第20話
春生には身に覚えがある。圧迫され、押しつぶされるようなこのプレッシャー。この感覚。頭が真っ白になり、何も言葉を話すことが出来なくなる。そんな経験。
無言、というのはそれほどに重たい。
春生がかつての世界で、謝罪するために他社を訪れた時、相手が早々に要件を言い放ち、理不尽であったとしても、何らかの要求を突きつけたりしてくる場合、これは、まだ良い。
しかし、無言、これこそが脅威である。さっさと要件を話せ、などと言える立場ではない。謝罪するために来ているからだ。となると、言葉を先に発しなければならないのは春生。けれど、その一歩は、まるで地雷原を歩くかのごとく慎重に踏み出さなければならない。一歩間違えれば爆発。相手から言葉をかけられたならば、その言葉に対して、的確な打ち返しを行えばいい。けれども、無言である相手に対しては、自らが何かしらのボールを投げなければいけないのだ。
こんなに怖いことがあるだろうか。構えているのである。相手は、ひっそりと、静かに──どこかに爆弾を隠し持って……。
「……話し合いをしにきました。この男から」
そう言って、カリナが一歩引く。それを見て横に並ぶようにして立っていたヴィルもまた、一歩引く。相対的に、春生が一歩前へ出ているような立ち位置になり、魔王の仮面の下の目線が春生をしっかりと捉える。
春生は考えた。一言目に何を言えばいいのか。どうすれば地雷を踏まないで済むのか。ということを考えた。
交渉内容。それは、これ以上、人類の領土へと踏み入らないでほしいということを飲んでもらうということ。使える交渉材料はただ一つ。定期的に、物資を貢ぐということ。この数少ないカードをどこで出すかが切り札となる。そして、決断した。最初──最初に、要求を伝える。詰めるのは後からでいい。本題をぶつける。そう決断したのは、この相手に対して、およそ姑息な手段など通用するはずがないと思ったからだ。何せ、モンスターたちを統べるような存在。利己的であって然るべし。
「こちら側は──魔王、あなたとの戦闘をこれ以上したくない……そして、その見返りとして、相応の物資を、モンスターたちに供給し続けたいと思っている」
春生の声は、僅かに震えていた。突っぱねられる、と思ったからだ。
けれど、魔王は、その言葉を聞いて、しばらくの間、何も反応を示さなかった。言葉が通じているのか、通じていないのか、それさえも分からないような時間が数秒続いた。少し後ろに立つカリナとヴィルもまた、動けない。
時が流れる。春生がごくりと唾を飲む。もう一度言うべきなのか、と考える。そして、次の瞬間。魔王は椅子からゆらりと立ち上がり──
春生の体を魔力が引き裂いた。春生は衝撃を感じた。痛みなどではない、強い衝撃だ。上半身と下半身が真っ二つに引き裂かれたかのような強い衝撃、同時、体は後方へ吹き飛び、地面へと投げ捨てられる。
「──! ──!!」
「────!」
春生は、意識を半分以上失いかけていた。吹き飛ばされ、体は仰向けになり、視線は天井を見ていた。死ぬのか、自分は、というなんとなくの感覚が脳みそを支配していた──。
繰り広げられているのは、一方的な攻撃。いや──正確には、カリナとヴィルは抵抗をした。それはほんの数秒の間だけ続き、その声は僅かにだけ春生の耳に入っていた。魔王の攻撃は、強かった。破壊力はカリナの魔術によるものとは比較にならないほど、早く、重たい。戦闘ではない。戦闘の態をなしていなかったからだ。
魔王の強さは、カリナのそれよりも遥かに上。ヴィルとは比較にさえならない。これだけの力の差、速さの差がある者同士においては、攻撃をし合うなどという状況は生まれない。魔王の攻撃の一撃一撃はどれも防御しなければ致命傷となり得るものであり、避けようとすれば、その次の攻撃は即座に死を招く一撃として、避けようのない一撃として彼女ら二人を襲う。故に、避けることは出来ず、受け流す、衝撃を和らげるために、攻撃の姿勢に転じる間もなく防戦を行い続ける他選択肢はなかった。
