序(二)
異様に気が昂ぶり、床についても寝付けなかったのは、今思えば寺中に緊張が漲っていたからだ。
赤房丸は戸の隙間から漏れる月の光を見ていた。
冴え冴えとした刃のように体を横切っている。
その月の光がふいに翳った。
直後、戸が蹴倒され、赤房丸に本物の刃が襲いかかる。幾筋もの。
赤房丸は襖を蹴りのけて、板張りの上に転がった。
ぐさぐさぐさと、褥をつらぬく刃。
得物は武士が持つ太刀には短く、腰刀には長すぎた。
正規の侍ではない。
だが、それについて考えている間はなかった。
赤房丸は身の軽さを活かし、得物を引き抜くにもたついていた一人へ飛びかかった。
さっと身を引いた男の拳に手刀を叩き込み、得物を奪った。
だが、相手は三人。
背後から振り上げられた刃をとっさにかわしたものの、切っ先が右腕を裂いた。怪我を負った腕から刀を持ち替えて、むちゃくちゃに振り回す。
相手が怯んだ隙に部屋を飛び出し、庭に降りると、そこにも覆面の男たちがいた。
数で適うはずもない――赤房丸は素早く頭を切り換えると、縁の下へ潜り込んだ。
小柄な彼にとって、大人相手によほど有利だ。
中腰のまま走ることのできる赤房丸に比べ、男どもは這うようにしか移動できない。
堂の反対側に抜け出る。
勝手知ったる寺の敷地。さらに周辺の地理にも通じている。
赤房丸は、迷わず裏山に跳び込んだが、程なく大がかりな山狩りが始められたことを知る。
振り回される松明の光、猟犬の鳴き声。
無事に朝を迎えられたことが不思議だった。
山の奥へ奥へと進んだ赤房丸の周囲の景色はもう、見慣れたものではなくなっていた。
しかし、後戻りはできない。
裸足で怪我をせぬよう蔓草を足に巻きつけて、けもの道を踏み分けていく。
重みを増す刀を何度も捨てようか迷った。
飲まず食わずで歩き続けて一昼夜。
暗くなった木立の中で見つけた灯りを、最初は先回りした追っ手の松明か何かと思った。
洞窟から漏れる光。
――こんな山奥に?
狐火かと怪しむ。
だが疲労は警戒心を凌駕した。誘われるように、この洞窟へと足を踏み入れたのだ。
甕に汲み置かれた水を椀に注ぎ、無用は彼に勧めた。
赤房丸は、椀にかぶりつくようにして冷たい水を飲み干した。
「そんなに慌てて飲むとむせるぜ。ゆっくり飲めって」
無用という僧侶が何者かはわからない。けれど、赤房丸にはこの男に身を任せるしかなす術はなかった。
聞かれるまま素性をしゃべってしまったが。
孤児であること。武将の家に生まれたこと。武芸に覚えのあること。
それをもって、無用は若犬丸という武人の名を出したのだ。
「若犬丸と、彼の一族にまつわる話をさせてくれよ。その中で俺の素性もおいおい説明するよ。人にものを訊ねて自分のことは言わないってのも何だからね」
そう言いながら、祭壇の供物を勧めた。
「でも、まずは喰って寝ろ。今夜はもう遅いからな」
円座を枕にごろりと横になると、無用はすぐにいびきをかき始めた。
赤房丸も供物の団子や果物で腹が満たされ、睡魔に襲われる。
少年は灯台の明かりを消し、暗闇の中、眠りに落ちた。
翌日、目を覚ますと、無用の姿はなかった。
洞窟の入り口から白っぽい光がぼんやりと差していたが、奥までは届かない。ものの輪郭がようやくわかる程度だ。
ようすを伺いながら、外へ出る。
太陽の位置から、昼近くになっていたことがわかる。
木立の間で用を足し終えたところで、無用と行き会った。
腕には食べ物を入れた籠があった。
「こんなところで、うろちょろするなよ。見つかりたくないだろう」
赤房丸は言い返そうと思ったが、やめて、無用の後に続いた。
男は歩きながらしゃべった。
すぐ近くに煮炊きする小屋があり、ふだんはそこで寝起きしている。昨日はたまたま遅くまで洞におり、半死半生の赤房丸が現れたため、そのまま夜を過ごしたのだと。
――私を看るために一緒にいてくれたんだな。
無用への感謝の念を覚える。
けれど、昨日からろくに礼も言ってない。食事も寝場所も提供されというのに。人心地ついて、ようやくそのことに気付いた赤房丸は、改まって礼を述べた。
「いいってことよ。困ったときは、お互いさまさ」
洞窟の奥に戻ると、無用は明かりをつけ、
「ちゃんと手ぇ拭いたか?」
と言って食べ物を勧めた。
「どうも、この辺り一帯で山狩りが始まったようだな。でも、安心しろよ。追っ手が来たって、俺が適当に誤魔化してやる。下手に逃げたりしたら、却って危険だぜ」
無用の言う通りだった。
山狩りが落ち着くまで、ここに隠れていなければならない。
赤房丸の不安は無用にも伝わったらしい。
「そんな顔をするなって、どうせ行く所なんてないんだろ。それより、昨日の続きさ。俺の話を聞いてくれないか」
無用は体を真っ直ぐに少年の方へ向けた。
小山若犬丸という男の話。
赤房丸も円座の上で姿勢を改めた。
「本当は、お前さんが武将の子と聞いたからにゃ、ちゃんとした言葉をつかいたいんだが。すまないね、隠者の生活が長くて、すっかり人語を忘れてしまったよ。何しろ、こんなところで話し相手と言ったら木霊か狐狸ぐらいだもの」
無用はふふ、と笑い、
「さて」
本題に入る。
「若犬丸って云っても少年じゃないよ。もちろん、この男にも少年のころはあったがね。故あって死ぬまで童形・童名を貫いたんだ。そうだ、若犬丸の少年時代から始めようか。今から三十年くらい前の話さ」
三十年前、少年と聞いて、赤房丸の表情が引き締まった。
自分の思い浮かべたものと一致する。
「まだ、吉野の山奥に天皇の正統を名乗る輩がいてさ、日本のあちこちに、その余党が侮りがたい勢力を張っていた頃さ。そうだなぁ、下野(栃木県)国守の父親が戦さに負けて、城を明け渡したところから話そうか。何しろそこで、若犬丸の名が歴史に現れるんだ。まだ、たった十三歳(満十二歳)の子どもだったけどな」