90話 「白夜」
視線の先にあったのは絶望だった。
「――――」
全身から感じる鈍い痛みをこらえながら、浅く繰り返していた呼吸がピタリと止まる。
吐息一つ。クロエの目がとらえたのはその微かな動きすら躊躇わせる存在だった。
だが、意図せずに震える身体はどうやっても抑えようがない。
せめて、と半ば恐怖で混乱しかけながらも、クロエは強く歯を噛みしめた。
ソレを一目見たとき、クロエがまず初めに連想したのは炎だった。
だが、しかし。ただの炎ではない。
――炎が黒いはずがないのだ。
その色を黒とするならば、このカンナの街に降りる夜の帳など昼間に等しい明るさといえた。
闇夜に灯る、深淵。
夜空を背景にその漆黒の炎は微かに人型の形を保ちつつも、不気味に、されど静かに揺れていた。
「…………」
一目見たときに己が敵う相手ではないことをクロエは悟った。
先の閃光が攻撃なのだとしたら、自分では手に余る。一度防いだのだからもう一度――などと楽観する範疇を超えていたのだ。
それは未だに酷く痺れている両手が間髪なくクロエ自身に訴え続けている。
では、どうするか。
「……っ」
呼吸すらままならない緊張と恐怖の中、クロエは考えなければいけなかった。
いいや、選択肢としてもっとも適当なものには最初から検討がついている。
――逃げるべきだ。
戦う、などという考えは最も愚かな選択であるということに、クロエはとっくに気づいている。
だが、しかし。
「……」
強張った体を無理やり動かすようにして、クロエはぎこちなく背後へと振り返る。
視線の先。そこには未だ呆然と立ちすくむ自分よりも幼い子供たちの姿があった。
「……っ」
クロエは息を飲んだ。
視界に映る子供たちの誰一人として、この状況を理解していないことに気が付いたのだ。
確かに怯えている者もいた。だがそれは自分たちの家が破壊されたことに対しての恐怖と混乱によるものであろうことは明白だった。
事実、十人ばかりいる子供たちのほとんどが不思議なものを見るような目で、クロエですら視界に入れるのを躊躇うそれを、不思議そうにじっと見つめたままでいる。
誰一人として気づいていないのだ。
恐怖すべきは、過去の現象ではなく、視界でゆらめく黒い影なのだということに。
偽りの恐怖。
果たして、それは幸せなことだといえるだろうか。
クロエにその答えは分からない。だが、同時に理解してしまった。
――逃げることは、できない。
一人でならば。クロエだけならば、ともすれば逃げきることもできたかもしれない。
少なくとも可能性でいえばあり得なくはない話だった。
しかし、子供たちを置いて逃げ出す、などという選択肢はクロエの中には存在しない。
クロエは震える口許から小さく息を吐き出した。
「……ふぅ」
恐怖は未だ消えない。それは震える身体が如実に表している。
だが、――覚悟は決まった。
「……」
クロエは未だ感覚の戻りきらない両手で力いっぱい短剣を握りしめると、夜空に浮かんだままの影を睨むようにして仰ぎ見た。
そして気づく。炎のように揺らめく漆黒の影に眼のような赤い二つの光があることに。
「…………………はは」
気づけばクロエはぎこちなく笑っていた。
おとぎ話に出てくる異形の化け物に重ね観ていたクロエにとって、目が二つあるということ。たったそれだけの事実がなんだかたまらなく可笑しく思えたのだ。
(なんだ……)
クロエの口の端が吊り上がっていく。恐怖を塗りつぶす狂気にも似た闘気がクロエに宿った瞬間だった。
「わたしと一緒じゃん――ッ!」
そして、両手の短剣を構え姿勢を低くしたクロエの様子を、黒い影――マルファスは興味深そうに眺めていた。
最初にマルファスが放った攻撃は間違いなく人間にとっては致命的なものであったはずだった。
眼では追えぬ速度と、直撃を許せばチリ一つ残らないほどの威力を持つ光線。
只人であれば自らが死んだことにも気が付かないまま消滅するはずのソレを受けてまだ、立っている者がいるのだとすれば――
『――只人ではない、ということになるのだろうな』
黒い靄で覆われた顔のその奥で、マルファスは歪に口の端を吊り上げた。
手間が増えたという煩わしはあるものの、予想外の出来事にマルファスははっきりとした興味を抱いていたのだ。
同時に、称賛もしていた。
少なくとも、対話を試みようとする程度には。
『お前は――』
マルファスが問いを投げかけようと口を開いた瞬間だった。
「あなた、何者?」
『…………』
鋭い視線と殺気がマルファスへと向けられる。
クロエの声を最後に場につかの間の静寂が訪れた。
それを裂くようにしてパチパチと手を叩く音が闇夜に響き渡る。
そして――
『素直に褒めるべきなのだろうな』
「ッ……!」
クロエの肩がビクリと震えた。
半ば確信をもっての問いかけではあったが、本当に返答があったという驚き。
そして男の声だと断定するには不明瞭に響く不気味な声。
鼓膜にこびりつくようなその声が、再びクロエの膝を震わせる。
それを悟らせまいと、クロエは鋭い視線をマルファスへと送り続けた。
『……私が何者か、か。逆に問おう。お前にとって私は何者であるのかな?』
謎かけのようなその問いに、クロエは思考を巡らせた。
――『魔獣』ではないような気がした。
少なくとも会話ができる魔獣をクロエは知らない。
――『化け物』では曖昧だと思った。
答えとして適切な言葉がきっとあると――そう思って――ふと頭に浮かんできたのは追憶の記憶。
幼き日から大好きだった英雄譚。
神々による救いの物語。
敵はいつだって『縺ゅ¥縺セ』だったから。
クロエはその言葉を、静かに口にした。
「……悪魔」
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