春生は、ぼんやりとした意識の中、その光景を見つめる。何も考えることは出来ない。体にギシギシとした痛み。ふと、腹を見る。引き裂かれてはいないか、上半身と下半身はつながっているか──そんな思いを込めて確認するが、そこには血の一滴も出ていない体が確かにあった。
けれど、魔王の一撃は、確かに春生の体を瞬時に切り裂き、その数秒後に春生は死に至るに違いないほどの威力だった。だが、こうして無事でいるのは他でもない、カリナの魔術壁のおかげだ。カリナが魔王の攻撃に合わせて、春生の腹部へと魔力を集中、それにより、春生は致命傷を負うことなく、意識を朦朧とはさせているものの無事で済んでいるのである。
春生は、立ち上がらなければならない、と思った。ほんの僅かずつではあるが、思考力が、体の力が回復してきていた。後数十秒から一分、それくらいあれば、立ち上がることは出来る立ろう。ほとんど元の状態に戻るだろう、なんとなくだが、春生はそう思った。
止めないと──。
その思考は、まず間違いなく負けるであろう目の前で繰り広げられている戦闘を見て即座に頭へと宿ったものである。
その春生の推測は正しい。魔王の強さは桁外れなのだ。カリナクラスの戦闘力を持つ人間が群れになっても叶わない。それがこの魔王という存在なのだ。その魔王相手に戦うカリナとヴィルの敗北はもうすぐそこまで迫っていた。
春生が立ち上がる。二本の脚で、洞窟の少し湿った土を踏みしめる。そして、一歩前へと進む。後何歩も進まなければならない。それが物凄く遠い行為に思えた。カリナとヴィルの元に行って何になる? 何が出来る? そういった思いはただただ体を重くした──けれど、進まねばならぬ。進まねば──。
けれど──春生が数歩進んだところで、二つの体が地面へと打ち付けられる音がした。どさ、どさ、と力なく倒れた二つの体は、カリナとヴィルその人。薄暗い松明の灯りの中で、頑丈な椅子から立ち上がり、数歩だけ進んだ位置にいる魔王の横に、二人の体が倒れる。それは、動かない。
魔王が歩みを進めた。春生へ向かって歩いてきていた。
ここで、ようやく、春生の思考がビクリと目を覚ます。状況を整理する暇なんてなかった。自分は、危機に立たされている、その事実だけで十二分だったからだ。どうする、と考えるよりも前に、魔王は、春生の目の前へと迫っていた。そして、言った。
「…………」
無言。それは魔王の言葉だ。重く、厚い、何物をも押しつぶすような力を持った言葉。
何か、答えなければいけない、と春生は考えた。でも、どうやって? 何をする? 命乞い? それとも……。何を言えるんだ、と春生は考えた。
「んん……しかし……」
すると、魔王の様子が変わる。何か面白いものを見るかのような目線を春生へと送ってきているようだった。
「……お前、ここの世界の人間ではない、な? ……何をしにきた。ここまで」
それは、間違いなく、好機だと言えよう。魔王が、相手が自ら、興味を持ってくれたのだ。虫に対するほどの小さな興味かもしれない。けれども、相手が問いを発したのである。頑なに無言だったあの魔王が口を開いたのである。
春生は答えることを要求された。何か話さなければならなかった。ここに来て見せるのは、何? 何がベストだ? 春生は、混乱する頭で考え、答えを捻り出す。
足は震える。体も震える。がくがくと震え、口さえも震える。舌さえも。けれど、その口で、その舌で、喉で、春生は声を出さねばならぬ。春生は心の中で叫ぶ。何が悪いのか、と。思いをぶつけて何が悪い。そう叫ぶ。
「謝りに……! 謝りに来ました!」
出来るのはそれだけしかない。謝ることの何が悪いか。謝ることは、思いをぶつけることである。相手は魔王。けれど、言葉を話せる。それならば、思いをぶつける。
何をされるかなんてわかったものではない。次の瞬間に命が奪われるかもしれない。後悔はした。なんでこんなことを引き受けてしまったんだ、と。
けれど、しかし、である。
思い返せば思い返すほど、春生には納得できないことがあった。
それは、将軍の態度であり、カリナの態度であり、もっと言えば、人類全体の態度である。
何故か。
言葉を返さない魔王に、春生はそれをぶつける。
