高貴なる落人(四)
使者の訪れは真夜中だった。
若犬丸たちが田村荘へ到着してすぐ、野崎は郎等一人を連れ小山へと発った。それはある意味、主君の最期を確認するためのものであった。しかし、今宵帰投したのは彼の郎従ただ一人である。しかも体のあちこちを泥と血で汚して。
嫌な予感がした。
父の死のことではない。父のことはすでに自分自身受け容れる覚悟があった。
だから、郎等の口からそれ(・・)を告げられたとて耐えることができた。
「御首級は鎌倉殿に拝謁後、京に送られたとのことです」
――あの氏満に。
父の屈辱を思っても、まだ涙をこらえることができた。
しかし、郎等の報告はなおも続いた。
大尼君、御遭難。
尼として隠居していた若犬丸の祖母は、混乱する小山から野崎の手引きで田村荘に向かおうとした。その途中、里人の落人狩りにあったのだ。一夜の宿を貸した里人は小山の縁者だと安心させ、仲間を呼んで一行を襲わせたのである。金品目当てに、祖母や侍女、彼女を守ろうとした野崎まで殺したのだ。
母を早くに亡くした彼にとって、祖母は母親代わりで、野崎は最も信頼の置ける家臣だった。
父、祖母、野崎。彼らをわずかのうちに一度に亡くしたのである。
胸が締め付けられる痛みに顔を伏せかけた。だが、それをぐっと堪え、上げた顔を兵次に向けた。
「兵次、そなたの父は我が一族のためによく働いてくれた。最後は、私の祖母を守ろうと命まで捨ててくれたのだ。本当にありがたく思っている。それなのに、私は十分な弔いもしてやることもできない。どうか不甲斐ない主を許してほしい。そなたの父の働き、いつか必ずそなたへ報いるから」
と言って、いたわった。
主の言葉に、兵次の瞳からぽろりと涙がこぼれた。
それが限界だった。
若犬丸は部屋を飛び出した。
――ばか兵次っ、なんで涙なんか流すんだ。
若犬丸は厩から馬を引くと、家来たちの制止を振り切って、科戸を走らせた。
月明かりが照らす夜道。
父や祖母の亡骸を求めて、故郷に戻ろうというのではない。
その身を覆い尽そうとする悲しみを振り払うように、がむしゃらに馬に鞭を当てた。
科戸はふだんと違う主のようすに、戸惑ったように見上げたが、かまわず走り続ける。
人も馬も十分に疲れ切ったころ、ようやく若犬丸は科戸の脚を止めた。
荒野の直中、込み上げてくるものを抑えきれずに、涙をこぼして嗚咽した。
己れの痛みを人前で見せることはできなかった。
何よりも自分自身が許さなかった。
それが、家臣への主としての態度だと思ったから。
真夏の夜風が、濡れた頬を過ぎった。
若犬丸はふと、月を見上げた。
あの晩と同じ満月。
あの夜に出会った狐女の美しい顔が思い出される。
若犬丸は憑かれたように満月を見続ける。
そのとき、月がけたりと笑った。
月は女の顔になり、髪を伸ばした。袿の裾をなびかせながら手足を生やすと、驚く若犬丸の前に狐女の姿となって漂った。
興奮した科戸は竿立ちになり、慌てて手綱を引き締めるが、おさまらない。
若犬丸が、飛び鞍から降りると同時に、馬は恐怖の対象から逃げだした。
狐女はゆっくりと地上へ舞い降りる。
「かわいそうにねぇ、独りぼっち、取り残されちゃって」
生憎と太刀は屋敷に置いてきた。若犬丸は守り刀を抜くと、狐女へ突きつけるように向かい合った。
「そんな無粋なもの、お仕舞いなさい。子どもにはまだ早いわ。誤って怪我するのが落ちよ」
侮るように笑う。
かまわず、若犬丸は刀を突き出す。
それを狐女はひらりとかわす。
また突き出す。
かわされる。
若犬丸は突いて突いて突きまくるが、その度にいとも容易くあしらわれる。
彼の動きに合わせて、女の身体が揺れ、衣が舞い上がる。
――人間の相手ではない。からかわれているんだ。
そう思うころには、はぁはぁと肩で息をするほど呼吸が乱れていた。
「もう、お終い?」
狐女の動きが止まり、面を傾けるようにして、若犬丸の顔を覗き込んだ。
――今だ!
