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留年先輩、実家に帰る。   作者: 鎌田玄
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第一話 春岡爆心斎茜の朝は早い。

 春岡爆心斎茜の朝は早い。眠りこけている細くて柔な大黒柱、夫の春岡豊を起こすことから始まる。時刻は朝5時30分。ようやく小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる時間だ。

 若い頃は、それはもう残酷な起こし方をしたものだ。お尻の穴にチューブを通して空気を注入したり、バズーカ砲を持ち出して耳元でぶっ放したり…。

 そんな激しい爆心斎は、もういない。今や大学生の息子もいるのだ。豊の耳元に口元を持っていき、こう呟く。

「…ゆたかサン、もう帰っちゃうんデスカ。ワタシ、寂しイ…」

 冥府より深い眠りの底にいた豊は、もう50歳を超えたとは思えない俊敏な動きで、布団から飛び出し、フライング土下座をかましてきた。

「おはようございますッ。ご機嫌麗しゅうございますッ」

「あら、今朝は簡単に起きちゃって、つまらないなあ」

 爆心斎は、すくっと立ち上がると、本棚と机以外に何もない部屋を後にする。

 豊は、爆心斎の背中をじーっと追い、見えなくなるとホッと一息つくのだ。

(まだ、ロシアンパブはばれていないみたいだ…)

 ちなみに、先の爆心斎のつぶやきは、先月までよく通っていたフィリピンパブのジェシカちゃんの声真似である。身長がスッと高く、目鼻立ちもいい。身長が150センチしかない爆心斎と比べると、子供と大人のように見えてしまう。

 市役所を定時で上がった豊はいつものようにちょこっとフィリピンパブ『夢にかけられちゃった☆』に足を運び…そして、爆心斎に出会った。

「やあ」

「あ、あいむ、そーりー」

 その日以来、豊は毎朝のごとく偽ジェシカの怨念に起こされていると言っても過言ではない。

 と、まあ豊の説明はこのくらいにして、爆心斎の朝を追っていこう。


 次に爆心斎のやることは、朝ごはんを完成させることだ。どんなに日本が欧米化しても、春岡家は古き良き日本の食を大切にしている。

 今朝の献立は、十穀米とわかめの味噌汁、そしてシシャモである。手際よくシシャモをフライパンで焼き上げる。同時並行で、味噌汁の湯を沸かし、味噌汁とししゃもが出来上がる頃には、ご飯が炊きあがる。

 完璧な時間配分である。世のおかあさん、おとうさんは、一日に3回もこの時間マネジメントを行っているかと思うと、本当に脱帽しかない。

 爆心斎は三人分の食器を用意し、綺麗に盛り付ける。二つの茶碗には、小さな山を盛り、もう一つには、米粒を数個。もちろん、この茶碗は愛する夫のものである。爆心斎の怒りはひと月たった今も、収まることはない。彼女に、ロシアンパブのことを言ったらどうなるだろうか…キーボードを打つ手が震えだしてしまう…。

 最後に彼女は、二階の奥の部屋に赴く。ここまでが、爆心斎の朝の日課である。


 春岡希望は、都内の大学に通う4年生だ。今年は就職活動ということで、あらゆる企業を片っ端から見て回っている。有明のビックサイトで一斉に行われる説明会にも何度も足を運んだ。メーカーから食品、マスコミ、金融…などなど、人生で初めて日本を支えている無数の企業たちに触れてきた。

 時刻は午前6時。夏の朝は早く、もう日差しは部屋に差し込んでいる。目の下に真っ黒なクマを携えて、ベッドの上に正座している希望。目の前には、スマートフォン。

『お祈り申し上げます』

 通称お祈りメール。就職したいとやってきた大学生たちに、「あなたは私たちの会社にいりません」ということを伝えるときの最強にして最大の呪文である。

「ぐはっ!」

 口から思い切り血を吐いて倒れる、ような気分でベッドにダイブするこの男は、今年でもう22とは到底思えない。髪は就職活動のためにさっぱり切られ整えられているが、死んだ魚のような眼と、その下にある黒いクマは、とてもとてもさわやか系とは言うことができない。

