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お休みの挨拶をしよう

 恋人になった。あの紅葉が、アルノを特別に思ってくれているのだ。そう思うと、嬉しくてたまらない。今まで多くの人間からアルノは特別扱いされてきた。それは身分であったり恋心であったり、色々ではあるけど、特別な人間だった。だけど、本当にアルノにとって特別だ、世界で唯一の大切だと思う人から、同じように思われたことはなかった。

 思いが通じ合うと言うことの、なんと心満たされることか。今なら、働いてもいい。と思える。嫌だけど。嫌なことでも、紅葉が望むならしてもいいと思える。


 屋敷に帰るまで、ずっと浮足立っていたし、紅葉との会話一つ一つが、全て楽しくて仕方ない。家についてから、部屋に行くため別れることすら離れがたかったけれど、すぐに夕食の時間なので仕方ない。


 部屋に入ると信彦が荷物の整理をしてくれていた。何というできた従者。信彦みたいな付き人がいて、幸せだなぁ。なんて頭の悪いことまで考えてしまう。


「おかえりなさい、旦那様」

「おー、ノブヒコー、いぇーい。ふんふーん」

「うわ。え、何か、拾い食いしましたか?」


 本気で心配された。しかしそんな信彦の視線にも、何一つマイナスに感じることはない。

 アルノは文字通り浮かれていた。紅葉の前では余裕ぶっていたけど、鼻歌だって歌っちゃうし、意味もなくベッドに飛び込んで逆立ちしちゃってから、宙返りして床に着地した。


「拾い食いなんて、してない!」

「え、えぇー? ほ、本当にどうされたんですか?」

「ふふふ、聞きたい? 仕方ないなぁ。ノブヒコには教えようかなー」


 心配顔から一転、アルノの思わせぶりな態度に、あ、やっぱいいです。と言いたくなった信彦だが、聞かない訳にもいかない。ここまで主がおかしくなっているのだから、理由くらいは把握しておかなければいけない。


「はい、知りたいですねー」


 結果、棒読みで促した。そんな態度も、今のアルノには全く気にするところではない。満面の笑顔でアルノは歌うように言う。


「クレハが、俺の恋人になったんだ」

「……それは、なんでしょう。後退したんですか?」

「何を言っているんだよ。前進に他ならない、決まっているだろう?」

「はぁ。しかし、そうおっしゃるということは、奥様のことを、好きになられたのですね」

「うん。好きだ。すごく、好きだ」

「そうですか。よかったですね」


 淡々とそう言う信彦だけど、表情はとても優しい顔をしていて、この顔を普段から見せていれば、信彦だってすぐに恋人ができるのに、とアルノは余計なお世話過ぎるお花畑な感想を持った。


「うん。もう、何というか、言葉にならないくらい、嬉しい」

「旦那様は本当に……まぁ、いいです」

「うん。ふふふ。お前にも、迷惑をかけたね。今までありがとう。切りがよくなれば、もう帰ってもいいよ」

「手のひら返すの早すぎませんかねぇ」


 笑顔で解雇通知にも似た宣言をするアルノに、信彦はため息をつく。善意だとしても、これはひどい。散々ずっといて何て言っていたくせに、飼い主を乗り換えるのが早すぎる。しつけのなっていない子犬よりひどい。と、とても雇い主を例えてはいけないものに例える信彦。

 そんなことを思われているとは知らないが、さすがにそのジト目にはアルノも気まずく、えへへと愛想笑いをする。


「別に、ノブヒコがどうとかじゃないよ? 好きだよ? でも帰りたがってたからね。俺にはクレハと言うかけがえのない大切な人がいるから、もうお前がいなくても、寂しくないし。帰ってもいいぞって言うこと」

「わざわざ告白してくれなくてもいいです。ご心配なく。しばらくは、自分で納得するまではいますよ」

「そう? 気をつかわなくてもいいけど。まぁ、いてくれる分には嬉しいからいいけど」

「旦那様は、以後自分のことだけ考えていればいいんです。俺の帰る時期とか、考えなくても大丈夫です」

「ノブヒコ……でも、最初は早く帰せって急かしてなかった?」

「言葉を覚えていただくため、心を鬼にしました。もう夕食の時間ですよ」

「はっ。そうだった」


 アルノは慌てて部屋を出た。もちろん信彦もついてきた。それを嬉しく思わなくもないが、やはり今のアルノにとっては、紅葉と会えることの方がずっと嬉しい。知らず知らずに早足になるアルノだった。









