88話 「追ったモノ」
「――ランス?」
発した声は風の音にのまれて消えていく。
あまりにも意外すぎる現実は、僕をはっきりと動揺させた。
事実、こうしてお互いに相手を認識したというのに、僕の手にした短刀の刃は相手――ランスの首筋に当てられたままだったし、攻撃を避けようと仰け反ったランスの持つショートソードの切っ先も変わらず僕を向いたままだ。
いいや。そんな現状に気がついたのも、本当はもっと後だったのかもしれない。
「……いや……え?」
はっきり言おう。
僕は混乱していた。
事前にいろいろと想定してはいたものの、まさかランスが追跡者だとは夢にも思わなかったのだ。いや、たしかに暗部関係ではあったんだけど。
「「…………」」
ただ、驚いている、という意味では恐らく目の前のランスも同じなのだろう。
目を見開いたまま一切の動きを止めて固まっている。
何かを言おうとしているのか小さく開かれた口許が時折震えているように僕には見えた。
――不意に。
不可解な状況にいる僕らを月明かりが照らしだす。
それがランスの浮かべていた驚愕の表情をより一層際立たせた。
……僕も同じような顔をしているのだろうか。いや、今考えなければいけないのはそんなことじゃない。ひとまずこの状況をなんとかするべきだ。
僕は敵意が無いことを示すためにランスから二歩後ろに下がると両手を軽く上にあげながら。
「ごめん、まさかランス――」
「偶然なんだ!」
僕の言葉にかぶせるようにしてランスが焦った様子でそう口にした。
「い、いや、偶然というよりは、君の姿を見かけたから」
――つい。
小さな声だったけど、最後にそう言ってランスはうつむくようにして視線を自らの足元へやった。
「……」
いや、分かる。たぶん気まずいのだと思う。
僕もそうだ。当たり前だが追手がランスだということが分かっていればこんな状況にはなっていない。はたから見れば知り合い同士でシリアスを演じたようなものである。
……整理しよう。
つまり簡潔にいってしまえばこの状況……僕の勘違い、ということになるのではないだろうか?
偶然僕の姿を見かけたランスが追ってくる。そしてそれを僕が勝手に尾行者だと勘違いしての今だとすれば。
「……」
身体が熱い。
「い、いや、ごめん、本当に。まさかランスだとは思わなくて。わざとじゃないんだ」
謝るしかない。
尾行者に気づいちゃう僕も捨てたものではないのでは? とか思っていた自分がとても恥ずかしい。きっとそれなりに得意げな表情をしていたことだろう。
よくよく考えてみれば敵意が無かった時点で感付くべきだったのかもしれない。
やっぱ僕、こういうのには向いてないな。
「ほら、今夜はランスたちの拠点に案内してくれるって話だったし、少し気を張っていたんだ。逃げる前に声をかければよかった。いやー、まさかランスだとは」
はははー、などと笑みを浮かべてはみたものの、この場を包む静寂の中では空虚でしかない。
それどころか僕の言いわけを聞いて、再びランスは目を見開いて驚いていた。
それから少しして、おもむろにランスは静かに剣を鞘におさめると、自らの首に手をやりながらかぶりを振った。
「…………いや、ボクこそすまない。気づいたその時に声をかければよかったんだ」
そう言って僕の顔をまっすぐ見つめて微笑むランス。
気まずかった空気が少しだけ明るくなった……気がする。
いや、都合よく考えすぎだろうか? などとあれこれ考えていると。
「……なにはともあれ合流できたことだし、行こうか」
そう言って歩き出したランスの背を追うようにして、僕は再び足を進めるのだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
――魔が差したのだ。
それ以外に、理由が思いつかない。
ランスはユノ・アスタリオを導くようにして月あかりを頼りに暗がりを歩きながら、自らの拳を固く握りしめていた。
「……」
白々しくも口にしてしまった『偶然』という嘘。
いいや、本当はどこからが嘘なのかランス自身も曖昧だった。
はじめは好奇心だったように思う。
ユノをたまたま見かけた。
それは本当のことだ。なにも最初からユノの後を密かに尾行すると決めていたわけでは無い。
しかし、結果だけ見れば、ユノの後を追うという行動に出たのは自らの意思であり事実だった。
明確な理由など、無かったのかもしれない。
ユノ・アスタリオの信用性を高めるため。
自分の成長を確かめるため。
――ユノ・アスタリオの実力の一端を確かめるため。
今更になって考えるとどれも理由になりえるのだ。
しかし、どうであれ謝らなければいけないのは自分の方なのだということをランスは理解している。どんな理由があるにせよ友人を尾行したという事実は――
――違う。
いいや、それもある。しかし違うのだ、とランスは頭の中で同じ結論を反芻させた。
気づかないようにしていても、どんなに目先の考えに思考を割いても、その事実からは逃れられない。
――なぜボクの体はこんなにも震えているのか。
「……」
再びランスは拳をぎゅっと握りしめた。
そうでもしなければ、今すぐにでも自分の首が本当に繋がっているかを確かめたくなる衝動に駆られてしまう。
ユノ・アスタリオと相対した時に感じた、既知の感覚。あまりにも濃密な死の予感。
もしも、あの時ユノにその気があったなら、自分の命はとっくに無かったであろうことをランスは正しく理解していた。
そう。だからこそ問題なのだ。
虚をつかれてのことだったのは認めよう。面白半分の尾行に加え、目標を突然見失ってしまったことへの動揺。その最中のできごとだった。
背後への対応が遅れたことは自覚しているし、たとえ相手がユノではなくクロエだったとしても同じように危機的状況になったであろうことは容易に想像できている。
そう。だから、考えなければいけないのはその直前のことだ。
何度もランスは思い返した。
油断していたのは事実だ。
いや、はっきりと認めてしまおう。悪意は無いにしろユノを甘く見ていたと言い換えてもいい。
だから、話は簡単なはずなのだ。
油断していたから、で済ませればいい。いや、事実今でもランスはそうであった可能性が最も高いと踏んでいる。
それでも残った小さな可能性が、ランスを動揺させ続けていた。
理由は明白である。それが事実なのだとすれば、ユノ・アスタリオの実力は――。
「……」
脳裏に焼き付いて離れない黄金の瞳。そしてフィーアの影がユノに重なる。
納得できないというのであれば、今すぐ振り返って謝罪ついでに尋ねるだけでいいのだ。
――君は一体どうやって一瞬でボクの視界から消えたのか、と。