それが嘘だと言えない
その少年は、美しい、嘘つきの瞳をしていた。
「はじめまして、刑事さん」
薄暗い取調室には不似合いな、えもいわれぬ透明感を全身から発している痩躯の彼は、無邪気な子供のような笑顔のまま私に言った。
その笑顔があまりにも晴れやかで、疚しいところなどひとつもないようで。
私は一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなったほどだった。
「櫻田、清純くん?」
何とか我に返り、名前を尋ねる。
無論、こちらは彼の名前も生年月日も細部に渡る個人情報もとっくに把握しているが、取調べる前に名前を尋ねることは私にとっては必ず行う儀式のようなものだった。
容疑者を一人の人間として尊重し、自白を強要するかのような言動や強迫的な態度をとらないように自分を戒めるための踏み絵のような、そんな儀式。
しかし、彼はそんな私の自戒の心情をあっさりと飛び越えた。
「はい、櫻田清純です。先生方からは櫻田、同級生からはキヨ、家族からは清純と呼ばれています。どれで呼んでいただいても構いませんよ。」
ニコニコと猫のような笑みを絶やさず、あっけらかんと自己紹介をする様に私は再び一瞬、気が遠くなった。
私は、今、どこにいるのだっけ。
ここは私が勤務するA県警M署の取調室じゃなかったっけ。
私は刑事の雪田千鶴であって、高校の新任教師じゃあないはず、だよね?
彼は先日の少女転落死事件の容疑者で、確か犯行を自白していて、決して新任教師に気を使う学級委員、じゃなかった、はずよね?
数回、内心で自問自答を繰り返した。
警察官になって八年、刑事になって三年。
こんなにも"らしくない"容疑者は初めてだった。
彼、櫻田清純は県内でも有数の名門私立校に通う二年生。
教師生徒保護者共に評判もよく、成績も生活態度も優秀で模範的。かといってガチガチの生真面目なタイプではなく、穏やかで明るくコミュニケーション能力にも長けておりクラスの中心的な人物だったと誰もが口を揃えた。
同級生先輩後輩問わず、女生徒にも人気があったという。
確かに一回り近く年上の私から見ても魅力的な、甘めのマスクの美少年だ。
猫のような目がかわいらしいが、鼻梁はすっきりと通っており、これで頭よし性格よしと来たら人気が出ないはずがない。
そんな彼が、同級生の少女を校舎の屋上から突き落としたというのだから、周囲のパニック具合は計り知れない。
私自身、今こうして彼と対峙してみても、何かとんでもない間違いが起きているのではないかという気がしてならないくらいだ。
更に、聞き込みの結果によると、彼が少女を殺す理由が「全く不明」なのだと言うから頭が痛い。
「あの櫻田が、というのはもちろんなんですけどね、刑事さん」
そう私に言い募った彼の周囲の人間は一人や二人ではなかった。
特に彼と被害者の少女の担任だったキューピー人形似の男性教師は、口から泡を飛ばしながら興奮気味に喋りまくった。
「神崎、あの、ひ、被害者の。神崎千空と言うんですけどね、あの子をその、ああする理由なんて、櫻田にはこれっぽっちもないんですよ。本当にこれっぽっちも」
玉のような汗をしわくちゃのハンカチで拭き取りながら、教師はなおも続ける。
「櫻田と神崎は、その、男女として付き合っているとかはもちろん、断固としてないですしね。友達としてすら、私の知る限りは付き合ってなかったはずなんです。これは確かなんです。なんたって神崎は、その、死者に鞭は打ちたくありませんが、その」
言葉を模索する様子からして察しはついていたが、要約すると被害者の少女はいわゆる「問題児」だった。
「母親が宗教狂いでしてね、父親は確か本当の父親じゃないんですよ。だからというわけじゃないんですがね、こう、わかるでしょう?家庭でちゃんと教育されていない、というか。成績はそう悪くはなかったんですが、生活態度のほうが、その」
「と、言いますと」