渾身の力を込めて突きつけた刀も、あっさりかわされ、狐女の脇をかすめる。
勢い余った体は、
「隙ありっ」
扇でぴしゃりと打つ真似をされ、こてんと地面に転がった。
――あのときは狐女に散々やられてな・・・・・・
父の言葉がよみがえる。
おおかた父もこのようなあしらわれ方をしたのだろう。
悔しくて涙がにじむ。
若犬丸は身体を起こすと、きっと狐女を睨みつけた。
「このようになぶらずともようではないか。さぁ、秀郷の子孫が憎ければ一思いに殺せ」
地べたに座りこんで大声で叫んだ。
その若犬丸へ、
「だぁかぁらぁ、それが誤解だって言っているのよ」
狐女は、もどかしげに溜め息をつく。
「はっきり言ってね、あんたたちの一族には何の興味もないの。それに秀郷の末裔なんて云ったら日本中にうじゃうじゃいるじゃないの。それをいちいち相手にしていたら切りがないわよ。――嫡流の小山宗家? そんなもの義政が亡くなって、家督は絶えたことになっているのよ。いい? あんたが今生きているのが、どれほど運のいいことかわかってる? 間違っても親の敵を討つだとか、領地を取り戻そうとか考えないこと。それを教えに来たのよ」
狐女は言いたいことを一気に言い尽くし、ふうと息を整える。
「・・・・・・おせっかい」
「えぇ?」
「お前は、わざわざ、そんなことを言いにきたのか」
若犬丸は恨みがましい目つきで見上げた。
「そうよ。そんなことをわざわざ言いに来て上げたのよ。何? もっと優しい言葉をかけてほしかったの?」
若犬丸は顔を背けた。
「おあいにく様っ、私はたかが親に先立たれたくらいで優しくなんかしないわよ。いい? この世にはね、孤児になった上にねぐらを追われ、食べ物を横取りされる子が五万といるのよ。それがわからないなんて、ほんと、あんたってお幸せよねぇ」
狐女が視線の先に回り込み、若犬丸は仕方なく目を合わせた。
「ふん。わかった? だったら、とっととおやさしい田村の殿様のところに帰りなさいよ。人間の子どもがこんなところでぐずぐずしていたら、妖しに食べられちゃうわよ」
狐女は赤い口を耳まで割いて凄んだ。
だが、その程度で怯むわけにいかない。言われっぱなしでは若犬丸の気が治まらなかった。
「子ども子どもって言うな。私は小山一門の家督だ!」
父義政が出家してより、小山宗家の当主としての気負いが彼を立たせていた。
「その小山一門が取り上げられちゃったんだから仕方ないでしょ。ろくに家来もいない、力もない、領地もない、ないない尽くしのあんた、いい加減自分の現実自覚しなさいよ!」
二人は互いに睨み合った。
長い沈黙が流れたが、ふいに狐女が目の力を抜いた。
「やぁめた。子ども相手の睨めっこなんて馬鹿らしったらありゃしない」
そう言って虚空に消えた。
若犬丸は一人取り残される。
――ろくに家来もいない、力もない、領地もない。
狐女の放った言葉が耳の中で響いて、打ちのめされる。
もう一度涙があふれそうになったが、顎に力を入れて堪えた。
――泣いてはならない。泣いていいのは子どもだけだ。
若犬丸はきっと顔を上げると、狐女の消えた虚空に向かって叫んだ。
「お前の言うことなど聞かぬ。いつの日にか故郷の城を、家臣を、領地を取り戻す。そして必ず鎌倉殿へ、目に物見せてやる!」
狐の祟りなどに負けるものか―――
それは彼の生涯の誓いとなった。