小山若犬丸(二)
氏満との謁見の内容を、若犬丸は父に秘密にした。
誇り高い父の気性を知っていたから。
公方は、あの日酔いに任せるふりをして、若犬丸を嘲弄した。だが一方で、決して理性を手放そうとしなかった。小山家の主となった彼の出方を見極めるために。
若犬丸はそれに気付いていた。
――小山が牙を失った飼い犬として鎌倉に仕えるのであれば、許そう。
だが、わずかでも叛意を見せるのであれば、この機会に叩き潰す。
少年領主を試したのである。
「よく耐えたな」
父義政は若犬丸をねぎらった。
彼が口を閉ざしていたとて、先日の一件は家人から義政の耳に入っていた。
「父上のためにと思いました」
義政は、息子の首の後ろをなでてやりながら、口の端をゆるめた。
「あぶないところだった。鎌倉殿も、よく太刀を止めることができたな。酔っていたのが逆に良かったのかもしれぬ」
あの男は、武芸はからきしだからと言う。
氏満は幼いころから体が弱かったため武芸に身が入らず、文の道を一筋にその賢才を発揮した。成人しても武の方面は不得手のまま、今回の遠征も馬でなく輿を使ったというが。
義政は軽蔑した。
「将軍やら、公方やらに、武人としての資質は必要のない時代となったのだな」
氏満の祖父である征夷大将軍、足利尊氏公は自ら軍勢を率いて戦場を駆けめぐり、己れの命を懸けたというに。
代わって、策略により譜代、外様の大名を支配しようとする。
氏満の小山家への揺さぶりは、若犬丸の降参の儀をもっても終わらなかった。
宇都宮との私闘をして所領半分を没収、さらに二度の公方への抵抗により半分の半分。
本拠の小山周辺を残し、ほとんどの領地を奪われることになった。
「鎌倉殿は、私ともう一戦交えようという気らしい」
目と鼻の先にある鷲城は今もなお鎌倉勢が占拠し、本陣としている。
疑いやまぬ氏満の目が鋭く光っている。そしてその警戒心は当を得たものだった。
本陣の周辺には複数の武将らの帷幕が巡らされ陣所となっていたが、不審火が相次いだ。
義政が、細作をつかって火を付けさせたのだ。
あからさまな挑発行為である。
――鎌倉殿、私がこのまま引き下がるとお思いですか?
――野州(義政)よ、天下を敵に回して予に勝てると思っているのか?
互いが沈黙の火花を散らす間に、三月が経った。
永徳二年(一三八二)弥生、春の盛りと園庭の花々が咲き乱れる晩。
思うところあったか義政は、ひとり子の若犬丸を連れ、祇園城の内々を巡っていた。
父子に従う近習は家中の者だが、篝り火に照らされる歩哨の顔は皆、鎌倉方のものである。義政は彼らの監視の中で、気塞い日々を余儀なくされた。
しかし、一帯は己が領地。彼らの目を盗み、着々と反撃の準備を進めていた。
すでに昨年の暮れから、祇園城の北方、櫃沢山中の城を修繕し、合戦に備えていたのだ。
鼻先での裏切りを知ったとき、氏満の怒りは如何ばかりか。
旧主の性格を知る義政は、愉快になった。
「畢竟、私が死ぬか、公方が戦いに飽くまで、この戦さは治まらぬのだ」
語りかける父の、死という言葉の禍々しさ。
胸を冷やした若犬丸は不安げに義政を見上た。
「怖いか、若犬丸」
「怖いことなんてありません」少年は首を振った。
「父上さえいてくだされば」
「いや、もうお前は小山家の当主なのだ。私がなくともこの家を復さねばならぬのだぞ」
すでに、このとき義政は己れの運命を悟っていたのだろうか。
父がこの世からいなくなる―――
母は自分を生んで間もなく死んだ。子どものころかわいがってくれた祖母は尼寺に隠居し、数年を経た。
若犬丸には、家族と呼べる者は義政一人だというのに。
恐ろしさで身体が震えそうになる。
だが、それをぐっと堪え、代わりに言った。
「いつまでも父上のそばにいさせてください。領主とはいえ、名ばかりの私に何ができるというのですか。小山の命運は父上とともにあるのですから」
「小山宗家が、お前を最後に滅びてもいいのか」
義政は息子の言葉に対して、否定とも肯定とも取れる言い方をした。
