86話 「幕があがる前に」
ざくり――と荒地を踏みしめる足音が暗闇の中で木霊する。
「……っ」
暗部の見習いであるランスは、自らが発したその音を悔いるように小さく息を漏らすと、確かめるように周囲に視線を走らせた。
「……」
異常は……ない。
少なくとも最初ランスはそう思った。
視界に映るのは変わらず酷く荒れ果てた家々ばかりである。
まだ日没して間もないというのにこの暗さだ。
活気を思わせる温かな光はどこにもなく、月明りに照らされて青白く映るその神無の街並みはランスのよく見知った光景だった。
重ねて思う。異常は、ない。
――故に、ランスは確信した。
(……くる)
ランスは自らの腰に差していた剣の柄に右手をそえたまま、息を殺した。
今この状況で、不用意に立てた足音一つ。
致命的だ。
それを見過ごす彼女ではない。
そうランスが脳裏に言葉を浮かばせたと同時だった。
「ランス! 後ろっ!」
飛んできた少女――クロエの大声がランスの鼓膜を叩く。
その声に応えるよりも先に、ランスは身を捻るようにして背後へと振り返った。
「ッ!」
暗闇に灯るように浮かぶ白い腕。その手が眼前へと迫る。
ランスは咄嗟に首を横に倒した。
鼓膜を裂くような風切り音と共に、頬にはしる痛み。
それを気にしている余裕など、ランスには無かった。
「く……ッ!」
辛うじて成した初撃の回避。
その代償に、ランスの体は意図せずにぐらりと傾いていた。
迫る地面。
一瞬の逡巡。
ランスは受け身を捨てた。
「……ふっ!」
斜めに傾く視界。暗闇の先。
ランスは祈りにも似た気持ちを抱えながら、体が地に伏すその時よりも早く腰の剣を抜き放つと、初撃が飛んできた方向に振り上げた。
攻撃の回避から流れるようなカウンター。
そこには確かに積み上げられたランスの戦闘技能の高さが窺い知れる。
しかし――。
「……っ」
手ごたえは……無い。振り上げた剣は空を切った。
半ば予想通りの結果ではあるが、それはつまりランスの失策を意味していた。
地をはうようにして、ランスは恐る恐る顔をあげる。
風の音が聞こえた。
彼女は、いない。
「回避は見事でした。ですが、己ですら望みが薄いと思う一撃に、あなたは命を預けるのですか?」
余裕を感じさせる少女の声。
耳を痛くしながらもランスはその言葉を受け止める。
同時に体を起こしながらも、声の出所を探ろうとランスは視線を周囲に巡らせた。
ランスとて理解している。
もしも彼女が。フィーアが本気であったなら既に自分の命は無かっただろう、と。
手を抜かれているのだ。
もちろん、悔しさはあるがそれよりも。
「……ふぅ」
ランスは深呼吸をした。
今はこの貴重な経験を糧にしようとランスは再び剣を両手で強くにぎりしめる。
「理由があるならば別ですが。あなたは違う。どうにかなればいい、などと祈って振られた剣など、私は少しも怖くない――」
「……」
淡々と紡がれるフィーアの言葉。そこに攻撃の意思が宿った、と感じたのは気のせいか。
否――ランスは確信をもって剣を構えて―――――空を見上げた。
満月を背に、影が動く。
フィーアは美しいその黒髪を風になびかせた。
「正解です」
優しい声色だった。
それとは裏腹に、ランスに向けて放たれた二つの暗器。
眼にも止まらぬ速度で迫るその二つの短剣を、ランスは一振りで弾き飛ばしてみせる。
瞬間、背後から弾いた短剣が地面に突き刺さる音が耳に届いた。
「…………」
それらをちらりと流し見ながら、ランスは額から汗を滴らせる。
直撃を許せばただではすまなかったであろうことは明白だ。
しかし、それはフィーアからの信頼の証でもあることをランスは知っている。
だが、知ってはいても肝が冷える思いであることには変わりない。
ランスは無言のまま、自分を見下ろすようにして屋根の上に佇むフィーアへと鋭い視線を向けた。
ユノ・アスタリオにこの街を案内しはじめたのと同じころから不定期に行われてきたフィーアとの模擬戦。
はじめ唐突にフィーアから提案されたそれを、クロエもランスも二つ返事で引き受けた。
まだどこの隊にも属していない見習いの立場である二人にとって、その提案がどれほど魅力的であったかなど想像に難くない。
拾った命で、生きるために磨かれた戦闘技術。
自分の為であり、そして家族の為のその力。
既にこの街に住まう荒くれ者たちに遅れは取らないどころか、勝っているという自信が、ランスにはある。
しかし、それだけではダメなのだ。
脳裏に刻まれた黄金の瞳。
もしも彼、ないし同じ戦闘力をもった相手が立ちふさがった時、黙ってその命を差し出すのか――?
