相違
握りこぶし1個分ほどの心臓。行儀よく体の中に収まったそれにも、血が巡っているらしい。
4つの部屋。そこに幽閉されたのは、一体なんだろう。感情か、願いや祈りか。愛した者か。分からないということだけが、今の私には分かる。
「愛は、紅いかんじがする」
由宇が制服のタイを指差し、言う。愛は私じゃなくて、きっと感情のことだ。まっすぐ伸びた人差し指には絆創膏。私は紅より、血小板が色付ける血液のような、誰の体にも流れているものだと思う。
「愛って」
「愛だよ? 貴女。君。you」
「私、なの」
「うん」
きょとんとした顔で、当然でしょと唇が動く。当然ではもちろんなくて、紛らわしくて思考をやめた。私は紅いかんじがするのか。私にはよく分からないけれど、由宇はそう考えている。
「愛は、澤村愛は愛のことをどう思うの?」
「私がどう思うか?」
「そう」
由宇が少しだけ笑う。白い歯が見えて、それは骨だっただろうかと、一瞬だけ、思考がとまる。前の授業が理科だった。
「私は」
私だ。澤村愛という記号を持った、1人の人間。
「感情のことだよ」
瞳が揺れた。気がする。多分。でも、きっと気のせい。由宇は真剣な顔をしていて、どこか死にそうだった。死を覚悟して、受け入れたような澄んだ顔。何を考えているのだろう。私の言葉に、思考に、何を望んでいるのだろう。知りたくないと、思った。
「……あ、」
教室から出払っていた運動部が、部活ごとに連なって帰ってくる。陸上部である雪名も、自分の席めがけて帰ってきた。今は由宇が座っていることを認識して、私の前の席に腰掛ける。
あっという間に声で溢れた狭い空間。どうだったの。なんだったの。聞こえる質疑は私と由宇の口から発せられない。どうだった。こうだった。雪名も何も、言いはしない。
私たち3人の関係性というものは、一般的に見ると少しおかしい。友達と表記されていてもなんの抵抗もないけれど、進んで友達ですと公表してしまえるほどの仲でもなかった。私たちは私たちの中の組み合わせで、関係の名称が変わる。3人揃っているときに、友達という括りで括ることをしていないのが私だけではないと、疑うこともない。
歪んでいると誰かが言った。空耳だ。優しく穏やかな声色の。子守唄とニュアンスが似ている。眠たくはならない。子守唄で眠りについた経験が、私の中になかった。子守唄ならば国語の授業の方がよく眠れる。基本的に、彼女の授業はつまらない。
「桜庭一樹の」
由宇が口を開く。たまたま思い出したような、口から飛び出したような声が、騒がしい教室に落ちる。
「愛が読んでいた本」
「七竃?」
「それかな」
狂うほどに愛した男はまだいない。私には。心臓に閉じ込めたいと思ったこともない。7人の大人たちよりも、可愛そうなのは少女と少年だ。少女と少年は、互いを閉じ込めたいと思ったのだろうか。
「少女七竃と7人の可愛そうな大人」
タイトルを言ったところで、雪名はピンときていないようだった。人間失格を読んで、病みすぎて死にたくなったらしい雪名は、きっとあまり活字に強くない。
「分からなくても生きていける」
宇宙の真理でも考え込んでいるような、真剣な表情で唇を震わせた由宇。私に言っているような気がした。自意識が過剰な年頃だからかもしれない。気がしたのだ。ただ、それだけ。
由宇は笑う。何故だか分からない。雪名は少しだけ眉を下げた。私も、意図して口角を上げてみせる。
「愛、それ怖いよ」
「怖くない」
「怖ぇよ」
分からなくても生きていける。きっと私は生きていけない。分かりたいと思っていなければ、簡単に命を捨ててしまえるから。