「クレハ、無理にとは言わないけど、もっとクレハとおしゃべりしたいな。部屋に遊びに行ってもいい?」

「え、う……」

「旦那様。急なことを言われても、奥様も困りますよ」


 無邪気に提案されたが、そう簡単にOKを出せない。と、戸惑う紅葉に信彦は助け舟を出す。本来なら夫婦の他愛ないやり取りに必要以上に声をだすのは許されることではなく、司は動く気配がなかったので、仕方なく信彦がそう言ったのだ。

 アルノとしては不満がないでもないが、しかし確かに急だし、紅葉に少しでも躊躇う気持ちがあるなら無理強いはしたくない。


「そっか。じゃあ、そうだ。携帯通信機で連絡してもいい?」

「それはもちろん。その、ま、待ってるわね」

「うん! 入浴すませてから、ゆっくし話そうね」


 てなわけで別れて自室に戻ったアルノは、腹ごなしに休憩してからさっさとお風呂にはいる。身ぎれいにして、リラックスして信彦も追い出したところで、ベットに転がり携帯通信機を操作する。

 今いいですか? と通信文を送ると、しばらく待つと向こうから通信が入ってきた。ボタンを押して耳にあてる。


『もしもし、アルノさん?』


 若干ごわついた声だけど、間違いなく紅葉の声なわけで、くすぐったさでアルノは背をゆする。


「はい、もしもし。何だか、面と向かわないと照れくさいね」

『そう? 私は、この方が落ち着くわ』

「えー。クレハの顔、俺は見たいけど」

『……その、照れるから、見ないでほしいの』


 小さめの声で言われると、ますますぞくそくして、余計に顔が見たくなる。どんな顔をしているのか、想像するだけでにやけてしまう。

 でも確かに、通信機で話すと言うのも悪くない。顔が見えない分、遠慮なく話せると言うならそれもいいし、想像すると言うのも楽しい。直接顔を合わせるだけが全てではない。ただ、紅葉のことを感じるだけで嬉しくてわくわくしてどきどきしてくる。


「クレハ、可愛いね」

『……見えないくせに。からかわないで。私、アルノさんより年上なんだから』

「見えることだけが全てじゃないでしょ。あと、年齢も関係ないでしょ? 俺はクレハのこと、いつだって大好きで可愛いって思うよ」

『……アルノさんは、女性の扱いに慣れてるでしょうけど、私は……その、そうでもないわ。だからその、こ、困らせないで』


 からかってなんかないそ、慣れてるわけでもない。ただ紅葉のことが好きなだけだ。と思ったけれど、それをそのまま伝えても、やっぱり紅葉は困ってしまうだろう。

 さっきは通信機もいいと思ったけれど、やっぱり顔を見ないと、どう感じているのかわかりにくい。同じ言葉でも、感情何て全然違うから、不安になる。


 だからアルノは困らないように、少しだけ大好きの気持ちを抑えて会話することにした。


「慣れてるつもりはないけど、そう思う?」

『嘘ばっかり。どうせ、たくさんの女性を泣かしてきたんでしょう?』

「え、えー、それはちょっと、ひどくない? そんなことしてないよ」

『本当かしら』

「本当だよ。告白だって、クレハにしたのが初めてだし、ずっと緊張してどきどきしてるんだから」

『……』


 紅葉は沈黙した。自分は慣れてない、何ていうから、アルノだっていっぱいいっぱいだよって言って、情けないけど本当のことだし、少しは安心してほしかったのに。

 今何を思っているのか、不安になる。やっぱりすぐにでも部屋を訪ねてしまおうか。だけどせっかく話すならと入浴後にしているのだから、紅葉もラフな格好になっているだろう。

