第5話
店主を見つめるヴィルヘルミーネの眼はひたすらに一直線であった。手に持った剣は、
「これは、私の第一の剣、ヂェリコー──祖国の古い言葉で、繊細さを意味する……。その名の通り、細い刀身は急所を突くのに非常に役に立つ。素材は間違いなく古竜の角を使った一流品だ……! 貴様も商人なら分かるはずだ。何なら、目利きの人間を呼んでもらっても構わないっ」
若干涙ぐんでいるような気がするのは春生の気のせいではないはずだ。いざ決心して差し出したはいいが、余程大切なものなのだろう、燃えるような赤の瞳が潤んでいるのはどうやら間違いないらしい。
「……間違いねぇな、これは本物だ」
店主も、その気迫を前にして引く訳にもいかず、ヴィルヘルミーネから剣を鞘ごと受け取ると、抜いて眺めて、頷く。
「……これで私にも力があると分かったはずだ。……私はもう失礼させてもらう」
「おい、待て」
春生が声をかけるよりも前に、すぐ、店主がヴィルヘルミーネの背中へ声をかける。
「お前、大金貨一枚も支払えないなら何か目的があるんだろう。なんなら──」
「問題ないっ! 情けなど無用!」
店主がせっかく好意をかけようとしてくれたというのに、それも無視して、足早に走り去ってしまう。春生は追うか、追うまいか考えたものの、まだ、自分と店主の話が完全に終わりを告げていないということを考え、その場にとどまることにした。
「……あぁーあ、何もここまでしなくてもなぁ」
当たりの野次馬はすっかりいなくなり、店主は、手に持った剣──ヂェリコーとやらを面倒くさそうなため息をついて眺めていた。
「えー、と、あのー……」
春生は、どうしたものかと思い、そっと声をかける。店主は、春生を、まだいたのか、というような顔で見ると、
「あー、いいよ、いいよ、もう行っちまえ。金は多すぎるほど貰ったしな……」
店主は、やはりまだ納得がいかないのか、もう一度ため息をつく。もうこの場を離れてもいいという許可を貰った春生ではあったが、そうは言われても、どこかへ行く宛などない、どうしたものか、まずは情報収集だろうか、それにしても、どこにいったらいいのか、それにここはどこなんだ、という、これまで他事が忙しすぎて考えることも出来なかった様々な疑問がどんどんと湧いてきた。
とにかく、今、自分が置かれている状況は、どうやら夢ではないらしい。仮に夢だとしても、こんなに沢山の自分が知らない知識が入ってきたり、五感もはっきりしているような夢なら、もうこれは本当である。
そんな哲学的な疑問はどうでもよかった。問題は、この先どうするかということだ。見ての通り、春生が今持っているものといえば、身につけているスーツ、ここでは役に立たない数万円の日本円──あとは……何にもない。スーツやシャツはもしかしたら価値あるものだと考えられるかもしれないかが、周りの人々の服装は、まるで異なる雰囲気のものであるため、果たしてすぐに金銭などに変えられるかといえば疑問が浮かぶ。結局のところ、無一文に等しいのだ。幸いなのは、言語が何故か同じという実に理解しがたい事実であったが、これが一体何を意味するのか、謎は謎を呼ぶ。
そんな風に、春生が動けずにいると、店主がしびれを切らしたように話しかけてきた。
「あのなぁ~、俺がこんなことを言うのもおかしな話だけどよぉ、さっきの女にお前はでっかい借りを作った訳だよな、分かるか?」
唐突だったので、春生の反応は少し遅れた。
「は、はぁ……」
「なんだその腑抜けた返事はよぉ……あんなぁ、ここは商業都市ピゼット。いいか、こんなことわざがある。タダより高いものはない。あの女にもらったでっけぇ借り物、返したくはないか?」
「えぇ、と、それは……一体、どういう……」
ヴィルヘルミーネがやったことは、春生にとってはとってもとっても大きなお世話だった。話はまとまろうとしていたのだ。それをあの女がいきなりこじれさせたに過ぎないのだ。……とはいえ。とはいえ、である。
