手を繋ごう
朝ご飯を食べて、鍛錬してからシャワーを浴びると眠くなった。ほんの少し目を閉じて休憩するつもりが、一時間以上たっていて約束の時間ピッタリに信彦に起こされた。
着替えて鞄をひっつかんで、階段を三段飛ばしで駆け下りて、待ち合わせ場所の玄関前で待っている紅葉にやぁと片手を上げる。
「アルノさん。遅いわ」
「ごめんごめん。寝てた」
「……」
紅葉は言葉で責めたりはしないが、口を結んで眉を寄せた。そんな顔をさせておいてなんだが、仕事中は無表情を常として、日常にもそれが習慣化しかけていた紅葉が、そうして素直に表情を見せてくれるのは何だか嬉しい。
「怒った顔も可愛いよ」
だからアルノも素直にそういったのだけど
「そんな言葉で誤魔化されないわよ。ほら、襟も曲がってるわ」
紅葉は厳しい顔を崩さない。隣まで近づいたアルノの服の襟に手を伸ばし、そっと正した。
「ありがと。紅葉って、いい奥さんだね」
「だから、もう。褒めたって、いい加減なのが許されるわけじゃないんだからね。はい、行くわよ」
「そういうつもりじゃないって。ただの本音だよ」
歩き出す紅葉について歩きながらそう言うと、紅葉は苦笑して玄関ドアを開けた。
「もういいわよ。それよりデートを楽しみましょう」
許してくれるのは嬉しいけど、本気で誤魔化しているわけじゃないのに。そう言うお調子者であると言う評価はどこから来たのだろうか。アルノとしては、真摯に向き合っているつもりなのに。
まぁ仕方ない。ここで粘っても、意識が改善するわけでもない。ここは地道にアピールするべきだろう。
家を出て、当然のごとく歩き出す紅葉。車で、と言おうかと思ったがまだ時期尚早だろう。信彦にももっと練習してもらわないと。
「今日はどこに行くの?」
「今日は、一応お昼は決めたけど、そんなに決めているわけじゃないよ。ぶらぶらしよ」
「そうなの。アルノさんらしいわね」
「そう?」
「ええ。気負わないところ、いいと思うわ」
紅葉はそう微笑んでくれた。うんうん。やっぱり自然体が一番だ。恋人になってからのデート第一弾なので、何か特別、と考えなくもなかった。
だけど特別なことをしようにも、地の利は完全に負けてている。力みまくった結果がっかりされたり、肩透かしになるくらいなら普通でいいだろう。
「そんな訳だから、クレハのリクエストがあるなら何でも応えるよ」
「え、と。そうねぇ……出来れば、ゆっくりしたいわね」
紅葉も特別希望があるわけではない。付き合いたての二人にとっては、二人きりならそれだけでいいのだ。家だとどうしても他に人がいる。外でももちろん人はいるが、知り合いでもないならそれほど気にならない。それだけでも出る価値はある。
「それなら、とりあえず、お昼食べたら、公園でも行ってのんびりしよっか?」
「そうね。いいわよ」
紅葉の了解ももらったところで、アルノはふと気が付いた。
せっかく正式に恋人になったのに、これだと付き合う前と同じ距離感ではないか。
もちろん会話折々に、紅葉の雰囲気は柔らかくなったと思うし、自分の感じ方だって少し違う。だけど普通の友人と変わらない立ち位置だ。これでは、外から見て恋人とわからないかも知れない。
もちろん杞憂であり、普通に傍から見ても心の距離感が近いことはわかるし、そもそも人に知られる必要は全くないのだが、アルノはそれに危機感を持った。
そして決意した。そうだ。手を握ろう、と。
そうすれば、誰が見たって特別だ。まさか友達同士でつないだり、迷子の子を連れているような年齢には見えないのだから、これでいこう。
ちら、と紅葉の様子を伺う。視線があった。
「? どうかした、アルノさん? 急に黙って」
「あ、ああ。紅葉に見とれていて」
「また。もう。もしかしたら、本気で言ってくれているのかもしれないけど、そんなに簡単に言われたら、その、困るわ」
ううん。今度は確かに、誤魔化しまじりだったので否定できない。でもけして、そんなつもりではないのだけど。ううむ。
しかし、困った。困ったなぁ。とアルノは紅葉に気づかれないよう内心でだけ唸る。
以前、初めてデートに行くときは何も考えずに、紅葉の手をとることができた。
だけど今、思いあっている状態になって、少し躊躇してしまう。それは気恥ずかしさももちろんある。何もない時と同じとはいかない。
