第3話
このビジネスの場において、春生が行える謝罪とは何か。謝罪が果たす役割について、春生が考える意味とは大きく二つに別れる。一つ、相手の怒りを鎮めること、自分が申し訳ないと思っているということをしっかりと相手に伝えること。これに関して、きっと、今この場において、春生は出来ていると考えていた。
では、何故相手はまだ怒っているのか? その答えこそ、この場がビジネスの場だということにあるということに加え、それこそが、謝罪の果たす役割の二つ目である。この二つ目の役割については、時と場合、場面によっては必要ない、もしくは、どうしようもないという事もあるが、今は違う。これこそ、きっと必要なことなのだろうと思われた。それは何か。それというのは、改善策を述べることである。
自分はこういう失敗をしてしまいました、故に、今後こうします、という宣言だ。この場面においては──
「すみません、その、自分はこの潰れてしまったフルーツを元に戻すということは出来ない、のですが……そのですね、このフルーツの代金、お支払いしますので……」
提案である。自分がこの場で可能なことを提案する。この場合、相手が求めているのはこういうことだろうと予想出来たし、事実、この時、店主が考えていたのは損失に対しての怒りに他ならない。フルーツが潰された事実なんてことは、店主にとって、わりとどうでもいいことなのだ。フルーツが潰れようが、行商人に持っていかれようが、店主はフルーツが大好きで大好きで堪らないというような人なのではなく、あくまで商品として取り扱っているに過ぎない。彼にとって何が大切なのかといえば、フルーツを失った対価としてそれなりの金銭が支払われたかということなのである。そして、今回は支払われていない。その上で、相手はこんな提案をしてきている。店主の反応、それは──
「おぉ、おぉ、それならいいんだぜぇ?」
にっこり笑顔の解答であった。春生はひとまず、ほっと胸を撫でおろす。
「はは、はは、あー、はい、本当にすみません、もったいないことをしてしまって……」
そう言いながらら、スーツのポケットにしまってある財布を取り出して中身を確認。一万円札が、二枚、三枚──四枚、五千円札が一枚。よし、これくらいあれば、何とかなるだろうと考える。
「えっと、あの、いくらでしょう? 今の手持ちで足りるかな……」
春生がびくびくしながらも言う。まだ低姿勢を崩すわけにはいかない。相手がにっこり笑顔になったからといって最後まで気を抜いてはいけない。完全に取引が終わった訳ではないのだから。店主は、そんな春生を見ながら、答えた。
「お~、そうだな、箱が、一つ、二つ……だから──全部で、二十キロってとこか……。だから──キストニア大金貨一枚、その分の銀貨か、中金貨、小金貨、支払いはなんでもいいぜ。あー、なんだ、兄ちゃんはここら辺の人間じゃなさそうだしな、無理にキストニア貨幣で払えとまでは言わねぇ。ただな、両替にも金がかかるからな。他の国の通貨で払うってんなら、多少割高にはなっちますが──ここはキストニア、ピゼットだ、許してくれ」
店主は上機嫌にぺらぺらと話す。
春生は、その話を聞きながら、冷や汗をだらだらと流していた。何故か。ああ、何か、金貨とか銀貨とか言ってる、というのが分かったからである。そういえば、と思いなおす。周りにいるのは間違いなく日本人ではない。言葉が何故通じているのかなんてことは考えてもいなかったが、とにかく、通じているんだからそこは良しとしよう。じゃあ、次に何が問題か? 肌の色? 瞳の色? いーや、いや、んなもんどうだっていい。話通じてるんだから。
そう、問題は、春生が日本円という通貨しか持っていないという事である。日本円、即ち、それが使えるのは日本国内である。残念ながら、他の国へ行けば両替をしなければいけないのである。当たり前だ。じゃあ、この店主が言っているキストニア金貨とやらは、何か。勿論、それを春生が知っている訳がない。分かることと言えば、金本位制なんだなぁ、ということくらいである。春生は、恐る恐る、財布から万札を取り出して、見せながら言ってみた。
「えぇとぉ、ですねぇ……あのぉ、こちら、このお札では、お支払いは……?」
