プロローグ/羽根が生えるまで待てない
今日の青空は格別に美しく、絶好の飛び降り日和であることをお知らせします。
さあ靴を並べて足を揃えて元気に柵を乗り越えよう。その柵は人生最後のハードルだ。
神様は越えられない試練はお与えにならない。空を抱き締めてアスファルトにキスをしよう。切りたての爪みたいな真昼の月に別れを告げよう。
天使になろう、世界は美しく、天国はすぐそばで大きく口を開いてる。
遺書はいらない、花もいらない、鳴りやまない拍手よりトラウマになりそうな絶叫が相応しい。
鳥よりも美しく飛んで、人よりも惨めに死のう。
救われることのない永遠を生きよう。
そう高らかに演説をして、神崎千空は僕の目の前で屋上の縁を蹴った。
「ボクと天国で逢おう、櫻田清純」
「君は天国には行けないよ、神崎千空」
中指を立ててまたねの挨拶。
親指を逆向けてお別れの挨拶。
空を舞った神崎千空は笑顔のまま、遠い地面に吸い込まれていった。
彼女が着地した瞬間、見慣れた玄関口前のアスファルトに大輪の赤い花が咲いた。
ぐちゃり、という音が微かに聞こえた気がしたけれど、この遥か上空にいる僕の耳にも煩く感じるほどの絶叫がそれを掻き消した。
甲子園のサイレンを思い出す、長い長い悲鳴。糞に集る蝿のように、あちらこちらから集まってくる人の姿。繰り返される絶叫。
人がゴミのようだとはよく言ったものだ。
天空の城の王になり損ねた彼の比喩力に敬礼するとしよう。
神崎千空。
君が見たかったものは、こんな滑稽な茶番劇かい。
出来損ないのフラッシュモブもどきに死体を囲まれて晒し者になることが、君が見たかった君の死の果てかい。
そうではないよな、わかってるよ。
ちょっと憎まれ口を叩きたくなっただけさ。
僕を置いて、死んだ君に。
線香代わりの煙草に火を点けて、僕は神崎千空が今まさに向かっているであろう青空に煙を吐き掛けた。
「櫻田清純、人に向かって煙を吐くな」
もう二度と聞こえないはずの、神崎千空の不機嫌な小言が聞こえた気がした。
「櫻田!そ、そこで、そこ、な、なにをしている!」
漸くお出座しになった教師殿が、裏返った声で僕を糾弾した。
出目金のように飛び出しそうなくらい目を見開き、震えながら僕から距離を取ったり詰めたりしている。キューピー人形のクローンみたいな頭には遠目から見てわかるほど汗が玉になって張り付いていた。
神崎千空、これからが本当の茶番劇だ。
せめてもの餞を受けとればいい。
「僕が神崎を殺したんですよ、いけませんでした?」
ひゅっ、と息を飲む音。
哀れなほどに狼狽える教師。
空はなるほど格別に美しく、こんな時でも見惚れてしまいそうだ。
神崎千空。
もう、天国に着いたかい。
早く僕も、そこへ連れていってくれ。