 身長も170ないくらいであろうか、可もなく不可もなく。しかし彼の身に付けている服装が、ひどかった。

『働いたら負けかなと、思っているんじゃ! ボケ!』

 と、堂々と筆文字で書かれたダブダブのTシャツ。下は青い色のトランクス。就職しようとしている学生の本心が垣間見えるような気がする…。

「よし、決めた…この就職戦線から、離脱するッ」

 ガバッと起き上がり、右手を天高く掲げるこの男こそ、爆心斎の唯一の子供、春岡希望である。

 希望は、大きな旅行カバンを部屋の押し入れから取り出すと、自分のお気に入りのマンガや小説、それと衣服や、ゲーム機などをざっくばらんに押し込んだ。そして、カバンの上に馬乗りし、体重をかけて口を閉じる。

「おし、おし、おし…おっしゃ! 全部入った!」

 久しぶりの激しい運動だったせいか、肩で息をしながら汗をぬぐう。

 と、顔を上げた希望に、ある一人の女性の瞳が映り込んできた。

「佐和子…ごめんな、今日は、連れていけない…」

 カインズホームで、5000円で購入した茶色い布製のソファ。その上にだらしなくグデンと倒れている可憐な女性。遠くを見つめてはいるが、光はないつぶらな瞳。お山のように膨らんだ豊な胸。まるで妖精郷にも迷い込んでしまったかのように思わせる銀色の髪。

 そう、彼女こそが、希望の学生生活の希望であった佐和子(年齢未詳)である。またの名をオランダ製貴婦人。佐和子は、光のない瞳で希望を見つめている。

「ごめん…ごめんな、佐和子。必ず迎えに行くから…待っていてくれ」

 希望は、後ろ髪を引かれながら、パンパンに膨らんだ旅行カバンを引っ提げ、部屋を出ていく。


 希望の実家は、都内から電車とバスを乗り継いで2時間半ほどかかる集落にある。ド田舎という言葉もあるが、そこまでではない感じの町。山佐町。電車も1時間に1本しか来ないのが普通である。

 希望は、ガラガラの車内の椅子に座り、窓の外をボッーと見つめながら実家に思いを馳せていた。

(久々に帰るなあ…父さんは、生きているかな…)

 会う前から、父親の命を気にする息子。さすが、山佐町の悪魔と呼ばれた爆心斎の息子である。

(あ、そういえば、最近ウチに誰か暮らしているんだっけ)

 就職活動が本格化する3月。その前に、父親の豊から連絡が入っていた。

『お前の部屋の隣、倉庫だっただろ? そこ開けて下宿できるようにしたから』

『え!? ちょ! 父さん、あの事知っているでしょ!』

『もちろん。だから、そっとお前の部屋に隠しておいた。安心しておけ。もう入居するみたいだから、帰るときは楽しみにしとけよ』

『父さん、GJ!』

 といったようなアツイ男の友情を交えながらのやり取りがあり、どうやら希望の部屋の隣には誰かしらが暮らしているということになる。

 窓の外は、色とりどりの家々から、緑色の田んぼに移り変わっている。太陽の光が、緑一色の稲をキラキラと照らしている、水面に跳ね返る日差しが、車内に差し込んで、希望は少し懐かしい気持ちになってしまう。


 田んぼを走る二つの小さな影。一つは8歳の希望少年。もう一つは、黒い綺麗な髪をした少女。

 希望が物心つく前からいつも一緒であった。小川に行ってサワガニを捕まえたり、田んぼにいってカブトガニを捕まえたり、野原に行ってシオカラトンボを捕まえたり…。国語の授業でシオカラトンボのお尻は塩辛いという話を知った時には、少女が無理やり希望の口にトンボのお尻をねじ込んできたこともあった。希望はこの時の恨みを死ぬまで忘れまいと心に刻んでいる。

 その可憐な少女も、希望が大学に入ると共に疎遠になってしまった。希望が東京の大学に行ってしまったこと、そして少女の家族が海外に行く用事があり共に着いていってしまったこと。