答えは否である。
ならば、どうするか。
考えるまでもなく、己が力を高める必要性が二人にはあった。
その過程において、フィーアとの戦闘訓練がどれほど貴重なものであるかをランスは正しく理解している。
なにせ、いま相対しているのは、トラウマともいうべき絶対強者と同じ頂に立つ化物なのだから。
同時に――否が応でも気づかされる。
自分とフィーアの彼我の差。その壁の高さを。
今日を含めて幾度とあった戦闘中に、ランスの攻撃が一度でもフィーアにあたったためしはない。
しかも、一対一ではないのに、だ。
「……」
ランスの視線の先。
フィーアの背後から飛び上がるようにして人影が現れる。
「たぁー!」
クロエは宙で体を回転させるようにして、両手に握った短剣を連続してフィーアへと振るった。
「……っ!」
ランスの目からみても、それは見事な連撃だったように思う。
自分に向けられていたはず視線。その意識の外側からの攻撃。
少なくともこれまであった戦闘の中で、もっとも勝機を感じられた瞬間だった。
しかし結果は唐突にして終わりを迎える。
「――きゅ」
はじめにランスは耳にした。
小動物の鳴き声にも似たクロエの声を。
そして同じ瞬間といっていいだろう。
屋根の上でクロエの体がパタリと倒れる。
ランスは驚きに目を見開きながらも、必死に視線を周囲へと走らせた。
緊張で霞んでいく視界の中、ランスは思う。
――ああ。またこれだ。
幾度となく行ったフィーアとの戦闘。
その中で悟った戦いの真理とも呼ぶべき現象。
いや、思えば最初から――ずっと前からそうだった。
あまりにかけ離れた戦闘力の差は、こうして分かりやすく現実を伝えてくれる。
(なにも……分からない)
どうしてクロエが倒れたのかが分からない。
そして目を離していないというのにも関わらず突如として消えたフィーアの姿。
自分の終わりの瞬間を、容易に想像することができる。
同時に思うのだ。
これがひとつの目安になるのだと。
立ち向かってはいけない相手を見極めるには、これほど分かりやすい例はない。
目で追えない速度で動く相手など、自分たちでは、あまりにも遠すぎる。
ランスは手が真っ白になるほど剣を強く握りしめた。
(……まだ、ダメか)
そんなことをぼんやりと思いながらも、ランスは首裏に鈍痛を感じたと同時に、意識を手放した。
翌日の朝のことだった。
「ランスが足音立てるから!」
ガヤガヤと聞こえてくる幼い子供たちの喧騒に負けない大きさで、クロエが犬歯を口許にのぞかせながらそう言い放った。
不機嫌そうに頬を膨らませたクロエに視線をやりながら、ランスは苦笑いする。
前もってクロエと決めていたフィーアへの奇襲。その失敗の原因が自分にあることは認めつつも、心の中ではどのみち同じ結果だっただろうな、などと冷静に思いながら。
もちろんその事を伝えても、ただの言い訳にしかならないことをランスは理解していた。
「悪かったよ。足元に意識が向いていなかったんだ」
ランスはお手上げといった様子で小さく両手をあげてみせた。
そんなランスを片目でじとりと見たあと、クロエは小さくため息つく。
「……にしても、さすがよね。フィーア様。手も足もでないとは」
とほほ、と聞こえてきそう声色で言って、クロエは机の上に頬をぺたりとくっつけた。
「……」
恐らくは自分と似たようなことを考えているのだろう、とランスは思う。
実際、暗部に入ってからのランスとクロエはこと戦闘力においては飛躍的に向上した。
以前は怯えるだけだった街中でも、ある程度余裕をもつことができているのだ。
結果、今こうして少なくない人数の子供たちを庇護下に置いて活動することができている。
「……」
ランスは同じ室内のそこかしこで遊んでいる子供たちへと視線を流した。
ふとすればうるさくも感じるであろう子供たちの明るい喧騒は、ランスにとっては宝であり、積み上げてきた自信そのものだ。
しかし、その自信だけでは届かない領域があることもまた事実。
「そうだ」
唐突にクロエは机から上半身を起こすと、妙案を思いついたのかのように黒い瞳を輝かせた。
「今度はユノも入れようよ! 三人でやれば勝てるかもしれない!」
興奮を表すようにクロエの黒い髪がぴょんぴょんと跳ねている。
ランスは苦笑いしながら肩をすくめた。
「どうだろうね。一人増えたところでどうこうなるような相手じゃないと思うけど」