「あぁあん!?」
いきなり店主の声が大きくなる。店主は、春生が差し出したものを、ブン、と破れんばかりの勢いで奪い取り、まじまじと見る。
「なんだぁあ? これはぁ!? 紙ィ……? あー、なんだ、話に聞くと、どっかの国じゃ、こういう紙を通貨の代わりに使っていて、国へ持っていくと、金へ変えてくれる、とかいうのを聞いた事があるなァ……? うぅ~ん、しかしなぁ……字もわからねぇしよぉ」
店主の反応は、けれど、春生が思っていたものよりは優しいように思えた。一発アウトだと思っていたが……。が、しかし、残念ながら、日本円は金本位体制の元発行されている通貨ではない。どこへ持っていっても金へ変えてもらうことはできない。買うことは出来るが。
「──んー、よし、俺も鬼じゃねぇ。これで何グラムの金へ変えてもらえるんだ? ええ?」
春生は必死に記憶を掘り出す。これでいくらの金が変えるんだろう? えーっと、あーっと……。
「あ、あの、えーっと、今、自分が持ってるのを全部かえれば、そうですね、えー、多分、三十グラム、とか……?」
春生は、当然ながら、金相場なんて知っている訳がなかった。とりあえず、とってもなんとなくの感覚で言ってみる。大体、ここのどこかも分からない国の金相場なんて分かる訳がないのだ。とにかく、この場を凌がなければならないのだ。
「よしよし、じゃあ、これは、どこの国に持っていけばいいんだ? え? その国へ行く行商人に渡せば何とかなるかもしれねぇからな」
店主が少しずつ、少しずつ、笑顔になっていくのが分かる。春生は思った。よし、いけるんじゃないか、このままいけば、と。そして、言う。
「あー、日本、です。ジャパン。日本国」
「…………」
店主が固まる。春生も固まる。野次馬も固まる。
「…………知らねえな、そんな国は。おい、ニホン、って国を知ってる奴、いるか。お前ら」
店主が周りの人々に尋ねる。春生は、窮地に立たされていると思った。間違いなく、窮地。これを窮地と言わずして何という。日本が認知されていない!? ううぅん、確かに、あり得ないことではない。
そして、無情にも、周りの野次馬は一人として日本を知るものとして手を上げることはなかった。いやいや、でも、待て待て、と春生は思った。
「ええぇえ!? だって、だってですよ! 第一! あれ!?」
そう、おかしいのだ。絶対的におかしなことがある。
「これ! 言葉! 言語! 日本語じゃないですか!? ですよね! 皆、話してるじゃないですか、日本語!」
当たり前の訴えである。言葉が通じるんだもの。この春生、自慢ではないが、学生時代英語の成績は悲惨なものであり、自分が知らずのうちに英語を話しているだなんてこと、ある訳がない。日本語なのだ、春生が話している言語は日本語のはずなのだ。が、しかし──
「何言ってんだ……お前。キストニア語だろうが……おい、おい、お前なぁ──」
店主の表情が怒りに染まっていくのが良く分かった。春生をとてもとても怪しい者を見るかのような目つきで睨みつつ、手に大剣を構え直す。
「お前なぁ……ここは商業都市ピゼット。いいか、糞田舎でならお前みたいな詐欺師でもうまいこと言いくるめてやり通すことはできるのかもしれねぇけどよぉ……ここじゃ、そんなペテン通用しねぇぞ……。見たこともない服を着てれば騙せるとでも思ったのかァ? 大体、なんだ、この紙切れ。おぉ? 人の顔が描いてある以外、別になんてことない、紙じゃねぇか。それが何枚かで金になるぅ? 馬鹿言っちゃいけねぇよ、兄ちゃん。挙句の果てには聞いた事もない国の名前を出す。……馬鹿な野郎だ。なめたらいけねぇよ。死んで詫びるか……?」
「あ、あ、あ、の、あの」
春生は完全にパニックになっていた。まだ打開策はある。あるはずだ。パニック状態からなんとか脱却しなければならない。だが、目の前に、本物らしき大きな剣があっては、そうもいかない。追いつめられていた、完全に。
日本ではないという事実も、より一層、春生を混乱させる要因となっていた。じゃあ、一体どこだ? どこなんだ? という思考がぐるぐると渦巻く。
野次馬も、ざわざわ言っているものの、助けてくれる様子などなかった。自分で切り抜けるしかないのだ。春生は何とか、自分が言っていることに嘘偽りはないということを証明しようと考えた。
