小山若犬丸の乱、祇園城奪還(五)
群れなす白旗が、一斉にうねった。
手を拱く彼らのもとへ、上杉の先鋭部隊が投入されたのだ。
一揆の外縁の動揺が、全体へと次々に波及する。
若犬丸のまわりで張りつめていたものが解かれた、途端、周辺の白幡が一斉に彼へ襲いかかった。しかし、彼らも若犬丸の敵ではなかった。次々に返り討ちにされ、すぐに「戦っても無駄」と、こぞって逃げを打った。巻き込まれることを怖れ、あるいは面倒を放擲し、一揆の部将である高麗さえ置き去りにした。
今度は白幡の中心から混乱が派生する。
若犬丸の周囲は一瞬の真空地帯となった。
彼は迫りくる脅威を肌で察知した。人質が人質の価値を失ったことに、
「高麗殿を解放してやれ」
もはや足手まとい。一揆内にあって無兵の高麗は、戒めから放たれると一目散に逃げ出した。
全体を統率する者のない白幡一揆は、右へ左への大混乱に陥る。
「城へ戻るぞ!」
若犬丸は喧噪を利に反転し、祇園城への退却を命じた。
小山隊の先頭を率いていた彼は、殿となって郎等たちを追い立てる。
四散する白幡連は、若犬丸たちと上杉勢を妨げる緩衝となったが、それも束の間であった。
驀進する馬の蹄が蹴立てる武者埃。
背後を敵の槍が脅かす。
目前にも敵が列を成して逃走を阻む。
若犬丸は軽量を生かし、一隊の外側を巡り、先頭へと躍り出た。
――敵陣を切り開かねば。
鎌倉勢の前に、鬼神のように現れ出た若犬丸の姿。
風に流れる若きぶ黒髪に、赤い花びらを散らした水干。
清澄と血腥さが同居した威容――
彼の異形は鎌倉勢の目に焼き付き、小山若犬丸の名と顔を知らしめる。
突然、目の前の敵軍の壁が揺らぎ、悲鳴が上がった。彼らの後方でばたばたと人が倒れた。
鎌倉勢は一行の逃走を阻むために城側に回り込んだ。だが、それはあまりにも城本に近付き過ぎた。知らず、矢の射程内に入っていたのだ。
前哨戦での矢戦で、矢種が尽きたと思わせながら、小山勢は鷲城から大量に運んだ矢を温存していたのである。
一瞬にして乱れた敵の壁へ、若犬丸たちは突入した。
祇園城では、彼の帰参を見計らって城戸が開かれ、一隊は城門をくぐる。
若犬丸は後ろを振り返った。
郎等たちは全て帰還したはずだった。
だが一人だけ見慣れた顔がない。
「兵次! 兵次はどこだ!」
返事はない。
「替え馬を寄越せ!」
若犬丸は叫んだが、里田は主の腕を掴んで押しとどめた。
「あきらめてください」
たかが郎等一人。しかも兵次は武士としては無能の男である。すでに討たれた可能性もあった。
けれど、若犬丸はそう思わなかった。
兵次の父親を祖母の救出のために死なせているのだ。
若犬丸は無言で科戸の脇腹を蹴った。
閉じられようとする城戸をすり抜ける。
「お待ち下さいっ」
里田の声に振り向きもせず。
――あのじゃじゃ馬がっ。
主といえど再三の向こう見ずに生腹を立てながら、
「若犬さまをお守りしろっ」
里田が叫ぶ。
櫓から城塀から、援護の矢が若犬丸の周囲に降り注ぐ。
地面の石にあたった矢が足元に跳ね返っても、科戸は主の命じるまま戦場を駆けた。
敵兵は若犬丸に近寄ることもできなかった。
「兵次っ、兵次っ、どこだ!」
若犬丸の鋭い目が一点を捕らえた。
敵の人集りの中央に、二つ巴の旗印。
それにぶるぶる震えながら縋りつく男が、敵の軽卒に小突き廻されていた。
乗馬を失った兵次である。
「その者を離せ!」
彼らの輪の中へ若犬丸は矢の雨を引き連れて現れる。
徒歩らは逃げ出したが、騎馬武者の一人が若犬丸の姿を見とめた。馬上から片手で兵次の首根を掴むと、引き摺るようにして走り去る。
先とは逆に若犬丸が人質を奪われたのだ。
「待て!」
科戸は主に答えて疾駆する。
騎馬武者に若犬丸は追いすがり、夢中で飛びかかった。
鞍上で揉み合って落ちる。
若犬丸は巧みに均衡をとり、相手の体を下にして衝撃を緩和させた。
「・・・・・・」
きしむ鎧の下から呻き声。
若犬丸は素早く男に跨る。押し除けようとする武者の身じろぎを許さない。
体の位置が逆転し、組み伏せられたら負ける。
相手の右手を左膝で押さえ込み、急ぎ、腰刀を抜いて、左脇から心の臓を貫こうと武者の腕をとった。
体の重心が移動し、若犬丸の腰が相手の体から離れた。
左膝が浮いた。
瞬間、武者は片腕だけで若犬丸の首を掴むと、勢いをつけて横へ転がった。
武装といい、成長途中の体といい、さぞ若犬丸は操るに易かったろう。
今度は若犬丸の方が見下ろされる番だった。
先ほどの彼とは違い、鎧の脇を、という労は取らない。このまま首を掻けば良いのだから。
掴まれた両腕が膝の下に敷かれる。
腰刀が抜かれ、光刃が燦めいた。
若犬丸は覚悟を決め、睨みつけるようにして相手を見上げた。
その顔に、赤が散った。
武者の兜の内側を矢が貫いていた。
ぼたぼたと若犬丸の顔に血が降りかかる。
崩れ落ちる敵将の体。それをはね除ける彼へ、
「少しは身に染みましたか。あなたは不死身でも無敵でもないのですよ」
そこには矢をつがえた里田の姿があった。
若犬丸は、直ぐさま起き上がり、
「説教は後だ! すぐに帰還するぞ!」
科戸に跳び乗ると、呆然と突っ立っている兵次を励まし、馬の尻に乗せて駆け出した。
味方の矢の射程内に入るまで息は付けない。
二度目となる帰還。城門をくぐり抜けた途端。
若犬丸と兵次は科戸の体から投げ出された。
横倒しになった科戸は起き上がることもできず、口から泡を吹いた。
若犬丸は愛馬にかけ寄った。
この科戸は父親の科戸とは違って人をたばかる性質ではない。
「科戸、科戸!」
しかし、科戸は足掻くように二度三度脚を動かしただけで、息絶えた。
――もっとも、忠実だった家来が・・・・・・
「名馬と引き替えに、ですか。・・・・・・高くつきましたね」
里田が主を責めるような口調で言った。
睨みつけようとして、顔を上げかけた若犬丸は思い直した。
里田の言い分は正しい。彼に当たるのは間違いだった。
――けれど。
「高くなどつかない。兵次を救えたのだから、それでいい」
誰の顔も見られずに、うつむいたまま頭を上げることはできなかった。