夢のニート生活の終わり
「アルノ、お前にピッタリの仕事を見つけてきてやったぞ」
自室で静かに本を読んでいたアルノ・フォーレルの部屋をノックもなしに開け、猫なで声でそんなことを言うのは、アルノの祖父だ。アルノはまたか、と内心ため息をつきながら顔をあげる。
「お祖父様、またそんなひどいことを。俺を困らせるのはやめてください」
「そうつれないことを言うな、わしは可愛いお前を思っているのだ」
「何度も言ったように、俺は働く気はありません。一生、遊んで暮らしたいのです」
とんでもなくひどいことを、まるで被害者面して言うアルノ。彼の父親が聞いたら怒り狂って、直ちに彼を家から追い出しているだろう。しかし末孫で亡き祖母の髪と瞳の色を継ぎ、素直に甘えてくるアルノを目に入れても痛くないほど可愛がっている祖父は、まあまあそう言うな、とにこにこ笑いながらアルノが座るソファのテーブルを挟んだ向かいに座る。
そんな祖父の態度に、アルノはもう、と唇を尖らせてみせてから、ソファにキチンと座りなおして祖父に向かい合う。
「確かに、お前はフォーレル家を継げるわけではない。上の2人ほど、まあ、なんだ小器用でもないしな。だからといって、悲観することはない。お前の望み通りになる働き先を見つけてきたんだ。まあ、話だけでも聞いてみなさい」
「別に悲観しているわけでは……と言うか、さりげなく馬鹿にしていますよね」
そこそこの領地を持ち、まあまあ政治的にも影響力があり、それなりの貴族の三男坊として生まれたアルノ。上二人の兄は頭がよく程々に冷酷な判断もできる、長年続くお家運営に向いた性能を持っていて、年が離れて生まれたアルノは最初から、跡継ぎとしてはもとよりそのスペアや補助として支えになることすら期待されずに育った。
家として恥ずかしくない程度には厳しくも、基本的には自由にさせてもらえた。別にそれに不満はなかったし、結果として頭を使う能力は低いと自分でも思っているが、可愛がってもらっている祖父から言われると、複雑な気持ちになり拗ねたくなる。
「だから気にするな。お前の優しく穏やかで、人を惹きつける気質は、愛されてこそ本質を発揮するものだ」
「はあ。まあ、とりあえず、なんですか? その望み通りの仕事というのは」
「おお、ついに乗り気になってくれたか」
乗り気になったのではないが、いつまでもこの話を続けても仕方ない。さっさと聞いて断るだけだ。うんうんと頷く祖父は、アルノに促されて笑顔で言った。
「アルノ、結婚しなさい」
「……は?」
そしてそれから一か月後、アルノは海を隔てた島国に婿入りしていた。
○
「まいったなぁ」
「そうですか? あなたからすれば正に願ったり叶ったりではないですか」
ニートでいたかったんでしょう?と冷たく、アルノの通訳兼お付きとして婿入りについてきた龍宮信彦はアルノの困り顔を一笑する。
結婚しろ、というのが祖父一人の意見ではなく、家族総意だと言われて半ば強制的に船に詰め込まれ、まさかの海外へ来ることになった。
そしてついに出会った結婚相手からは淡々と、結婚するのは成り上がり商家と馬鹿にされている家名に箔をつける為の婚姻であり余所に子供をつくらなければ愛人を作ろうと自由なので、家名を落とさない程度に自由にするよう一方的に言われてすぐ去ってしまった。そして今、侍女に案内された部屋にいるのはアルノと信彦だけだ。
怒涛の展開である。
確かに、働かなくていい。と言うか家の仕事には関わるなと言われている。そしてそれなりにお金を自由にしていいらしいし、恋愛まで自由で、何も文句を言われないなら、もうこれ以上ない最高のニート環境だろう。だからこそ祖父もぴったりだとすすめてくれたのだ。
しかしこれから結婚して共にいる相手があの冷たさでは、正直辟易としてしまう。勿論政略結婚だし、否定するわけではない。ここまでの船旅で一ヶ月もかかったしそのつもりで心も決めた。
だが、こちらとしてもそちらの条件通りに口出ししないし、金遣いが悪いわけでもないし、女癖だって悪いつもりもないから、婿として理想的なはずだ。なのにあそこまでそっけなく、挨拶する時間も惜しいみたいにされるほど厄介者扱いされる謂れはない。