下野の名門小山氏は、ここ数代、当主の短命により子どもに恵まれず、嫡流は義政と若犬丸だけとなっていた。
義政にとってただ一人の姉は同門の結城宗家に嫁いでいたが、結城は早々に鎌倉方に与した。彼らだけではない。一門の多くは、皆、幕府の後ろ盾を持つ公方に拠ったのだ。
義政は無謀な戦いに挑んだのか。
いや、勝算はあった。
時は南北朝の末期。
敵の敵は味方として、反幕府・反鎌倉府勢力と繋がったのである。
武州・上州の新田氏を中心とする吉野宮方(南朝勢)。
彼らと与同し、鎌倉勢を挟撃しようと。
昨年の合戦では敗れたが、まだ互いに余力のあることを確かめた。
小山での再戦は形勢不利。
ならば、北の櫃沢城に鎌倉勢を引き込み、背後を新田勢に攻撃させようと。
義政は息子に語りかけた。
「本当は、お前を置いて行くつもりだったが」
父と子の歩みは続いた。
付き添いの従者を待たせ、二人だけとなる。
祇園城の名の由来となった祇園社まで足を運び、立ち止まった。
悪疫を防ぐ牛頭天王と、妻の龍女を祀った社殿の前。
かたわらには、薄紅の睡り花が匂う春の宵。
その華やぎに反して、若犬丸の足元から冷え冷えとしたものが這い上がってくる。
「昨年私が出頭して鎌倉殿から許しを乞うことができました。このまま私たちの方で矛を収めれば、本領だけでも安堵されるのでは・・・・・・」
不安が言葉となって出てしまった。
「臆したか、若犬丸」
父の言葉は静かにありながら、彼の心を差した。
若犬丸は、反駁するようにきっと父を見返した。
「あぁ、その面構えだ」
義政は好ましげに息子を見た。
「鎌倉殿に膝を屈するのは容易い。だがそれで私が大切にしてきたものが守れるのだろうか。己れの命よりも大切な・・・・・・。地は血だよ。若犬丸」
「地は血・・・・・・」
父の言葉を反芻する。
――血を流してでも、この土地を守るという意味だろうか。
懸命に考え込む息子を眺める義政の、笑みはほろ苦い。
――己れは余程の愚か者だ。
義政の笑いは自嘲めく。
ふと、睡り花の枝がざわめいた。
風を感じる間もなかった。
若犬丸のすぐ目の前に、袿姿の女性が現れた。
檜扇で顔の半分を隠し、目だけが笑って親子を見た。
――物の怪!
義政のそばに寄り添う。
だが、父は、泰然として妖女を見返していた。
「今宵のような月夜には、きっとそなたが現れると思った」
「あら、私を待ってくれていたの? うれしいわね」
うふうふと扇越しに笑い声が漏れる。女の馴れ馴れしさに、父の知古と知れた。
「随分と涼しい姿になったわね」
義政の頭部を見て言うが。
彼はそれには答えず、
「私の息子を紹介しよう。若犬丸だ」
息子の名を呼ぶ。
「また犬ぅ?」女はうんざりとした目で若犬丸を見た。
「しかも自分と同じ童名を付けるなんて、あんたってばよっぽどの自惚れやねぇ」
「言うな。男児に犬の一字を付けるは、小山一門の代々の決まりごとと知ってるだろう」
「そんなこと言われたって。まったく、寒川の尼の言いつけ、まだ守っているの?」
女妖がなれなれしく呼ぶ寒川の尼――その女性のことは、若犬丸も小さいころから聞き知っている。小山の氏祖、太田政光の妻で二百年も前の大刀自だ。源頼朝の乳母として主君の信頼あつく、女ながらに地頭職を与えられた良妻賢母、と語り継がれている。
「やっとあんたが元服して犬の名を捨てたと思ったのに、まぁた余計なのが。ねぇ、そんな子ども遠くにやって。ねぇ?」
扇の縁から流し見る女の視線は艶めかしく、子ども心にも落ち着かない。
「よせ、子どものいる前で」
「あら、ちょっとからかっただけよ」
女は目を三日月にして笑う。そして祇園社に目を向けた。
「こんなもの奉って、ご利益なんてあるの? どうせなら、お稲荷さまでも奉ればいいのに」
「であれば、この城は小山祇園城でなく稲小山稲荷城と呼ばれるな」
女の軽口に、義政も軽口で返す。
「御利益あるわよぅ」
二人の目と目が見交わされ、戯れと言うべき空気が流れた。
――いったい、二人の関係は?