「ええと、要は櫻田とは真逆なんです。クラスにも馴染めていなくて、授業は上の空なことが多いし、体育や行事はいつのまにかふらっといなくなっているし、それに」
そのあたりで教師は言い淀み、眉根を寄せた。
そして私に少し身体を傾け、いかにもな内緒話という姿勢で続けた。
「こう言うとあれなんですがね、いじめの対象にすらならない生徒だったんですよ。みんな近寄りたがらなくて。というのは、一年の時の奇行が原因なんですが」
「奇行?」
「私の赴任前のことですから又聞きではあるんですがね。授業中に神崎が居眠りしてるのを見つけて、肩を叩いて起こそうとした生徒を、持っていたカッターで切りつけたんですよ」
思わず絶句した。
問題児どころの話ではないではないか。
「いえね、その生徒も怪我はしなかったし、本人も寝惚けていたとかで、大したお咎めはなかったんですが、ほら、生徒たちはね、やはりね」
だから、あの櫻田があの神崎と親しいなんてあり得ないんです。
それも、殺したくなるほどの関係があったなんて。
教師は、そう締め括った。
「神崎に何かされかけて、抵抗するうちにってことなら話はわかるんですがね。でも屋上はそう高くはないですがフェンスがしっかりあるし、そういうことではないでしょうからね、やっぱり信じられないんですよ」
独り言のように呟いて、教師は授業の時間があるからと辞去した。
被害者少女は単なるありきたりな被害者ではなさそうだし、人気者の優等生とその少女の取り合わせでは、やはり単純ないさかいによる事件のようにも思えない。
ただ、これらの証言がかなり「櫻田清純」に対して寄りすぎているというか。
「櫻田清純」を偶像崇拝、あるいは新興宗教の教祖のように扱っているのではと危ぶまれる印象も、私は感じていた。
なんといってもまだ十七歳の少年なのだから、いくら優等生に見えても隠れた交際や人には見せない疚しい秘密くらいあるだろうに、それを周囲の人間が感じていない、知らないというのは違和感しかない。
教師が語ったエピソードはなかなかに苛烈だが、写真で見た被害者の少女は、その逸話を知らなければ、今時珍しい大和撫子タイプのかわいらしい女の子に見える。
うりざね顔に長い黒髪、アーモンド型の瞳。写真の中の笑顔はぎこちなかったが、じゅうぶん美少女と呼べるだろう。
十七歳の少年なら、こと優等生ならばその逸話から来るイメージを忌避して周囲には隠しつつも、この少女と交際をしたくなることは全くあり得ない話とは思えない。
被害者と容疑者のキャラクターから、ややこしそうに見えるけれど。
案外単純な男女交際の縺れによる事件かもしれないと、私は思っていた。
このときは、まだ。
「本当に、君が彼女を殺したの?」
しかし、こうして相対してみると。
この少年が本当に、フェンスを乗り越えてまで少女を突き落としたようには、どうしても見えなくて。
私は思わず、そう聞いていた。
「そうです。僕が、彼女を殺しました。」
臆する素振りすらなく、何でもないことのように彼は言った。
あまりに落ち着いていて、頭では信じられないのに、嘘をついているようにはどうしても思えなかった。
「彼女のこと、嫌いだったの?」
心に頭がついていかず、刑事らしからぬ訊き方だった。
恋愛相談じゃないんだぞ、しっかりしろよ、と脳内で自分に毒づく。
これじゃあきちんと動機や犯行手順が聞けないじゃないの。何年刑事やってると思。
そう自分を叱咤していたとき、不意に気付いた。
彼の表情が、一瞬、痛みを堪える子供のような表情になったことに。
「そうです。だから殺したんです。反省しています。」
その表情は本当に一瞬だけで、次の瞬間には申し訳なさそうな優等生の表情に戻っていた。
けれど、私は直感した。
この子は、嘘をついている。
それがどの部分を指しているのかはわからないけれど、嘘をついている。絶対に。
彼の曇りのない透き通った美しい瞳は、
嘘を湛えているようにしか、もう見えなかった。