ヴィルヘルミーネなる人物は、自分に一切の利益がないのに、春生のぺこぺこと頭を下げ続ける姿を見て、間に割って入ってきたのだ。いやいや、冷静に考えれば、明らかに正義感の押し付けだ。ありがた迷惑、という奴である。しかし……しかしながら、どんな形であれ、春生が善意を受け取ったということに関しては、残念ながら嘘偽りのない事実なのだ。
もっとも、春生自身はそこまで正義感の強い男という訳ではない。良くも悪くも、普通、だ。例えば、彼は、仕事が余程つらければ辞めるという選択肢もないことはなかったのだが、それでも、一応は続けていた。そして、それなりに責任感を以て仕事をしていた。故に、彼は謝罪術と呼ぶに近いものを手に入れていたし、何より、謝ることに対するハードルというか、プライドが邪魔するだとかそういったことはなくなっていた。春生について特記するなら、その点は確かに抜きんでていることではある。しかし、それ以外は、至って普通なのだ。
「当たり前だろ? 借りたものは返す。金と一緒だ。ここでは確かに金は力だが……金ってのはな、ある意味信用さ。信用がない国の金なんてのはただの金や銀としての価値しか持たない──けど、このキストニアの通貨ってのは、キストニアっていう国の力の分、ただの金や銀よりも価値がある。……てな訳で、だ。ここピゼットじゃ、金も重要だが、信用も重要。兄ちゃん、あの女、まぁ、見たところ別にお前の悪い噂なんて広めないようなツラはしてたが、ここで何もせずに終わりとあっては、少なくとも、俺、そして、さっきのことを見てた奴らからの信用はゼロになっちまう、って訳だ。どうだ、借りを返したくなってきただろ」
だから、ここまで店主に強く言われると、それが、普通なのかな、と思ってしまう。悲しいかな、わりと真面目なのである。さらに言えば、ここは知らない世界。知らない世界が故に、この世界に自分よりも余程詳しいであろうこの店主がここまで言うのだから、きっと、それは間違いないんだ、と流されてしまうのは極々自然なことだと言えよう。
「……それは、ええと、その」
しかし、そう言われても、春生にはその借りを返す手段がないのである。故に、口ごもるしかない。そんな春生の肩をバシン、バシンと叩いて、店主が言った。
「なぁに、手はある。俺も、こんな上物貰って、はい、そのまま、とあってはな、周りの奴らがいい目はしねぇ。だから、俺も人肌脱いでやる。いいか、これはお前やあの女に同情する訳じゃねぇ、人間関係をうまくいかせるただそれだけのためにしてやるんだから、何も疑うことはない」
そう言うと、店主はポケットから茶色い紙──いや、羊皮紙を取り出し、店先のカウンターに置いてあったペンにインクをつけ、ふぅむ、と言いながら、何やら文言を書いているようだった。春生が、一体それは何なのかという考えを巡らせるよりも前に、店主は文章を書き終えたらしく、その書き終えた羊皮紙を春生へ、ずい、と押しやった。
「これは、一体……?」
「俺のサインと、俺の嘆願だ。ギルドへ持っていけば、俺の名を担保に仕事を貰えるってことだ。俺はこう見えて、元冒険者でな。ギルドの職員には俺を知っている奴らもまだいるだろう」
「……ギルド?」
「お前なぁっ! ほんっとに何にも知らねぇのか!? 未だにとぼけてるのか!? えぇ!? ……まぁいいよ、簡単に説明してやる。ギルドってのは、冒険者、言い換えれば傭兵、そういう奴らが仕事を求めて集まる場所だ。お前がどうなのかは良く分からんが、あの竜人の女は間違いなくそれだ。だから、あいつが多少の知識を持ってさえいれば、自ずとギルドに向かっているはずなんだ。大体の冒険者がこの街に来る理由なんて九割が金儲けのためなんだからよ」
春生は、うん、うんと頷く。少ない情報ではあるけれど、現状を少しでも把握するための情報としては実にありがたい限りだった。
「さぁ! 俺は別にお前のこと許したわけじゃねぇからな、行った、行った!」
どうやら、店主が言った、人間関係のため、というのはおおよそ本心だったらしく、羊皮紙を手渡されるとすぐに春生は冷たくあしらわれてしまった。まだ右も左も分からない春生に、ギルドはあっちだ、と方向と道筋、外観などなどの特徴だけ伝えると、店主は散らかった店先の片づけに入り、春生にはもう話しかけるタイミングを与えることはなかった。
