小山若犬丸の乱、祇園城奪還(二)
四年前、自ら囮となった小山義政は糟尾城の大手の城戸を開かせ、敵陣を突破した。
それは初夏の風が生暖かい晩だった。
梅雨を前に水量を減らした糟尾川は、河床を広々とさらし、満月にほど近い月の光が細やかに流れる川面を照らしていた。
糟尾山中に整った道などない。櫃沢城を目指すに、この河床を路として奥へ奥へと分け入るのだ。
背後には鎌倉勢が迫っていた。
危うく追い着かれるところを、櫃沢城からの援軍が義政や里田たちを救い出した。
だが、城の周辺はたった一日で、鎌倉勢によって埋め尽くされた。
山々を揺るがす鬨の声。
義政は一睡もしなかった。ただ、戦況の切迫を肌で受け取ろうとでも云うように瞼を閉ざしていた。
四月の太陽は明け急ぐかのように東の空を染めた。
「今日は何日だ?」
義政は独り言のように呟いたが、
「四月十三日にございます」
かたわらにいた里田は答えた。聞かでもわかることをあえて口にした主の心中を伺いながら。
昨年、若犬丸が投降してより、ちょうど四月。
また、
「奇しも伯父上の命日であるな」
先代氏政と、その兄朝氏の因縁を思い浮かべる。
皇室と幕府が身内同士で真っ二つに分かれた南北朝の動乱期、下野小山もその波に呑み込まれた。朝氏と氏政の兄弟は、南北それぞれに分かれ、戦い合い、小山の土地を疲弊させた。最後は南朝についた朝氏の自害により決着をみ、小山は平和を取り戻した。四十年ほど前のことである。
何の皮肉か、父の代より北朝方にあった義政は今、南朝方の救援を待つ身である。
その彼が決然と言葉を継いだ。
「今日が、相応しかろう」
その意味を解した里田たちは、主の間近へ詰め寄った。
「殿、我ら一同お供仕ります」
我も我もと申し出る郎等たち。
だが、義政はそれをさえぎった。
「早まることはない。私の首を鎌倉殿に差し出し、許しを請え。追い腹など不要だ。一兵でも多く生き残り、時を待つのだ。そして我が子息、若犬丸が起つときに馳せ参じよ」
それが最後の言葉だった。
割腹して果てる主君に、遅れてはならじと後を追う者もいた。
だが、主人の真意を汲み取る者たちは、敢えて死に損ないの汚名を被った。鎌倉方へ投降するなり、他所へ逃亡するなりして、
――子息、若犬丸の起つときに・・・・・・
人々は義政の遺したものに、故郷の未来を託した。
あれから、四年――
里田は戦場に臨む若犬丸の横顔を見た。
先代義政によく似た整った顔貌、滲みだす若い精気は、小山氏家督に相応しく。
――我らが託した相手は間違ってなかった。
旧主の遺児へ、不滅の忠誠を誓うのだった。
木戸勢が陣立てを完了し、小山勢の進軍に鬨の声を挙げて威圧する。
その声が谷間に谺となって響いた。
――しめた。
これで木戸勢は伏兵の接近に気付くまい。
若犬丸は昂ぶった気持ちを必死で押し殺しながら、距離を詰める。
木立と下草は矢戦を捨てさせたが、その分、自分たちの姿を隠してくれた。
気配を消して勾配をゆっくりと降りる。
馬は傾斜に強いものに限り、騎馬武者は二十騎ほど。残りは徒歩である。
若犬丸はもちろん騎馬。馬は科戸の二世だが、親に似ず主の命令をよく聞く。
木戸勢の後背――
もうこれ以上は気付かれずにいられない、と云うところまで寄せて、合図の法螺貝の音を響かせた。
「皆の者、かかれ!――」
若犬丸は勾配を一気に駆け下った。
彼の左右を郎等たちが守る。
帷幕を巡らした本陣へ。
木立を抜け、真昼の光の中へ飛び出す。
弓箭は捨てたが、己れ自身が矢となって敵将に襲いかかる。
突然の襲撃に驚き、主の背後を守るはずの敵兵の壁が崩れた。
若犬丸は木戸の本陣を目指した。
白の帷幕を叩き切り、幕中へと躍り入る。
床几に座った鎧武者たちが大げさな動作で振り向いた。
その中央の人物を木戸修理亮と見定め、
「小山野州義政が嫡男、若犬丸見参!」
大声で呼ばわり、兜の内側を狙い、太刀を突きつける。
だが、その刃は木戸の顔をかすめただけだった。
木戸が地面に転がる。
偶然か、とっさの判断か、九死に一生を得る。