「あああー! あの、あのですね! そうだ! 地図! 地図を見せてください! ここで何故日本語が通じるのか、この紙幣を知っている人がいないのか、その理由は自分には分からないですが! 地図を、地図を見れば! 自分がどこから来たのか示せますし、そうです、ここには行商人の方が沢山いらっしゃるんですよね、それなら、中には、日本を知っている人だっていると思いますし!」
店主の顔は、けれども、変わらない。なんとも怪しいものを見る目で見続けている。実は、彼は警戒していたのだ。この目の前の得体の知れない男に幻術か何かをかけられることを。けれども、ここでこの得体の知れない男をぶった切ったところで、何かを得られる訳でもない──となると、もうこれが最後。本当に最後の最後、この男の言っていることを一度だけ信じてやろう、という考えに至る。流石商人と言うべきだろう。得にならないことをするよりも、まだ数パーセントでも可能性があればそこに駆ける。これは情けなどではない、理に適った選択なのだ。
「誰かァ、すまねぇが、地図を貸してくれねぇかぁ」
店主は、春生から一切目を逸らすことなく、周りの野次馬に呼びかける。春生が何らかの魔術を使ったり、あるいは、逃げたりすることを想定してのことである。
野次馬は少しずつ数を減らしてはいたが、その中の一人が丸められた地図を差し出して、店主の渡す。
「おぉ、ありがとうよ。ホレ、どこなんだ、そのニホン、って国は」
店主は、丸められている地図を春生に見えるように、ガバァ、と開く。沈黙。春生は見ていた。地図を見つめていた。見える。地図は確かに、少し日焼けをしたりはするがきちんとはっきり描き込まれている。
ただ──問題は。最大にして唯一の問題は──この地図、地形、何もかも、春生は見たことがない、ということであった。春生は世界地図に詳しいという訳ではない。もしかしたら、どこかをアップしている地図なのかもしれない。文字も読める。地名も読める。多分、街だとか、村だとか、国だとか、そいう情報が書き込まれているに違いない。しばらく見つめていると、先ほど、店主が言っていた、キストニア金貨とやらのキストニアという文字があり、ここが自分が今いる国だということが分かると同時に、更に絶望は広がった。
キストニア連邦なる国の国境がよぉく分かる、ということだ。あー、そうか、そうか、少しだけ海に面していたりして──後、割と東西に広くて──。そして、回りには他の国名らしい文字と国境が並んでいる。海に面している細長い国、内陸国、その他、色々──これらは、多分、国なのだ。だから、この地図がどこかの地域を拡大して記載してあるものだという可能性はなくなるということになり、結果として、そもそも、ここが地球上のどこなのか、ということさえ、春生には認識できないということになる。
「ええぇと、あの、ですね……この地図には載ってないみたいで、もっと大きな、地図を、ですね……」
おそるおそる言ってみるも、
「なぁ、兄ちゃん、いい加減あきらめろや。この地図に載ってる所以外なんて砂漠と海しかねぇよ、その果てに何かあるにしても、仮にそこに人が住んでいたとしても、俺たちはそんなところへ行くことはできねぇんだよ、言ってる意味、分かるか? ハァ……俺だってなぁ、お前みたいなのをどうにかして直接的に儲かるか、って言ったら儲からねぇ。でもな、残念だけどな、商人ってのは舐められたら終わりなんだよ、つまり、分かるよな?」
店主の目は、もう完全に春生を詐欺師と決めつけるような目であった。同時に、非常に残念なことに、多分、恐らく、これは、地球上のどこかではないということが明らかになった瞬間でもあった。何故なら、春生が知っている限り、地球上に、色々な国々から切り離されながら何か国も国が存在し、海もあり、砂漠もあり、これだけの店が立ち並ぶくらいの文明もある、なんていう場所はなかったからだ。考えられるとすれば、地下帝国かどっかか? いやいや、太陽あるし……。
つまり、絶体絶命、である。春生は切り抜けなければならなかった、この事態を。何で切り抜けるか。彼の武器はなおも一つしかない、そう、謝罪である……!