さて、そうなってしまうと、他にあてなどない春生に取れる行動は一つだけである。言われた通り、ギルドへ向かい、そこで恐らくろくな仕事を与えられることなく困っているであろうヴィルヘルミーネに声をかけ、ねぇねぇこれを使ったらイチコロだよ、とさりげなく紳士的に羊皮紙を手渡す他ない。その後はどうするか、なんてことは考えても仕方ないことであった。
指示された通りの方向へと進んでいく。既に日が傾いてきていたが、辺りの商店はまだまだ取引を続けているらしかった。
春生はその服装のせいもあってか、いやに注目を集めていたが、春生から何もしなければ、誰も何もしてこない。当たり前といえば当たり前なのだが、春生にとっては実にありがたいことに他ならなかった。
生ものを取り扱う店については、およそ店じまいをしているようだったが、その代わりに、店頭で飯を貪るような光景が見られる。仕事が終わった者が飲み食いをしているのであろう。それによって儲けている人々もいるということだ。ギルドが近づくと、そういった店が増えてきた。実は、これらも小さなギルドのような役割を持っていたりする。
ギルド、という形で仕事を冒険者に提供している場はピゼットにいくつかあるが、それ以外にも、こうした小さな店が、それぞれ顔なじみの商人などから依頼を受けて、冒険者を紹介したりするというケースもあるのだ。これは、仕事がそれなりに多いピゼットだからこそ見られる光景でもあった。
とはいえ、それらの店というのは、どうしても新入りには優しくない。このピゼットで時間をかけて信用を積み上げた者のみが、そういった輪に入れるのである。
それらの事実から、このピゼットにおいては新入り同然である例の女竜剣士は、このような店では仕事は貰えない。では、どこへ行くかといえば、今、春生が向かっている大きなギルドであった。
春生が到着した建物は、他の建物、商店などと比べるとそれなりに立派であった。木造の建物が目立つ街並みの中で、四階建ての石造りの建物は特に目立ったため、一度も訪れた事のない春生にも、店主から聞いたちょっとした情報だけでこれがギルドだということが分かった。そして、なんとなくだが、この中には、ヴィルヘルミーネがいるような気がした。多分、それは、この地がどこかさえ全く分かっていない春生でさえ、このギルドに簡単にたどり着くことが出来たからだろうと思われた。いくらヴィルヘルミーネがこのピゼットにおいて新入りだろうが、プライドがやたら高かろうが、剣を勢いで誰かに渡してしまおうが、この立派な建物にたどり着けない訳がないと思ったのだ。
それと同時に──少し、嫌な予感もした。彼女がここに到着して、まず何をするだろう?
答えは簡単だ。仕事を要求するだろう。では、その後は? 実のところ、いくら大きなギルドといっても、おいそれとすぐに大きな仕事を受け渡しては貰えない。そして、その事実は、今、春生が手にしている店主からの紹介状が決定的に示している。
実は、ここピゼットでは、信用が大きな役割を持っているのだ。それは、ヴィルヘルミーネだからうまくいかないという訳ではない。ここに来た人間は、まず、その人柄を試されるのが常なのである。例えば、どのくらいの仕事を任せられるか、裏切らないか、護衛の仕事でも大丈夫か──そんなようなことを見極めるために、最初に渡される仕事はほとんど赤子の子守に近いような、そんな、雑用のような仕事。それこそ、歴戦の冒険者からしてみたら、プライドを傷つけられるような、簡単な、簡単な、場合によっては春生にでも出来るのではないかというような仕事だったりする……。
勿論、春生はそこまでの事情は知らない。けれど、何か胸騒ぎがしたのだ。何か……。そして、春生がギルドの扉を開けるとすぐに、
「ふざけるのもいい加減にしろ! ここの街の連中はどいつもこいつも! 小さな店なら仕方ないとは思っていたが、こんなに大きなギルドにいるような冒険者でさえこの始末ッ! 馬鹿にしているのか! 喧嘩だな!? 喧嘩を売っているんだな、貴様らは!」
という、それはもう二度と聞きたくない、とてもとても聞き覚えのある罵声が耳に飛び込んできたのである。