第1話
謝罪──非を認め、相手に許しを請う行為のことである。頭を下げるなどして謝罪を意思を表すこともある。一般的に、格好の良いものではないと考えられている。ぺこぺこと頭を下げる姿は、傍から見る分には滑稽であり、強大な敵に果敢に立ち向かっていく勇姿と比べて、例えば、物語の主人公なんかがする行為としてあまり見栄えのよいものではなかったりする。そういった印象が少なからずあるのだ。
謝罪という行為は、通常、謝罪事態は問題の解決に至らない場合が多いが、文化として根強く謝罪の力が信じられている国がある。そう、日本だ。
その日本社会において、謝罪が最も活発に行われる場について考えたことがあるだろうか? そして、その答えはなんだろうか? その答えの場を職業にしている人間がいる。
「はい、はい、本当に申し訳ございません。大変ご迷惑をおかけいたします──」
今、電話越しに謝罪の言葉をつらつらと口にしている彼の名は松尾春生、もう数か月で二十一歳。高校を卒業した後、彼は、未来を見据え、IT系の業界へと就職しようと試みた。けれども、残念なことに、彼はプログラミングが出来る訳でもなければ、電気回路等の専門分野を学習した訳でもない。そんな彼がIT系の業界へ飛び込むとしたら、選択肢は限られる。
結果として、春生は営業職として、とある準大手のIT系企業へと入社することになったのである。それだけで十分快挙であったが、彼は、実のところさほど優秀ではなかった。入社から一年は、同期たちと同じように教育されたり、同じような現場で営業職として駆けまわっていたのだが、その一年間において、同期とは比べ物にならない数の失敗を繰り返す春生はぺこぺこと頭を下げるということを身につける。無論、春生が好き好んで失敗をしている訳ではない。だが、人間には向き不向きがあるものであり、残念なことに、彼は、表立って仕事を取り付ける営業についてのセンスはあまりなかったようである。
ノルマを達成できない日々を続けた後、入社二年目にして、春生はある部署に配属されることになる。その部署の名は、営業三課。営業という名がついている以上、営業に関する部署なのではあるが──
「いえ、あのですね、それは説明書の方にですね……あ、ええ、はい、はい、すみません、はい、大変申し訳ございません」
部署内には、すみません、申し訳ありません、といった言葉が飛び交っている。営業三課、それは、分かりやすく言えばクレーム対応のための部署であった。表向きはサポートのための部署とされているがそんなの嘘っぱちも嘘っぱち、IT系の業界というのはとにかくクレームが多い。購入した商品の使い方が分からない、ならばまだサポートとして機能しよう、が、しかし、そんなものは序の口。今、春生が相手にしているのは、
『おたくの商品さぁ! 俺の時間をこんなに無駄にしてだねぇ、どうしてくれるの! 補償しなさいよ!』
「え、ええ、すみません、本当に申し訳ありません……」
商品の使い方を教えろ、というだけならまだ優しいのだ。使えないのはお前らのせいだ、そのせいで俺は大切な大切な家族と過ごす時間を失っている、どうにかしろ、だなんてクレームは日常茶飯事。
何十分、時には一時間、二時間、それ以上という時間をかけ、春生に出来るのはただただ頭を下げて謝罪をすることである。しばらくの時間が経ち、ようやく電話対応を終え、春生はふぅと一息つく。入社二年目で対応していたのはこの電話対応のみ。
「──さて、と……こんな時間、か」
春生は時計を見る。入社三年目となる春生の仕事は、電話によるクレーム処理だけではなくなっているのである。
「松尾くん、そろそろいいかな?」
上司。この営業三課でもう十年以上も勤めている春生の大先輩である。普段から謝罪をし続けているせいなのか、単に人柄がいいだけなのかは知らないが、やたらと低姿勢なこの上司に連れられて春生が向かう先は、自社が製品を販売している相手の企業。
何故そんなところにクレーム対応──もとい、サポート部署が向かうのか、といえば、答えはサポートのためである。対応は市民、つまり、個人の一般の客だけに限らないのだ。
一等地に建つ見上げれば首が痛くなるほどのビルに上司の後に続いて入っていく。警備員がいる。頭を軽く下げ、挨拶。春生は、あぁ、こいつも俺と同じく日々ぺこぺこすることを強いられる同類なんだな、などと僅かに同類意識を感じたりしながらも、謝罪のために気を引き締める。
相手は企業。企業といえども、クレームを入れてくる。
