手紙を書こう
通路ですれ違う侍女にも機嫌よく挨拶しながら、気まぐれに扉をあけては見て回って行く。途中書庫もあり、一番近い棚から一冊取ってみたが、アルノの読解力ではまだ読むレベルにはなかったのですぐ戻した。一周したので、知っている階段から階下に降り、このまま一階まで降りて庭でも散策してみるか、と考えていると下から信彦が上がってくるのが見えた。
「おお、信彦」
「おお、じゃありませんよ、先輩!」
アルノの隣まで勢いよく駆け上がってきた信彦の勢いに、アルノは引いて愛想笑いをしながら階段を下りる足は止めない。怒られそうな時もあくまで自分のペースのままでいることが、相手の怒りをそらさせるコツだ。
「おわ。な、なんだよ。怖い顔して。お前にそんな顔は似合わないぞ?」
「誰のせいだと思ってるんですか。こっちはあなたが徘徊していると聞いて飛んできたんですよ」
「何だって? おいおい、ここは俺の家だぞ? ちょっと家の中をうろついただけで怒られるのはおかしくないか?」
怒られる道理はないだろう、と言うアルノに、信彦は呆れたように右手を自分の額にあてながらため息をつく。理屈で言えばそうだろうが、この主は全く従者の気持ちを分かってくれない。
どれだけ自分が理不尽に不遇な扱いを受けているのかわかっているのか。それを改善させるために自分が頑張っているのに、うろうろして。それで館の人間からの印象が悪くなれば、困るのは主なのだ。自分もつれず一人でいて、何かあれば、自分がどう思うのか、わかってもらいたいものだ。もちろん、わからないような鈍感でぼんやりした人間だから、自分が仲良くやってこれたのは理解しているが。
とにかくいったん部屋に戻ってもらおう、と信彦は説得するべく口を開く。
「あのですねぇ」
「その通りだな」
「!?」
信彦の言葉を遮るように、流暢な発音の女の声がかけられた。ちょうど二階についたところで、その通路からだ。立ち止まって目をやると、そこにはこの館の女当主、紅葉がいた。
ぎくりと肩をゆらす信彦とは対照的に、アルノは嬉しそうにふんわり笑う。
『クレハ、こんにちは。いい天気ですね』
その教科書通りな挨拶に、紅葉は毒気が抜かれたようなきょとんとした顔をしてから、急に眉をよせた。怒っているのか? とアルノがさらに声をかけるより先に、紅葉がアルノの国の言葉を口にする。
「あなたの言う通り、館の中を歩いたくらいで怒られるのはおかしなことだ。騒がして申し訳ない。使用人達にはしっかり言い聞かせるが、いかんせん言葉の壁は大きい。申し訳ないが、話しかけるのはやめてもらいたい。どうしても暇で話し相手が欲しいなら、街へ出るといい。あなたと話してくれる女性はいくらでもいる。金銭も余裕がある程度に渡すつもりだ」
用があるなら今も後ろにいる執事の司に言う様に、と言うと話は終わりだとばかりにさっさと立ち去ってしまった。
ふむ。どうやら思った以上に悪印象しかないらしい。本当に忙しいとしても、せっかく顔を合わせたのに、冷たい言葉しかないのだから。忙しいからもうちょっと待っててね。なーんて可愛く言われたなら、アルノは気にせず待つというのに。
立ち去るクレハとその執事、司をなんとなく見送ると、信彦ははんっと柄悪く鼻から息をだした。
「感じが悪いにもほどがある。先輩、この婚姻、なかったことにしたほうがいいんじゃないですか?」
「馬鹿を言うな。忙しい中、日付を早めたのはこちらの都合だ。準備ができていないのは仕方ないだろう?」
それに、一応すでに書類上はすでに婚姻しているのだ。落ち着いてから式だのなんだのをするのだろうし、実際に夫婦として始まるのはまだだけど、一度したものをひっこめるわけにはいかない。アルノはともかく、女性側の経歴に傷がつくのは望ましくない。女性には優しく、がアルノの基本姿勢だ。
全く気にしていないようなアルノに、この女たらしの女好きめ、と本人が聞いたら撤回を求めることを内心毒づき、アルノへの抗議を続ける。甘んじて受け入れているアルノもアルノだ。
「そういう面を考慮しても、ひどいと言っているんです。今のだって、早く外に女を作りに行けと言わんばかりじゃないですか」
「そうだったか?」
「そうです!」
「ふぅむ。じゃあ、行くか?」
「は?」
「女を口説くために、街に行くか」
「はぁ?」
大きく口をあける信彦に、悪戯成功、と言わんばかりにアルノは笑いながら、そのまま本当に信彦を連れて街へ出た。
○
「ちょ、ちょっと先輩!? 本気ですか?」
確かに信彦は婚姻をやめろ、とまで言った。一使用人が言っていい発言ではなかった。確かに、特に家のためになるような縁談でもないが、余所から見てみれば極つぶしの三男坊の行き先としては、貴族ではないにしろ豪商の女当主の婿となれば悪い話ではない。使用人がどうこう言うようなものではない。