「僕は人間です。それも、この世界のことを何も知らない人間です。けれど、おかしいと思ったんです。何故……何故、貴方たちは人間の領土へ攻め入るんですか? いや、違う、それがおかしいと思ったんじゃないんです。何故、その目的を、この世界の人は知らないのか……! それをおかしいと思ったんです。それにも関わらず、都合よく、話し合おうだなんて──僕でもおかしいと思う、違うと思うんです。それを、貴方たちがそう思っていない訳がないッ……! だから、それを謝りに来ました!」
心の底から放たれた言葉だ。駆け引きも交渉もないもない、春生のまっさらな感情だ。少しの沈黙。そして、魔王はゆっくり口を開く。
「気まぐれだ」
その言葉が何を意味しているのか理解できない春生だが、それはすぐに明らかになった。魔王がくるりと向き直ると、なんと、椅子へと戻ったのだ。そして、着席し──待った。春生が寄ってくるのを。
春生は、一歩一歩、進んだ。徐々に、マヒしていた頭へ、恐怖という感情が積み重なっていく。けれども、逃げる訳にはいかない。ただ、がむしゃらに──聞かねばらなぬ。話さねばならぬ。今、春生に出来ることはそれしかないのだから。
「──我々魔物の多くは、高等な知性を持たない」
魔王は語った。
「しかし、中にはそれなりに知性を持つ種もいれば、我のように、人などより遥か高い知能を持つ物も生まれる……何故か、それは分からない」
魔王の仮面の下の表情を見るのは無理だった。故に、春生は、この後、自分がどうなるのかなんてことは想像もつかなかった。次の瞬間に、命を奪われる、そんなことだって考えられるのである。
「……人は、魔物を全て同等に扱う。人に抗うもの、としてだ。そこの魔術使い──以前、我を倒しに乗り込んできた。そんな人間が、話し合う、と言ったから倒した。人とやっていることは何も変わらない。しかし──」
数秒の間
「お前は違うな。いや──人類だ。見た目は。けれど、それだけで判断しては、私も人と同等になってしまう。その姿、いや、体から感じる魔力で、違う世界の人間だということが分かる。この世界にいる、自らの安全、利益のみを願うような下等な種族とは違う──そんな可能性を、感じた。そして、言ったな。何も知らない、と。そして、何も知らないのに戦ったことを詫びる、と」
春生は、ゆっくり頷き──はい、と返事をする。
「最初に言った言葉……こちらに攻撃を止めさせ、その対価として物資を送る、だったか。それは……お前の言葉ではない、そうだろう」
魔王が再び言う。春生は、少し間を置いて、ゆっくりと頷き、はい、その通りです、と答える。
「やはりか。良いだろう」
魔王をそう言うと、息を吸い、これまでよりも少し音量を上げて言った。
「許す! 私はお前を許そう! 去れ。お前がここから去ることを、私は許す」
春生はその言葉を確かに理解した。自分は、命を助けられる、ということを理解した。この死のすぐそばにある地から去れる、ということを理解した。それは、春生に取ってまたとないチャンスだ。助かるのだ、命が。
この魔王の許しがどこから来たのかということを考えれば、春生の素直な謝罪からだと言えよう。
魔王の視線にさらされながら、春生は、体をくるりと回転……させようと思った。踵を返して、この場から立ち去ろうと思った。
が──しかし……。
春生の心のどこかで、それは違う、というざわめきが起きた。違う──。決して、この魔王の提案がどうだという訳ではない。魔王が嘘をついているだとか、そういう話ではない……。違うんだ、と思ったのだ。
筋が通っていない、と。春生は強く、そう感じたのである。
本当に自分は謝罪できたのか? と問うた。魔王が本当に許しているのなら、謝罪は出来ているのかもしれない、けれども、本当にそうなのか、と。筋は通っているのか、と。
春生は、自ら口にした言葉を思い返し──そして、やはり、違うと確信した。ここからこのまま去るという行為は、確かに、春生を安全の元へと帰らせてくれるかもしれない。けれど、その安堵感が感覚を麻痺させていたのだ。これは、決して魔王に許された訳ではないのである。これは、ただ、魔王に、見逃されただけ。そう、魔王に、甘えただけ。