それなりに温厚に、共同生活する相手として仲良くやっていきたいと思っているので、どうしたものかと困ってしまう。
まして、アルノはこの国の言葉は少ししかできない。と言うか勉強したのは船旅の一ヶ月だけだ。
なので基本的にカタコトの僅かな単語しか話せない。話せるのはこの通訳の信彦と、現在婚約者である伊集院紅葉と、紅葉の付き人である執事兼秘書だけだ。なお、秘書の名前は聞いていない。
他にも一人くらい話せる人間もいるのかも知れないが、紹介されてない以上、その能力があったとしてそれに相応しい仕事をしているのだろうから、話し相手になってくれとは言えないのだろう。世話をしてくれる侍女が話せるならともかく、それもないだろうし。
「はぁ、とりあえず信彦、荷物片付けたら、言葉、教えてくれるか?」
「当然です。私は一年もここで遊ぶつもりはありません。3ヶ月、いえ、1ヶ月で覚えてください」
「え。そんな無茶な。いてよ。可愛い先輩を一人きりにするのか?」
「可愛い後輩を、活躍させる場に戻してやろうとは思わないんですか?」
「可愛いものは手元で愛でたい派なんだ」
「遠回しに言って気持ち悪いです」
「ストレート過ぎだろ」
信彦はアルノが高等学校時代の一年後輩だ。こちらの国の出身で、留学生としてやってきた信彦を可愛がって仲良くしていたし、その流れで有能だが貴族ではなくて就職先がなかった信彦はアルノの家で働くことになった。
恩を売ったつもりはないし、家に必要な人材だと雇うと決めたのは父親だが、その雇い主の命令として、アルノがこちらの環境に馴染むまで一年間付き人を命ぜられたのに、言葉だけ覚えさせて戻ろうとか自由か。
そりゃあアルノとしても、一年間実家で働き馴染みだしているところを連れてくるのは申し訳なくはあった。紹介した形ではあるし、友人でもあるから気にかけていたくらいだ。
だが付いてくることに一応了解したのだから、一ヶ月で帰るのは急すぎるだろう。1から言葉を覚えなければならないだけでなく、こちらの国の生活に馴染む必要があるのに、厳しすぎる。
「大丈夫です。先輩なら、すぐ言葉も覚えるし、馴染みます。そう信じてるから言ってるだけです」
「本当に?」
「何で自信ないんですか。いつも成績は上位だったじゃないですか」
「首席卒業に言われてもなぁ。まあ、出来るだけ早く帰してやりたいとは思ってるけど」
「はい。先輩は優しいからそう言うと思ってました。頑張ってください。はい、じゃあテキストひろげて。片付けは私がやりますから、単語の書き取りの続きをしてください」
「う。わ、わかったよ」
やるけども。元々勉学は嫌いではないけど、語学系はあまり得意ではない。どうしても気はすすまない。生活に必須なので仕方ないけれど。選択授業で、こちらの言葉もあったのだから、覚えておけばよかった。
アルノはため息をつきながら、渋々備え付けの机についた。
その様子を見てから、信彦はさっさと荷解きにかかった。本当は侍女の何人かは手伝おうとしたが、信彦の判断で断ったので、ここは一人でしなければならない。
一応ではあるが、主人であると言うのに普通に自分も荷解きをしようとするのはやめてほしい。付き人の意味がない。通訳だけでなく、アルノの生活に不便がないようにする為でもあるのだ。
信彦から見て、働きたくないと言う発言は完全に舐めてるなとは思うが、人格的には好ましいし実際仲良くやってきた先輩でもあるし、恩もある。
出来る限りのことはしてあげるつもりだ。アルノにどういうスタンスで付き合うつもりか女主人の意向がハッキリしないうちは、信彦がしっかりと目を光らせなければならない。
なので念のためだが侍女にも荷物は触らせなかった。貴重品をしっかり施錠するまでは、安易に触れられたくはない。アルノの荷物は貴族にしてはかなり少ない。夕食までにはなんとかなるだろう。
ただし、自分の隣の部屋は、寝るまでに片付くのか不明だが。まあ、仕方ない。信彦は信彦でため息をついた。