87話 「追われるモノ」
バキ――なんて乾いた音が響き渡った。
ビクリ、と肩が震えたのを自覚しつつ、月明りを頼りに足元へと視線をやってみる。
僕の右足は木片らしきものを踏み抜いていた。
…………。
普段は気にもとめないことに、意識を強く持っていかれる……そんな経験はないだろうか?
僕の場合、今がまさにそれだった。
足音だとか、物音だとか。
普通に生きていればそれらを強く意識する、なんてことは少ないはずだ。
けれど、この街は違う。
「…………」
おそるおそる周囲に意識を向けてみる。
案の定というべきだろう。
こちらを警戒するような視線がいくつも向けられていることが分かる。
物音ひとつ。
たいした音量ではないはずのそれが、ここまで注目をあびるのだ。
この街の静けさがよく分かる。
と、同時に――やはり異質であるということも。
「……ふぅ」
たまらず僕は小さく息を吐き出した。
突き刺さる視線、視線、視線。
それが視界のおぼつかない暗闇の中からやってくるのだ。
不気味に感じてしまうのも仕方がない。などと、思いながら僕は再び足を進める。
もちろん今度は足元に気をつけながらである。
月明りに照らされて青白く映る家々を視界に入れながら、僕は目的地への道すがらあれこれと頭の中で情報を整理していた。
まず、僕の現状だが、まだ暗部としての任務は無いに等しい状態だ。待機中と言い換えてもいいだろう。強いて言えば今日のようにランス達から街を案内してもらう、というのが任務に当たるのかもしれない。
野良神失踪の原因が作為的なものであったと判明していることをふまえれば、なにを悠長な……などと最初は僕も思ったが、原因は分かっていてもまだ犯人が絞り切れない状態では動きようがない、というのがロイド先輩の言葉だ。
ちなみに動きようがない、というのは恐らく僕だけに当てはまる言葉だろう。
実際、暗部構成員の多くがロイド先輩からの指示で、犯人の特定に動いているという話だから、見習いの僕ではその方面では邪魔になってしまう、という事なのかもしれない。
……。
静寂の中、大きな足音を立ててしまった僕である。
頷ける話だ。その手の訓練は受けていないわけだし。
……いや、でも頑張ればなんとか……などと、思考がぶれはじめていた時、ふと違和感を覚えて僕は足を止めた。
「…………」
一瞬どうするか迷って、僕はちらりと背後へ視線をおくる。
変わらぬ静寂と、暗がり中、月明かりに照らされる家々。
そして、いまだにどこからか僕を観察するように飛んでくるいくつもの視線。
その中でみつけた微かな、違和感。
「…………」
…………つけられている?
確証があってそう思ったわけではない。
ただ、なんというか。
歩くたびに生まれ途切れる視線の中で、変わらず同じ性質のものが、ひとつだけある…………ような気がする。
「……ふむ」
僕は腕を組んだ。
これが勘違いでないのなら、意外と僕も捨てたものではないのでは?
などと、考えたのは一瞬だけだ。
実際、本当に僕を追っている者がいると仮定すると、困ったなぁ、というのが正直なところである。
というのも、この手の事については心当たりがある。
これまで何度かランス達にこの街を案内してもらっている最中に、似たような話をいくつか聞いていたのだ。
聞いた話の多くはこの街の危険性についてだったわけだが、予想通りというか、なんというか。どうやらこの街では日常的に略奪をはじめとした暴力行為が後を絶たないらしい。
中でもそのターゲットとして子供が狙われる、なんてことも少なくないのだとか。
姑息な手ではあるが、反抗されて命を落とす可能性を考えれば、より弱い者を狙うというのは分からない話ではない。
ランスの言った弱肉強食の街、という表現にもうなずける。
……さて、どうするべきか。
僕は止めていた足を再び前へと進ませながら考える。
ルナにもらった短刀は懐にしっかりと忍ばせている。
自惚れるわけではないが、襲われたら対処できる自信はあるのだ。
問題は、そうではなかった場合である。
つまりは最後まで尾行だけが目的の場合。
僕的にはそっちの方がずっと問題である。
というのも、自分だけの話ではなくなるからだ。
僕が今徒歩で向かっているのは、はじめフィーアさんとツヴァイに連れられていった暗部の幹部たちが集会場として使用しているという幽霊屋敷だ。
僕はそこでランスと落ち合う予定なのである。
それに加えて、今夜はランス達の拠点へ赴く予定になっている。そこにはランスやクロエよりも幼い子供たちがいるという話だったし……。
……うん。
少なくともこのまま疑念を残したまま向かうのは得策ではないのは確かだ。
……まくか。
僕は近くの屋根の上に飛びあがると、そのまま屋根伝いに走りだす。
この暗がりだ。それなりに速く動けば僕を見失ってくれるはず。
などと、考えていたのだが。
「……」
静寂の中、風を切る音に混じって、僕のものではない足音がかすかに聴こえてくる。
本当にいたよ……という少しの驚きと共に、予想外の出来事に僕は気を引き締めなおした。
僕の目的はいるかもしれない尾行者をまくことだ。
だから、今もそうだが、足場にしている屋根を破壊しない程度にそれなりの速さで僕は走り続けている。しかも屋根の上を、だ。
それなのに途切れず続く足音。
その事実だけで、相手がそれなりに動ける人物であることが分かる。
ただ不思議なのはそうまでして執拗に追いかけてきているにも関わらず害意をまったく感じないという点だ。
略奪が目的なら、敵意や殺気なんかは漏れそうなものである。
いや……そう訓練されていると考えれば。
様々と浮かぶ可能性。
例えば、この街の中でも腕の立つ略奪者。
例えば、はじめてこの街を訪れた時のような暗部構成員による腕試し。
「…………」
――例えば――野良神失踪事件の――犯人――だとか。
足に力を込めて、僕は空へと飛び上がる。
そうして月を背に、眼下の暗闇に視線を走らせた。
視線の先ではさっきまで僕がいた屋根の上の近くで黒い影が呆然とたちすくんでいるのが見える。
……驚いているのだろう。
もちろんそれが目的の一つだ。突然の事態にどう対処するのかを確認したいという思惑がある。もし害意があるのであればいきなり獲物が消えたことになるわけだ。気が気じゃないだろう。
そこで敵意をむき出しにするようなことがあったなら、あとは簡単だ。
懐に忍ばせていた短刀を握る。
そして、このまま着地すれば、自然と背後がとれるというわけである。
我ながら、良い作戦だ。
対話が可能であればそのまま目的を聞くでもいいだろう。
願わくば争いは避けたい、なんて甘い考えを抱きながら僕は黒いローブを纏った人物の背後になるべく音をたてないように着地した。
瞬間。
振り向きざまに素早く僕へと切りかかってきた影を迎えるようにして、握った短刀を相手の首筋に添え――
「――――」
――たぶん僕たちは同じ顔をしていた。
風が同じ色をした僕らの髪を揺らす。
黒いフードに見え隠れしている鋭い眼光が、驚きに見開かれていくのが分かった。
お互いに切っ先を向けた状態のままで、僕は疑問をそのまま口にしていた。
「――ランス?」