高貴なる落人(一)
若犬丸は、逃げた。
人目を避け、間道を通り、奥州田村荘を目指した。
奥州磐城の田村氏は坂上田村麻呂の子孫を私称しているが、実際は小山氏と同じ藤原秀郷を祖としている。関東に居場所を失った彼らが逃げ延びる先としては相応しく。その田村荘まであと少しというところで、若犬丸の馬が主を振り落とした。無理もない。馬が苦手な山道をろくに休みもなく進ませたのである。だが、よりによって一番身の軽い若犬丸の馬が。
地面に叩きつけられる瞬間、とっさに受け身をとったものの、背中を打ち、若犬丸は少しむせた。
「若君っ、お怪我はっ」
駆け付ける家来たちに、
「大丈夫だ」
手を振って無事であることを示した。
郎等の頭格たる野崎が差し延べた手を借り、体を起こす。
「兵次! 何をやっている! お前と若君の馬を取り替えるのだ」
野崎は気の利かぬ息子を叱咤した。
兵次は言われて初めて騎馬から降り、手綱を差し出す。
彼は若犬丸の五歳違いの乳兄弟で、幼いころからの彼の遊び相手だった。手先が器用なため絵や工作で若犬丸を喜ばせたが、こういったことでは気の回らぬ男だ。
野崎は主の乗馬を手伝いたがる素振りを見せたが、若犬丸はかまわず一人で鞍上につく。振り向くと兵次が、ぶるぶる身震いを続ける馬の四肢を点検していた。馬に怪我はないようである。
あまりに長い距離を移動したので、馬が腹を立てて振り落としたのかもしれない。去勢をせぬ荒馬は戦場では頼もしい武器ともなるが、気性の激しさで主人を手こずらせることがある。
頭のいい動物だ。若犬丸を子どもと侮ったか。急な山道では鞍から降りて進んだので、楽をすることを覚えてしまったか。
手綱を引けば、難なく歩く。そのまま兵次を徒歩で進ませ、一行は先を急いだ。
後方から、
「こらっ、主を振り落とすなど何たる不埒」
と、兵次が馬を叱る声がした。自分だけ徒歩の八つ当たりもあっただろう。
そのうち、ぎゃっと悲鳴が聞こえた。
機嫌をわるくした馬が兵次の頭髪を噛みちぎったのだ。
馬は咥えていた兵次の髪を不味いものでも口にしたとでもいうように、ぺっと吐き出した。
「いててて、何だ! こいつ!」
兵次は怒るが、馬の方で「相手にできませんね」とばかり長い顔を背けた。
人々の間から失笑が漏れる。
ぶつくさ言う息子の呟きに、野崎は、
「困ったものです。先が思いやられます」
と主を伺った。
しかし、張りつめていた空気が、兵次のおかげで和らいだのも確かだ。
若犬丸は細めた目で、気にするなと不肖の息子を持った野崎をなぐさめた。
田村荘まで間もなく。
敵の追撃や落ち武者狩りにも遭わずたどり着けたこと。
自分たちの幸運を喜び合った。
東の空が白々と明け初めたころ、若犬丸は手早く着替えると、寝室を抜け出した。
昨夜遅くに到着した小山一行。
迎えてくれた田村荘司義則と子息の清包は彼らを手厚く敬待した。
端女に盥を運ばせ、客人の旅の汚れを落とすよう命じると、一息ついた彼らへ助勢の不参を詫び、若犬丸の後見をその場で申し出る。
そして、
「遠路遙々(はるばる)よくぞ、ここまでたどり着きなされた。どうぞ、我が家と思って、お寛ぎ下さい」
家人に言い付け、一行を持てなしたのだった。
疲労の上に酒が振る舞われ、供人たちは夢の中だ。邸の者も夜更けの饗応に駆り出され、まだ誰も起き出す者はなかった。
若犬丸は敷地内の厩を目指した。
昨日機嫌を損ねた馬のようすを観るために。
荒馬とはいえ、気心の知れた仲間。
落馬後、兵次に任せてしまったが、やはり異常がないか気にかかった。
祇園城や鷲城ほどではないものの、庄司邸の敷地は広く、迷いかけながら厩にたどり着く。
人聡い馬たちはすでに目を覚ましており、見慣れぬ少年を不審と好奇の目で伺っていた。
そこへ厩の中から少女が顔を出した。
若犬丸の姿を見とめると少し驚いたふうに立ちすくみ、それから勇気を奮い立たせるようにして近寄った。
「若犬丸、あんた、若犬丸っていうんでしょう?」
年も身分も下の相手から呼び捨てにされ、不快になってもよかった。けれど、若犬丸はむしろ新鮮な気持ちが湧き上がり、少女を見返した。
小柄だがしっかりした顔つきは、自分より一歳か二歳しか違わないだろう。
波打つ髪を一つに束ねた頭、ぱっちりとした瞳が、若犬丸の胸に何かを呼び覚ますような気色を覚えさせる。
だが、それが何かはわからない。
「こんなに朝早く何しに来たの?」
ぞんざいな言葉遣い。身に付けた着物も薄汚れた粗末なもので、端女の子と知れる。子どもとはいえ働き手らしく、短袖から手っ甲を巻いた細い腕を覗かせていた。
「私の馬を探しているんだ。脚の具合が心配で」
若犬丸が答えると、
「あぁ、昨日来た馬なら、こっちの奥よ」
手招きして誘う。
少女の案内した先、その中に若犬丸の馬が繋がれていた。
利かん気の顔立ちをした栗毛は、科戸という名があった。
科戸は主の訪ないに、親しげに顔を寄せた。
――好き勝手な奴だな。昨日は私を振り落としたくせに。
そう思って苦笑しながら、首を撫でてやる。
脚に目をやると、科戸は、
――何でもないよ。
とでも言うように、力強く足踏みをして見せた。
科戸が、若犬丸をまだ子どもと侮ったは確かだ。主従というよりは友達、ぐらいに思っているのかもしれない。
――それでもいい。
こうして顔を擦りつけられると、先の見えない不安の中から心を晴らしてくれる。
――まるで、家族みたいなものだ。
心がすっかり和む。それから、先ほどの少女を振り返った。
少女は、若犬丸と目が合うと、
「私も撫でてみてもいい?」
と訊いてくる。
「どうかな。ちょっと近付いてようすをみよう」
少女をそばに寄せる。
荒馬へ不用意に近付けば、噛みつかれたり、蹴られたりして大怪我をする恐れがある。
けれど、科戸は少女を気に入ったようだ。
――撫でてもいいよ。
威嚇するでもなく、首を少女の方へ捧げた。
ただ、少女の手が届かない。
小山宗家の嫡子に然るべく、この馬の体高は一般の馬より六寸(十八cm)も高いのだ。
若犬丸は少し考えてから、少女の腰に手を廻し、ぐっと抱き上げると馬の体に寄せた。
少女は馬の鬣を撫でる。
その後、ゆっくりと少女の体を地面に下ろす。
「ありがとう」の一言を期待したのだが、少女はうつむいたまま、こちらを見ようともしない。
若犬丸は少女の顔を覗き込んで驚いた。
その頬が、なぜだか真っ赤に染まっていたのだ。
――何か間違ったことをしたのか。
若犬丸にはわからなかった。
生まれたときから年上の家来にかしずかれてきた彼に、少女の心の機微など。
「あの、私、水汲みの仕事があるから」
少女は、若犬丸の前をすり抜けると、走り出した。
走って、走って、まるで若犬丸から逃げるように。