でもそれ以上に、同じように拒否されたら嫌だな、と思う。別に嫌で拒否されるとは思わないけど、照れて同じように振り払われるのはあり得る、と思う。
そう言う紅葉の気持ちをわかっていても、口だけでなくて行動として冷たくされることを考えると、嫌だなと思ってしまう。それに強引にすることで、不快に感じるかも知れない可能性もなくはない。
それを考えるとなおさら、手をとってもいいものか、悩んでしまう。
手を繋ぎたいのはアルノの希望で、紅葉がアルノを好きだからって何でも同じように思ってくれてるとも限らない。
もどかしいなとアルノは思った。恋人になれたなら、両思いなら、もうそれでどんなことでもうまくいくのだと思っていた。幸せなことしかないのだと、思っていた。
だけどそうではなくて、むしろ、前よりずっと、紅葉のことを考えていると、不安になる。嫌われないか、と。
家なら、会話をするだけなので、今までより踏み込んだ会話をしたとしても、紅葉の反応ですぐに取り消せば冗談ですむ。だからそれほど気にしなかった。だけど行動したら、冗談ではすまない。
そう思うと、前の自分はとても自分勝手だったなとアルノは思った。
紅葉に好かれるわけがないと、自分が好きな人が自分を好きになるはずないと、そう思っていたから、あえて好かれるために嫌われないためにと意識し過ぎることはなかった。しかし今は違う。
それは幸せであると同時に、恐怖だ。初めから好かれないと思っていれば、嫌われることは恐くない。だけど好かれてしまえば、嫌われることは何より恐ろしい。
「アルノさん? 何だかさっきから、変よ? もしかして、体調が悪いの?」
「え、あ、ごめん。そうじゃないんだ、その……」
紅葉の手を見る。
手を握りたい。さっきは思い付きだったけど、それを意識してしまえば、触れたくて仕方ない。
「く、クレハ、その、提案なんだけど……」
勝手に握るのではなく、聞いてみることにして、だけどそれって、何故かとても恥ずかしくなって、アルノは言葉をとめた。
こんなことでわざわざ聞くなんて、意気地無しだと思われないだろうか。今まで強引にやって、好かれたなら、今後もそうすべきではないか。
だけどそれで嫌われたら本末転倒だ。でも、改まって口にするのは、とても幼稚に思えたし、それに好きだと言うよりも、触れたいのだと伝えることは下心をだすみたいで、恥ずかしく感じられた。
「あのっ」
そうして思考して、また黙ってしまったアルノに、紅葉が声をかけた。勢いのよいそれに視線を戻す。紅葉は赤い顔をしている。
まだ何も言っていないのに、どうして照れているのかわからず、アルノは首をかしげる。だけど口に出してアルノが尋ねるより先に、紅葉が続きを口にした。
「手を、つ、繋ぎ、ませんか?」
「えっ」
な、何で? 心を読まれたのか!? と困惑するアルノに、紅葉はきっと睨み付けるような顔になり、アルノに手を向けて手を降る。
「なっ、なによ。嫌なの?」
「あ、いや、もちろん、そんなわけないよっ。その、よ、喜んで!」
アルノはぱっと、反射のように紅葉の手をとっていた。握ったその手は、柔らかくて熱くて、すでに抱き締めたことだってあるし、女の子と手を繋ぐことくらい経験はあるのに、とても特別で大事なものを触ったように緊張した。
いや、ように、ではない。紛れもなく、特別で大事なものだ。
「く、クレハ。その……ありがとう、勇気を出してくれて。この次は、俺から言ってもいいかな?」
「……そ、そんなこと、わざわざ口にする必要、ないでしょう? 私たちは、その……と、とにかく、そんな関係ではないんだから」
手を握れたアルノが赤くなって緊張で固くなったように、紅葉もまた動揺しているようで、だけどそれでも、そう言ってくれた。
そうだ。何を恐れていたんだろう。例え拒否されても、不快にしても、そんなことくらいですぐに何もかも駄目になる、そんな関係ではない。アルノと紅葉は恋人だし、夫婦でもあるのだ。
間違っても、その都度謝ればいい。それを許してくれない紅葉ではない。
アルノは、万感の思いを込めて微笑んだ。
「クレハ、大好きだよ」
紅葉は口元をもぞもぞさせて、でも何も言わずに、黙ってアルノの手を強く握った。




