
ネムをかばう様に、クロエはマルファスの前へと立つ。
身体は絶えず震え続けていた。
それでも鋭く、マルファスを睨みつける。
それが答えだと示すかのように。
『……愚かな』
ただ、一言。それだけを告げて、マルファスは手のひらをクロエへと向けた。
『興覚めだぞ小娘。どのみち結果は変わらんと、馬鹿でも理解できるものを』
事実だ。
クロエが死のうと助かろうと、目標である野良神の運命は変わらない――はずだった。
クロエの抵抗。
その刹那の間が、命運を分けた。
始めその変化に、誰よりも戸惑っていたのは他でもないマルファス自身だった。
「……………?」
マルファスは小首を傾げた。
(………………なぜ……わたしは距離をとった)
眼前の景色が変わっている。
先ほどまで目と鼻の先にいたはずの少女の姿が、今はあんなにも遠くある。
それだけではない。
『……誰だ……お前たちは……』
舞う砂煙の中、マルファスは突然現れた二つの人影を、視界にとらえていた。