若犬丸は馬ごと行きすぎ、急ぎ手綱を引いた。科戸の体が均衡を崩す。若犬丸は太刀を握り締めたまま鞍上から跳躍した。
小山の奇襲部隊が続々と乱入する。主将の危機に木戸勢が駆け付ける。帷幕はなぎ倒され、本陣は内と外の区別もなく乱戦となった。
小山本隊も、敵軍の異変にかねての打合せ通り攻撃をしかけた。
数に勝るはずの木戸勢は前後に敵を抱え、左右に拡がる鶴翼の陣はその取り柄を失った。
急ぎ、右翼左翼の兵を中央に投入しようとしたが、それがいっそうの混乱を招く。
小山勢は陣形を三叉に変形し、敵勢の合流を阻んだ。
敵本陣。
若犬丸は人の波に阻まれ大将元連から引き離されていた。
障壁たる敵の郎等を片っ端から、斬る。
馬廻りだけあって鈍重な鎧武者ばかりだ。
防備の隙を狙って斬りつけるが、すぐに軽武装の徒歩武者たちが現れる。
水干の袖を翻し、次々と仲間を打ち倒す異形の若者へ、敵兵が殺到した。
彼らは一斉に飛びかかったつもりだったが、兜をつけぬ若犬丸の視界は広い。身は軽い。
大きく後方へ跳躍すると、間合いを狂わせた敵兵を手近な者から順に斬りつける。軽卒の体は武具から露出する部分が多く、鎧武者よりよほど狙いを付けやすい。
若犬丸の周辺には手傷を負い、倒れ込む兵卒の輪ができる。
顔にかかった血飛沫を拭いながら、声を張り上げた。
「修理亮殿っ、どこにおわす! 若犬丸と勝負せよ!」
だが、木戸はすでに戦線を離脱していた。
――討ち漏らした!
若犬丸は口惜しがったが、それで十分だった。
味方の大将が逃亡するさまを見て、木戸勢は一気に崩れた。
我先にと落ち延びようとする敵兵へ追撃しかける自軍の兵を、押しとどめるよう進言したのは里田だった。敵将の首を欲っするのはわかる。だが、木戸の大軍にあって、どこで巻き返されるともしれない。深追いは禁物だと。
若犬丸はどうにか納得した。
そこへ旗差しの兵次が駆け寄ってきた。
「殿! 木戸を追い払いましたね」
泥と血にまみれた里田らに比べ、合戦前と変わらぬ鎧の清しさで、どこぞに隠れていたかと皆いぶかる。
兵次の筆を持つ手は太刀を持つにあらず。田村での隠棲中に、若犬丸たちが苦心して武芸を物させようとしたが全く身につかなかった。
この合戦で、敢えて旗竿を持たせたというのに、本人はそれを恥じるふうでもなく、
「殿、勝ちましたよ。勝ち鬨を上げましょうよ」
調子の良いことを言う。
すっかり毒気を抜かれ、若犬丸の胸にも、しだいに勝利の高揚感が湧き上がってきた。
「勝ち鬨か。それはいいな」
五千騎の相手を敗走せしめたのである。
若犬丸の顔は輝く。それは周囲の郎等とて同じである。
「さぁ、いいですか。えいえいって言ってください。おーって我々が言いますから」
「わかっているさ」
郎等の一人が科戸を引いて来る。
若犬丸は科戸に跨ると馬上から自軍の兵たちを見渡した。彼らの顔は泥と汗で汚れていたが、瞳は若犬丸への敬服の念に満ちていた。
「さぁ。どうぞ」
若犬丸は胸いっぱいに息を吸い込むと、拳を天に突き上げて叫んだ。
二千の兵たちも主君に応え、その声は地鳴りとなって山々を揺るがした。
勝利の雄叫びは、主従の結束を高めていく。
かたわらでは兵次が新参者には負けませんよとばかり旗印を振り上げ、小山氏の家紋、左二つ巴が勝ち鬨に合わせて上下する。
若犬丸は戦士の凱歌を体中で感じた。
当時、ただ一兵として夢中で戦っていた彼に、戦場の全体を見回し、兵を動かすといった余裕は持ち合わせていなかった。武将としての未熟さをこの戦いで露呈しながら、それは勝利の興奮に霞んだ。いずれ彼が経験を積んでいく上で解消されていくものだと、里田のような物慣れた家臣でも指摘するまでには至らず。
武将としての成長を―――
しかし、それを鎌倉府は待ってはくれなかった。
守護代木戸元連の敗北に、氏満自ら兵を率いると。
鎌倉殿の御発向。
臣下の武将らは次々と馳せ参じ、その数は二万騎を超えた。
圧倒的な兵力の差に、若犬丸は父義政と同じ難境に立たされるのである。