御社の商品を使用して、会社運営を行おうとしているのだが、この部分についてうまくいかない、どうなっているのか、君たち営業部の人間に、このような説明を受けたから購入したのだ、おかしいじゃないか。
など、など、といった内容を春生と上司はまずはしばらくの時間聞き続ける。
相手の話が終わったのを見計らって、まずは上司が大きく頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
同時に、春生も深々と頭を下げ、謝罪。謝罪というのは、非を認め、相手に許しを請う行為である。が、同時に、相手の怒りをまずは鎮める行為でもある。この場合、過ちを犯したのは勿論春生でもなければ上司でもない。同じ営業部の人間とはいえ、顔も知らない、名前も知らない、どこかの誰か、つまり、赤の他人である。しかしながら、まずは非礼を詫びる。それによって、ようやく、何かしら自分が必要としている情報を相手から聞き出すことが可能になってくるのだ。
一方的な謝罪である。そこに弁明などが介入する余地はない。
「このたびはこちらの不手際により──」
数秒の頭を下げた謝罪が行われたのち、頭を下げたままの姿勢で、上司の謝罪がさらに続く。春生はその間、何を考えるでもなくただただ無心でいなければならない。自分も、上司と一緒に強く謝っているのだということを心に留めておかなければならないのである。
謝罪は続く──謝罪は続く──どこまでも──
「……疲れた……」
春生は死んだ魚のような目をして帰路についていた。昼過ぎまで電話対応、夕方からは外出して謝罪訪問。松尾春生のここ最近の人生は目が覚めては謝罪、目が覚めては謝罪、謝罪、謝罪、謝罪、である。
駅のホームで、同じく帰路についているサラリーマン。すれ違いざま、僅かに肩と肩がぶつかりあう。
「あ、す、すみませんっ」
謝るようなことじゃない。お互いさま。けれども、春生は条件反射のように謝罪の言葉を吐きだす。
駅に響く電車の音。ガタンゴトン、ガタンゴトン、電車でもあんなに真っ直ぐ走ってんのになぁ……なんてことを春生は考えていた。
疲れた毎日を繰り返す春生。そんな春生に転機が訪れたのは、二十一歳となる誕生日を過ぎたある日のことである。
「これはどういうことかね!」
春生が昼休憩を取っている元へ、どたばたと、営業三課の課長がおしかけてきたのである。この頃、鬱々とした気分で毎日作業のように仕事をこなしてきた春生であったが、先日、外出クレーム対応の時に相手にしていた会社から、商品購入のキャンセル──つまり、クーリングオフを通達されたというのだ。
春生は、課長に責め立てられる中、状況を整理することを試みた。自分が行った謝罪に何か落ち度があっただろうか……うぅん、記憶が曖昧である。とにかく、今すべきこと、それは……。
「すみませんでした! 課長!」
謝罪、である。まずは相手の怒りを鎮める。相手の怒りを鎮めることを試みつつ、解決の糸口を探るのだ。今回のクーリングオフ、会社単位で見ても、かなり大きな案件で発生している事態であることが分かる。加えて、課長は、そもそもの問題点をつく訳ではなく、春生に対して責任を問うかのごとく、責め立てているのだ。
「なんてことをしてくれたんだ! 今回の損失は──!」
周りに人がいるにも関わらず、ひたすら春生を責め続ける課長。どう見ても絶望的な立場である。絶望的な立場であるが、春生は、なんだか、楽しくなってきた。不謹慎すぎるため、なんとかそれが表に出ないようにすると同時に、頭を深々と下げ続けることによって一切を相手に悟らせないようにしはしているものの、この修羅場が楽しくなってきてしまったのだ。ついに俺の精神はおかしくなってしまったのだろうか、と疑う春生だったがどうやら違う。
今、この時こそ、活かせる時だと思ったのだ。この修羅場を乗り切ってこそ、これまで積み上げてきた謝罪の技術を証明できる、と春生は考えていた。謝罪とは、何であるか。それを語るには万の言葉を以ても足りないが、とにかく、今、ここで、春生は、己の謝罪を見せる必要があった。
「すみませんっ! その、ですね……しかし、ですね……」
言葉が出てこないっ──! これでは、課長の怒りのボルテージはさらに上昇していくことは明らかだ……! まずい、春生の中で焦りが見え始める。
「君ねぇえ!」
課長は激怒。とにかく、怒鳴られ続ける。最終的に、このクーリングオフをさらに撤回させるように、お前一人で謝って来い、というなんともむちゃくちゃなことを言われ、課長は去っていってしまった。
結果、何とも悲しいことに、春生は窮地も窮地、ド窮地に追い込まれてしまったのである。解決の糸口は──ない。謝罪がどうこう、というレベルではない。謝罪の域を抜けてしまっていた。もう、責任を取るしかなくなっているのだ。