だがそれも友人でもあるから、アルノを思って言ったことだ。彼に甘い祖父の大旦那に言えば、婚姻をやめるのは難しくない。現状彼は何も悪いことをしていないのだから。しかし本気で結婚三日目にして他に女を作ろうものなら、一気にアルノは悪者だ。
アルノに幸せになってほしいからこそ、売り言葉に買い言葉な勢いなんかで、軽率なことはしてほしくない。慌てる信彦に、アルノはくすくす笑う。
館をでて、小高い丘の上にあるそこから近くの繁華街へ向かいながら、アルノは冗談だよ、とあっさり信彦にネタばらしをする。
「口説くため、と言うのは嘘じゃないが、お前の心配するようなものじゃない」
「いやいや、その言い方で安心できるわけないでしょう」
「単に、便箋を買いに行くだけだよ」
「……便箋? 実家に手紙ですか?」
「まさか、そんなものなら持ってる無地のものでいいだろう? 可愛らしい、恋文用の便箋だ。俺の奥さんのためにね」
けろりと言われて、信彦はぱちくりと瞬きを繰り返す。その間抜け顔に、アルノはケラケラと笑う。その反応にも腹立たないほど、信彦は驚いていて、十数秒たっぷり固まってから、ようやく口を開く。
「……は? 奥さんって。あの女ですか?」
「おいおい。奥様ってお前が言ってたんだろう。つか、あの女呼ばわりはいくら何でも」
「失礼しました。しかし、恋文って」
「いいだろう? 忙しいクレハでも、手紙なら読めるだろうし」
要するに、アルノは紅葉に拒否されてもなお、それに合わせて近づこうと言うのだ。なんともいじらしく、主にするには情けない。こう言うへらへらした優しすぎるところが、好ましくもあり時に腹立たしい。わかってはいても、それなりに長い付き合いだからこそ、呆れてしまう。
「本気ですか? あんな対応してくる女に」
「おい。と言うか前から思っていたが、お前は女性に対して冷たいところがあるよな」
「先輩が軟派なだけでしょう」
「そんなことはないと思うんだが。まあ、とにかく仲良くするに越したことはないだろ?」
「まあ、そうですけど。あなたを置いて帰ることが、不安になってきました」
「だったらずっといてくれていいんだぞ?」
「冗談はその脳みそだけにしてください」
「信彦はひどいなぁ」
話しているとすぐに、店舗がある繁華街へと着く。意気揚々と出てきたはいいが、通訳の信彦がいなければいざ迷った場合に困ることになっただろう。よかったよかった。
しかし信彦任せにしていれば、アルノの言葉はよくならない。信彦相手に多少練習はするが、やはり実践に勝るものはないだろう。信彦は控えさせ、自分で道を聞いてみることにした。
『すみません。私に教えてくれますか。私は道を知りたい』
『おお? 外人さんか。上手にしゃべるね。どこに行きたいんだい?』
手近にいた通行人の男性に、便箋を購入する店を尋ねようと声をかけた。こちらの意図は通じたようだ。ほっとしつつも、帰ってきた言葉を頭で翻訳してから口を開く。どうしても一拍間があいてしまう。
『私は買い物をしたい。その為、私はお店に行きたい。私は……あー、手紙、書く。紙。欲しい』
便箋、が出てこなくて急に片言になってジェスチャー混じりに問いかけるアルノに、男性は苦笑しながらはいはい、と頷いた。
『便箋だな。それなら行くのは文房具屋だ。ここからなら』
無事、道を教えてもらえた。道順を繰り返して確認してもらい、念のため信彦を振り向いて話を聞いていたことを確認してからお礼を言って歩き出す。アルノはふふん、とどや顔で隣に並んだ信彦に声をかける。
「どうだ? 問題なく話せていたよな?」
「そうですね。便箋の単語が分からなかった点は、置いておいて、この分なら一人で買い物に行く程度なら問題ないでしょう」
「そうだろう。少し自信がついてきた。この分なら本当に一か月で帰してやれるかも知れないな」
「ありがたいことですが、今後は単語もですがネイティブの話し方を学びましょうか」
「ん? おかしかったか?」
「はい。うっとうしくてくどい話し方でした」
「お、おお……そうか」
しょんぼりするアルノだが、信彦は内心感心していた。初期に教えたあいさつなどは別にして、基本的に単語については発音記号の読み方は一通り教えたが、あとはテキストを見せただけだ。にもかかわらず発音自体が完璧だった。言い回しを直して、語彙を増やせば問題なく、ネイティブと遜色なく話せるようになるだろう。
信彦自分も他国語を今では違和感なく使っているが、渡航してすぐは発音に難があったのを自覚している。物おじせず話しかけるので、すぐに言い回しも習得するだろう。このままスパルタでいけば、一か月もかからないかもしれない。そうなれば、自分ももっと早くアルノがここに馴染める様にしなければ、と気を引き締めた。
文房具屋にも無事到着し、アルノは気に入った可愛らしい花柄の便箋セットを購入した。こんな女性ものを当然の顔して購入するのだから、相変わらずだなと信彦は違う意味でさらに感心した。