不審に思う若犬丸へ義政は言った。
「この女は、我が一族に呪いをかけた狐だ」
呪い? 狐?
父上があんまり穏やかに言うので聞き逃しそうになった。
はっと我に返ると、守り刀を取り出し、
「父上! この女が我が一族を祟っている狐であるならば、直ぐさま成敗しましょう」
若犬丸の言葉に、義政は狐女と顔を見合わせて笑った。
「私にそれができれば、とっくにそうしておる。先年私はこやつに刃を向けたが、散々にやり返されたものだわ」
くすくすと狐女が目で笑う。二人の間には奇妙な親密さがあった。
「先年とは?」
「一昨年、宇都宮との合戦の折、こやつがあらわれたのよ。ちょうど今宵のように、ふいにな」
「私も驚いたわ。鎌倉の殿に仕えるようになって間もなくよ。二人が敵味方で争うようになるなんて、これもまた何かの因縁、かしらねぇ」
女は他人事のように言う。
「呪いったって、何百年も前の大昔のことよ。寒川の尼のせいで、私も今は改心してるし。代わって、あんたたちの一族を見守っていたのよ。まぁ、ずっとってわけじゃないけど、その時々にね。で、この人を救おうとしたのにさぁ」
義政が宇都宮基綱を討ち取って間もなく、氏満が小山討伐を命じたころ、この女妖は、これ以上被害が拡大せぬうちにと降伏を勧めに来たという。
「うちの殿も抜いた刀をもとの鞘に収めるのが苦手な人だからさぁ。なのに、この人ったら会うなり私を袈裟懸けに切ろうとしたのよ。まぁ人間ごときにやられる狐女さまではありませんから」
「本当にあのときはひどい目に合った」
狐女と義政は笑い合う。
そんな二人を見て若犬丸は思った。
父上はこの女妖にたぶらかされているのではないかと。
「――それで、今宵は何しに来た。また降伏を勧めにか」
「そうよ、あんた、山奥で何だかごちゃごちゃやってるみたいだけど、無駄な悪あがきは辞めたらってね」
「無駄な悪あがきか?」
義政の目は遠くを見る目つきになった。
「・・・・・・意地なんて張ってないでさ。素直に長生きすればいいのに。わからないわねぇ」
「先ほど、この息子にも似たようなことを言われた」
「あら、親に似ず賢い子だこと」
狐女は若犬丸の顔を見た。
「地は血、といっても理解し難いようだったが」
「は? 何それ? 私にだってわからないわよ」
「・・・・・・」
それ以上は、微笑と無言だけを答えとした義政である。
狐女は、
「ふんっ。わからなくって悪うございましたねぇ」
だが、言うほど機嫌を損ねていないらしく、目元の笑みはそのままに、
「ついで狐のくせに、人様のことに口を出して悪うございましたねぇ」
扇をひらめかすと、ぺろりと舌を出し、虚空へ消える。
寸前、若犬丸に向けられた顔が、にぃっと笑ったような気がした。
後に残された父子は気を取り直し、祇園社に拝した。
――この戦さに勝てますように、父と祖母が無事でありますように、領民たちに危害が及びませんように・・・・・・
若犬丸は心に思いつくありったけのことを祈った。
そして、父の横顔を見た。
無言で手を合わせる父は何を祈るのだろうか。
永徳二年(一三八二)三月二十二日、義政は邸へ火をかけさせると、若犬丸を連れ、祇園城を出奔した。
戦って勝てる戦さと思っていたのか。
一月も経たぬうち、氏満の前にその首を晒されるとも知らず。