第21話
だから、春生はそのままの姿勢で再び魔王へと体の向きを戻した。そして、言った。
「……謝罪したい」
「…………」
返さぬ魔王。それどころか、その仮面の下の表情は怒りを覚えているようにさえ見えた。座りながら、ひじ掛けに腕をたて、頬杖をつく。
「あなたがとても立派な存在だということは分かりました。しかし、そこに甘えるというのはそれこそ──利己的で、許されないことだと、自分はそう思うんです」
沈黙。そして、魔王の、頷き。
「……正しい」
魔王の口から言葉が漏れる。
「そのまま去っていたら、お前は、道中で魔物に襲われ死んでいただろうな」
軽い口調で言う。まるで、何事もないかのように。魔王は試したのだ、ということが分かる。そして、春生の判断は間違っていなかったのだ、ということも分かる。けれど──
「だからといって、さて、どうする、他の世界から来た者よ。お前に武器は扱えん。私がここから立ち上がることなどしなくても、その四肢をもぎ取ることなど造作もない……」
春生は震えた。本能的な恐怖に対して、理性はどうにかすることはできても、体の震えを抑えることは出来なかった。怖い……。そんな感情に包まれながら、けれども春生は言う。
「謝りたい──です」
選んだのは謝罪だ。何を? と問われるまでもなく、春生は言葉を続けた。
「人類の行いを謝りたい。何も理解しようとせず、利己的に、動いてきた人類を──そのためにも、教えて頂きたい。魔王、貴方の怒りを」
春生は、知ろうとした。これは正攻法である。この世界の人類が、魔物たちに何をして来たのかを詳しく知らなければ謝ることなんてできない、と春生は考えたのだ。
魔王は、逡巡し、唸った。魔王は判断に悩んでいた。この男に話して何になる、という思考は、魔王の頭をすっかり覆い尽くしていたが、その隅には小さな小さな違和感があった。何故、という疑問だ。何故、この男は、ここまでして謝ろうとするのか。何故、自分が去れと言った時に去らなかったのか。何故……。その答えを知っているのは、魔王ではない。その答えを知っているのは、この場において、春生ただ一人である。
その謎の答えを知ることが、魔王にとって何かメリットがあるか、といえば、ないだろう。
しかし、である。
魔王は気づく。この話し合いは、茶番である。茶番である、が、しかし、対話ではないか、と。この男がどれほどの権力をもった男であるかなど魔王の知ったところではない。この男にどのような力があるのかなどということを魔王は知らない。けれども、初めて、そう、初めて、魔王は人類という種と対話をしているのだ。微かにではあるが、魔王はそう感じてしまった。
故に──その感情を放置することは魔王には出来なかった。
「……良いだろう。暇つぶしだ」
そう言うと、魔王は語り始める。
「高い知性を持たぬモンスターたちを束ねるのが我の生まれながらの使命。我は、生まれながらにして、そのように生まれた。分かるか? 分かるまい、人間ごときに」
見下すように言う魔王。けれど、春生がそれを理解できないのもまた事実であり、春生は特に苛立ちを覚えることはなく、難しい表情をして、頷く。
「人類を何故侵略するか──その答えなど簡単なこと。我らの領土を侵略しようとし、我らの同胞を狩ろうとするからだ。これ以上の答えがあるか? 人類は、自らの領域を拡大しようとする。それに対して我らが抗うのは自然の摂理。それだけなら飽き足らず、我らの一部は人類の繁栄のために狩られる。まるで家畜を扱うかの如くだ。分かったか? 何故、我々が人類に対して攻撃を仕掛けているかということが」
春生は、それらの言葉を重く受け止めた。顔をこわばらせ、うぅん、と強く唸る。春生の顔には悲痛さが表れる。春生からしてみれば、遠い世界の出来事だ。何も、この世界に思い入れがある訳ではない。
……だからと言って。
だからと言って、感じない訳ではない。嘆きを。モンスターたちの嘆きを、人々の嘆きを、魔王の嘆きを──。思う事自体は、傲慢なことだ、と春生は考えていた。可哀想ですね、等と、口が裂けても言えるはずがない。けれども、感じてしまうものは仕方ないのだ。止めようがないのだ。
傲慢にも、止めたい、と思ってしまったのだ、春生は。この争いをどうにかして、平和的に解決できないだろうか、と思ったのだ。
それは、相手が魔王という知性を十分に持った存在だったからかもしれないし、単に、モンスターといえども生きているから、むやみに殺してはいけないんだ、という単純で悪気のないエゴだったのかもしれない。その判別なんてものは春生には出来なかったが、確かに、止めたいと思ったのである。
同時に思ったのは、申し訳ないということだった。無論、他の人がしてきたことだ。けれど、今の春生にとって、この世界の人間たちと春生に何の関係性があるかなんてことは些細な問題に過ぎなかった。少なくとも、自分は人類側の立場である、と直感的にそう感じたのである。
「申し訳ないという気持ち、それでいっぱいです」
「…………」
沈黙する魔王。
「自分一人でどうにか出来るものでもないです。ここで、仮に、どう約束を取り付けたとしても、それを保証することが出来るものなんて何もない……。けれど、謝りたい、それだけなんです」