 二つの理由が重なってしまい、どんどんと疎遠になってしまったこの4年間。

 しかし、実家に帰るたびに真っ先に思い出されるのは、その女の子だった。


 電車の速度が少しずつ遅くなっていく。

「まもなく、岩佐駅~岩佐駅~」

 車内アナウンスでハッと起こされ、懐かしい気持ちは一瞬で吹き飛んでしまい、いそいそと降りる準備をし始める。


 久しぶりに帰る我が家は、少しだけ小さいような気がした。

 希望は、玄関に立ち何度かチャイムを鳴らす。

 ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンピンピンピンピンポーン。

 誰も出てこない。

「…仕方ない、勝手口なら開いてるかも…」

 希望は、そっと裏口に回り、勝手口のドアノブを回してみる。

 果たして、ぎ~という錆びた音ともに扉は開いた。

 コソ泥のように家に侵入し、音を立てないように畳と掘りごたつのある5畳の居間を抜け、二階へと続く階段を上る。

 ギシギシと、40年以上の重みが奏でる音と共に、二階へと上がる。そこには3つの部屋があり、真ん中の部屋が希望の部屋であった。

「ただいま~」

 誰もいない部屋に入る。小学校2年生の頃に買ってもらった勉強机、マンガが8割を占める本棚、不自然に膨らんでいるベッド。…よかった何も変わっていない。ここ最近、就職活動で失格のレッテルを張り続けられていた希望にとって、時間が止まったような感覚を味わえる自分の部屋は、心に染みた。

 少し瞳を潤ませながら、持ってきた旅行カバンを床に置き、勉強机に腰を下ろす。

「よかった、何もかわってなく―」

『許可 爆心斎・検閲済 豊・検閲済 瑠璃・検閲済』

『要検討 爆心斎・検閲済 豊・検閲済 瑠璃・検閲済』

『不許可 爆心斎・検閲済 豊・検閲済』

 勉強机の上には、中学2年生の男子の目覚めと共に、ずっと集めていた秘宝たちが、綺麗に整えられていた。

「――ッ!?!?」

 希望は、まず真っ先に『許可』と書かれた束を手に取る。水着のお姉さんたちが、それはもうたゆんたゆんな感じで乱れている写真集であったり、雑誌であったりが束になって整えられている。

「は? ちょ、え…え…!?」

 加えて、ファミ通のゲームレビューのようにコメントが載せられていた。


『爆心斎 8点 隠し場所が倉庫というのが面白かった。

 豊   9点 あとでじっくり見せても―(血の跡が散見される)

 瑠璃  5点 年相応で仕方ないと思いますが、もう少し節度を持ってコレクションするべきかと思います。あまりにざっくばらんすぎます。(以下小論文のようにコメントが続く)』

 まだ、ここまではよかったが、『要検討』は酷かった。

『爆心斎 3点 さすがに生身の女性であって欲しかった。

 豊   回答拒否 大丈夫、彼女はきっとできるから。

 瑠璃  回答拒否 最後まで見せてもらえませんでしたが、途中まで見せてもらったところ、生物としての機能を失ってしまっているのではないかという危機感を抱きました(この後、ダーウィンの進化の起源の話から、生物学の講義が延々と続く)』

 しかし、一番驚愕したのは、コツコツと収集していた動画たちを収めたHDDの最期が書かれていた『不許可』の紙である。

 他のものは、雑誌たちが束になって整えられており、その上に『許可』や『要検討』の紙が挟まれていた。しかし、この『不許可』だけは、一枚だけ紙が置いてあり、赤い字でコメントが書かれている。

『不許可 HDDは破壊しました。 爆心斎 

     必死な抵抗もむなしく(紙にメガネが食い込んだらしき跡がある) こういうのはまだ早いと思うな。お父さん』

 希望は、絶望になった。

 もう齢22という、歴とした成人男性である。それがこの扱いだ。思えば、就職活動の面接もそうだった。

『ふ~ん、で? 君には何ができるの?』

『頑張るって…具体的に何をどう頑張るかを聞いてるんだよねえ?』

『君を雇うと、ウチにどんなメリットがあるのか教えてよ? ま、所詮学生だけどね』

 今まで、必死に心のやる気ゲージを+に保っていたが、もう限界だ。

 からげんきを振り回すのにも限界はあるんだ。

 絶望になった希望は、のそのそとベッドにまで這っていき、布団の中に潜り込む。

 ……。

(あ、あたたかあい)

 もう夏を迎えきった7月の終わりにも関わらず、そのお布団の中はイヤな温かさではなかった。むしろ、心地いい。頭のメモリ使用量が1パーセントを切った男は、奥へ奥へと潜っていく。

(ふかふかあだあ)

 体がすっぽりお布団に包まれる。その中には、温かく、そしてほわほわと柔らかな「なにか」があった。

 希望は、抱き枕よろしくその「なにか」をギュッと抱きしめる。

 ここ最近、嫌なこと続きだったなあ…でも、寝ちゃえば忘れちゃうもの…、と少しずつ体の力が抜けていく。指の先、足の先まで力が抜けていき、意識がぽ~っとしてくる。まるで、泥の船が水に溶けていくように、希望の体は眠りの底へ蕩け出していった。


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