言葉は濁したが、事実、クロエの案では結果は変わらないだろう、というのがランスの本心だ。
確かに数の差は戦闘において有利に働くことがあるのは事実だが、圧倒的な個に対してはその限りではないことをランスは朧げに理解していた。
黙ってランスの言葉を聞いていたクロエだったが、ふと何かに気づいたかのように思案顔をして視線を宙にやった。
「……そういえばユノって、そもそも戦えるのかな?」
「……」
ランスは手を顎にそえるようにして閉口した。
クロエの言葉で、気づかされたのだ。
そういえば、これまで数回に分けてこの街を案内はしたものの、その間一度もユノが戦う姿を見ていない、と。
断っておくが、なにもそれがおかしいということをランスは言いたいのではない。
「いや……戦えない、なんてことは無いだろうけど」
恐らくは自分たちと同じ見習いという特殊な立場での入隊であろうことは想像できる。
しかし、これまでユノがどれほどの戦闘力を有するのかを真面目に考えたことが無かったのだ。
「自分で言っておいてなんだけど、あんまり期待できそうにはないかな。ユノやさしいし」
そう口にしてあははーとクロエは笑う。
やさしさと戦闘力にどんな関係が? とランスは口にしなかった。
「……どうだろうね。少なくとも暗部に入るだけの力はあると思うけど」
そう言葉にしながらも、ランスもクロエの言葉に半ば同意していた。
まだ日が浅いとはいえ、ユノのひととなりを少しは理解したつもりだ。
そこに好ましさは感じていても、戦闘力の面では自分たちとそう大きく違うことはないだろう――というのがランスの推測だった。
「……あ」
ランスが唐突に呟くようにぼそりと声を漏らした。
ランスは「そういえば」と前置くと、室内にいる子供たちに声をかける。
「みんな、ちょっと聞いてほしい」
ランスの声に、子供たちはすぐに反応した。
一瞬訪れた静寂を塗りつぶすかのように、子供たちから「なにー?」と声があがる。
その声に応えるようにランスは口許に笑み浮かべると、優しい声色で告げた。
「もしかしたら近いうちにぼくとクロエの…………友達がここに来るかもしれない。その時はちゃんと挨拶をするんだよ?」
「「「「「…………」」」」」
子供たちはランスの言葉を聞いて近くにいた者同士で一瞬顔を見合わせると、有り余る興奮を爆発させた。
「まじでー?」
「ランスにともだちいたのー?」
「こら! ランス兄ちゃんでしょ?」
ギャーギャーと騒ぎながら狭い室内を駆け始める子供たちと、その背を追うクロエ。
その光景を眺めながら、ランスは思う。
一人でも多いほうが良いのだ。
この笑顔を守ってくれる存在ならば。
少なくともユノに害があるとは思えない。
本来であれば、自分たちの心臓、拠点とも呼べるこの場所に人を招くのはリスクだということも承知している。
しかし、彼ならば――そう思えるほどにはランスはユノに少なくない好感を抱いていた。
「「……」」
ふと、ランスの視線がある一点を向いたまま釘付けになる。
視線の先には眠たそうな目をした少女が一人。
「……ネム。明るいうちにくるなんて珍しいね」
そう語り掛けるようにして口にして、家の入口から顔を覗かせていたネムの元へと近づくと、視線の高さを合わせるようにランスはしゃがみ込んだ。
肩より先に伸びた癖のある紺色の頭髪。
そして眠たそうに開かれている暗い紫色の瞳もつ少女――ネムは、変わらずじっとランスの目を見つめていた。
「話は聞こえていたかい?」
「……」
反応は無い。
ランスは先ほどと同じ話を、ネムに語ってみせた。
「――もし会ったら……そうだな。……いや、うん。悪い人じゃないのは保証するよ」
話が通じているのかは不明である。
「「……」」
しばらく無言のまま見つめあう二人だったが。
「……理解……できたかな?」
そのランスの問いにネムは眠たそうな瞳を一度パチクリと瞬かせると。
「……(こく)」
ゆっくりとした動作で、首を縦にふったのだった。
今話で幕間含めて記念すべき100話目となりました!
掲題の通り一つの区切り、そして三章終幕へ向けての始まりとなっております。
おもしろい! 続きが読みたい! と思ってくださった方がおりましたら、ブックマークや↓にある☆を押して、応援していただけますと幸いです。引き続き何卒よろしくお願いいたします!