今回の問題を片づけることが出来る見込みは、春生から見て、ほぼゼロに近かった。では、今回の件をうまく片付けることができなかった場合、春生はどうなってしまうのか。恐らく、クビ──はないだろう。結局のところ、どれだけの責任を押し付けられたとしても、春生はある程度大きな企業の社員。その端の端、営業三課クレーム対応という立ち位置であるからこそ、こいつならそのくらいの失敗はする、と期待さえされていないのである。
自分が期待されていないということを、ここで強く自覚してしまったのである。
春生の足取りは重かった。定時を軽く過ぎ、日が跨ぎそうになるまで、何とかかんとか、クーリングオフの問題を解決しようとあれこれ試行錯誤してみたが、問題となっている商品を改善しようにも、開発部やその他多くの部署に交渉をしなければいけないし、仕様を変更するとなれば、膨大な経費と時間と人手が必要になる。そんなことを相手の会社が待ってくれるはずもない……。
「……はぁ、もう、消えてしまいたい……」
辞める? 辞めてどうなるというんだ。積んだキャリアは所詮クレーム対応。辞めて同じような職場へ行くとしたらそれこそさらに厳しい現実と戦わなければならないだろう。はぁ、はぁ、と春生は何度もため息をつきながら、帰路についていた。スーツが重たく感じる程に身体は疲れていた。
いつもの帰路とは違う。何が違うか、っていうと、人が少ない。当たり前だ、終電が通りすぎ、春生の住むアパートがある最寄駅から少し歩くと人影はほとんどいなくなっていた。アパートに着き、エレベーターに乗る。人はいない。ただ一人。
「……あー、消えたい」
本当は、死にたい、と言いたいところだった。でも、なんというか、まだ、死にたくはなかった。気持ち的には、そうであったが……。しかし、消えるってのはどういうことだろうか、とふと考える。どこか知らない場所に吹き飛ぶ? 存在そのものが消し飛ぶ? そんなことを考えながら、疲れから目を閉じる春生。当たり前ながら真っ暗だった。でも、目を開けてもどうせそこに誰かいる訳でもない。少しでも休めるために、エレベーターが動く間の時間だけでもと目を閉じておく。
エレベーターが、自分の部屋のある階へと到着したようで、チンという音がなる。若干長めに思えたのは、疲れていたからだろうか、目を閉じていたからだろうか、ほんの少し意識を失っていたのだろうか……。とにかく、春生はため息をついて、早く自室に戻りたいという思いで、エレベーターを降りる。降りたはずだった。
「……あれ?」
あれ、あれ、あれ、そこにあるはずの地面がない。だが、当然、春生はそんなことを予想している訳もない。そりゃ消えたいとは願ったが、だからなんだってんだ、という話である。つまり、春生は、踏み出したと同時に、その片足は宙を舞い、何もない空間を踏みしめようと試み、もちろん、空気を踏みしめられるはずもなく、空振る。同時に、体ごと宙へと放り出される形となる。
「おい、おいおいおい、おい! おいおいおい!」
春生は焦った。感じていた疲労感を全て振り払う。脳がビリビリと悲鳴を上げた気がした。同時に目を見開く。明るい。夜じゃない? そこにあるのは空らしい。いやいや、そんなことは良い。現状を把握すべきだ。春生は、落下しているようだった。顔、体、腕、色々なところに空気の抵抗を感じる。何階から? エレベーターが止まったのは何階だ? 死ぬのか? エレベーターどこまで上がっちゃってたんだ?
様々な疑問が浮かんでは消え、浮かんでは消え──春生は落下した。そして、思ったよりもずっと短い時間で、春生の身体をものすごい衝撃が襲った。着地したのである。同時に、ガッシャーァアアーという轟音。どう考えても原因は春生自身であろう。
落下したのは──大量のフルーツの上……? 木箱に詰まった、たわわな木の実の山の上のようだった。外観は、店。商店だ。春生は目を回している。そして、どうしたどうした、と周りから人が集まってくるの声だけを聞いている。目は開けられない。恐らく、フルーツのようなものを大量に潰してしまったために、目には大量の汁やら、フルーツの破片やら、色々なものが乗っかっているらしかった。
ものの見事に大量のフルールをぶっつぶした仰向けになっている春生を見下ろすのは、いかつい面をした二メートルはあろうかという大男。なんだなんだ、と他の店から集まってくる野次馬や、その商店の周りにいた客たちとは違い、彼は怒りの表情を浮かべているようだった。