春生は、姿勢を変えることない。ここにおいて、そんな小細工など意味がないと思ったし、自分の気持ちを伝えたいが一心で、姿勢がどうだとか、そのようなことを考えている余裕なんてなかった。
「それで、ですね、その──確かに、人間は、どうしようもない生物だと思います。それは、自分自身が、一番良く知っている──ただ──」
春生は言葉に詰まる。
そこまで言って、春生の脳には、ブワァと様々な景色が舞い込んだように駆け巡った。何故かは分からない。しかし、春生は、いや、春生の脳は、自分が今、この世界の人類を代表して、魔物の王と対話しているという事実を理解したらしかった。
舞い込んだ景色は、この世界で見てきたもの。
それは、ピゼット、ピゼットの街の商人たち、金に魅入られた者たち、プライドを持った剣士、事務的な召喚士、自己中心的な将軍──そして、自分。
どれもどれも、思い浮かべると情けない。
それをどうやって詫びればいいのか? 何をしたら許してもらえるのか? そんなことを考えたところで、結論なんてものは出てくるはずがないのだ。だから。
「……なんだ、人間。何をしている」
春生は、涙した。
そして、深々と腰を下ろし、頭を下げ、這いつくばるようにして土下座した。
何をどうしたら、こんなにも感極まってしまったのか、春生にはその原因が分からない。それは、もしかしたら、ただ単に、命の危機を感じた自分の本能的な部分がそうしろと叫び続けていたからかもしれない。ただ、自分が助かりたいがためにやっている行為なのかもしれない。
けれど、それら全てをぐちゃぐちゃにした結果、春生は、このような行動を取った。それは嘘ではない、紛れもない事実だ。格好いいだとか、格好悪いだとか、そんなことは何も考えていない。春生の脳は、思考のほとんどを停止させ、どこかからか湧いてくる訳の分からない申し訳の無さに対して、ひたすら謝っていた。
「…………」
魔王は沈黙していた。こんな人間一人が涙を流したところで、一体どうだというのだ、という思い。くだらない、という思い。そして──僅かに沸く──
罪悪感のようなもの。
切り捨てていいのか、自分は、この見ず知らずの人間の感情の衝突を切り捨てていいのか、という自分の奥底から湧き上がってくる思いに、魔王は捕らわれようとしていた。
不思議なことではない。
これは、春生が意図して行ったことではないが、謝罪において、春生の取っている行動は、いわゆる、卑怯な手段であった。春生が意図している、意図してないに関わらず、感情を用いて謝罪を行うというのは、奥の手。卑怯な手。しかし、それでいて、最強──。
相手が感情を持たぬ生物ならいざ知れず、魔王は知性を持ち、人の言葉を話すことが出来るほどには高等な生物であった。そして何より、これまで、情というものに対してあまりにも無縁であった。いや、怒りの感情をぶつけてくる人間には嫌と言うほど接した。けれども、今、春生が発しているような言うなれば慈愛に近く、言うなればどこまでも感情的で、さらに言えば、利害が見えない、そんな感情をぶつけてくる人間の相手をするのは初めてだった。
故にか、春生の態度を見続け、魔王の心には、春生が意図していないような思いがぐるぐると蠢いた。中でも──ここで申し入れを断るということは、人間と同じなのでは、といった小さな疑いは、徐々に膨らみ、魔王の頭を支配していく。
春生が引き起こしたことではない。
春生の行為はあくまでそれを引きだすほんの小さな感情をつついたきっかけに過ぎない。けれど、それで十二分だった。
「……そうか」
小さい呟き。魔王のものだ。春生には分からない。彼の呟きは一体何を意味しているのか。だから、顔を上げる訳にはいかないし、何か行動を起こす訳にもいかない。ひたすら待つ。相手の反応を待つ。……いや、違う。春生が待つのは、魔王の反応ではない。春生はただ謝っただけのこと。謝っただけであり、相手に何か反応してもらいたくて行った訳ではない。自分が謝らなければならないと感じたから、卑怯なまでに感情を露わにし、謝った、それだけのこと。
そこに打算はない。
けれど、それこそが、最高の謝罪となった。魔王は──そして──許した。
「分かった」
最初に口にした言葉はそれだった。春生はやはり判断に悩む。次に、
「許す」
という言葉を耳にする。
春生は、手にした。天才的な戦闘の才能なんてあるはずもなく、かといって、天才的な頭脳を持ち合わせた訳でもない。ただただ、目の前のことに対して申し訳なさを感じ、あるいは、感じなくとも、相手に謝ることで。誠意を見せることで、である。
ただ謝ることで手にした。情けない、なんていう感情を春生は抱かなかった。謝罪とは認めることだから。謝罪とは恥ずかしいことではないから。
魔王は続けていった。
「許す……全てを、ではない。そちらが言った条件──それらを全て飲んでもらう。勿論、信用している訳ではない。そこの魔術師──見たところ、人間の中では非常に腕が立つと見える。その命を人質に貰う──いいな」
いいな、と聞かれても、春生には判断ができない──が……。流れに身を任すしかない。春生自身、それは、悪いことだと思わなかったし、それこそが、誠意。謝るということであり、相手に答えるということであった。