 突然訪ねるには下心を邪推されてしまうし、実際にそう思わないとも限らない。夫婦とは言っても、気持ちはまだ付き合いたての恋人なのだ。それはまだ少し、早い。


「ねぇ、クレハ。まだ、俺たちはお互いのこと何でも知ってるわけじゃないよね」

『え、ええ、そうね』

「毎日俺は手紙を書いてるけど、それって不公平じゃないかなって思うんだ。だから、さ。交換日記、しない?」


 毎日顔を合わせている。だけどそれだけで、全て伝えられるわけじゃない。顔を合わせないと素直になれると紅葉は言った。なら、顔を合わせずにやりとりをすることも、毎日しよう。通信機ではついついアルノが話して、言いたいことを言えないこともあるだろう。

 だけど文字なら、落ち着いて伝えられる。アルノはそれを毎日書いていた紅葉への手紙で感じていた。恥ずかしいことは書かなくてもいいし、言いたいことをちゃんと整理して伝えられる。信彦に読まされた少女小説にあった交換日記と言うものは、それに適しているだろう。


『こ、交換日記?』

「うん。あ、知らない?」

『し、知っているけど……ふふっ。アルノさんって、本当に、純粋な人ね』

「そう? でも、オッケーならうれしい。あ、もちろん忙しいだろうし、受け取ったからって必ず翌日返さなきゃいけない訳じゃないから。気軽にしよう」

『わかったわ。それじゃあ、明日用意しておくわね』

「うん? ただのノートでよければあるけど。何か専用のものがあるの?」

『え、と。そうよ。ただのノートだと、ややこしいもの』

「そっか。じゃあお願い」


 やっぱり紅葉は女性だけあってよく知っているんだなとアルノは納得した。紅葉はそんなアルノに、通信機の向こうで声を出さずに笑うように息をつく。それが少し、くすぐったい。


『ええ。……その、アルノさん』

「なに?」

『その、素直じゃない私だけど、よ、よろしく、ね?』

「もちろん。こちらこそ、よろしくね」

『え、ええ……』


 ふと時間を確認してみると、いつもならそろそろ寝ている時間だ。惜しいけれど、今夜更かししても得はなく、むしろ紅葉の仕事の邪魔をしてしまうことになる。

 アルノは紅葉の仕事の邪魔をしないのが条件で、結婚したようなものなんだから、無理を言うわけにはいかない。


「そろそろ、寝る?」

『え、あ、そうねぇ……明日も、早いものね』

「うん。そうだね。名残惜しいけど……また、明日があるからね」

『ええ……』


 紅葉は相槌を打ったけど、それから何かを言ってくれない。それだけ紅葉もまだ話したいと思ってくれているのだろう。それは嬉しいけど、ここは自分から言い出そう。


「おやすみなさい、クレハ。って、何だか、お休みの挨拶をするのって、変な感じだね」

『そ、そうね……おやすみなさい、アルノさん』


 あまり夜に合わないので、紅葉とはおやすみと挨拶することも新鮮で、でも少し寂しくなる。


「うん……」


 頷いて、アルノは通信が切れるのを待った。


『……』

「……」

『……』


 あれ? 通信は切れていない。それはかすかに呼吸音が聞こえるからわかる。紅葉は黙っている。ええと。どうすればいいのだろうか。


「……あの、クレハ?」

『ひゃ、な、なによ。まだ聞いてたの?』

「え、あ、ごめん。自分では切りがたいから、普通に待ってた」

『わ、私だって切りたくないわよ』


 あ、可愛い。と思ったけど、際限がない。ここは心を鬼にしなければ。


「わかった。じゃあ、俺が切るよ。じゃあね、クレハ。大好き」

『……。……切らないの?』

「切ったと騙されてくれて、切ってくれるかと思ったのに」

『騙されないわよっ』

「ごめんごめん。仕方ない。ここはクレハが大好きって言ってから切ってよ」

『ちょ、ちょっと。要望がおかしいわよ』

「おかしくないよ」


 別に本気で恥ずかしがり屋の紅葉が言ってくれるとは思っていないけど、こう言えば通信機を切ってくれるだろう。不出来な自分を許してほしい。でもそれだけ好きってことだから。


『も、もう。こんな話をしてたら、きりがないわ』

「本当だ。じゃあほら、早く」


 急かしてみる。紅葉はとても躊躇うように、小さく声にならないような音を出してから、小さく小さく声をだした。


『………大好き』


 ぶつっと、不愛想なほど勢いよく通信は切られた。じわじわと体が熱くなる。


「……通信機最高」


 毎日通信したい。




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