高貴なる落人(三)
若犬丸は、少女が自分を見とめ、それから、ゆっくりと歩み出す姿に安堵した。
昨日は何か傷付けるようなことをしてしまったのか心配でならなかった。
「水汲みがあるから」
少女の言葉から、同じ時刻に井戸の近くにいれば、また会えると思った。
すでに、井戸の水を釣瓶で汲み上げていた。
「手伝うよ」
少女の持っていた手桶にその水を注いだ。
「昨日は名前を聞きそびれてしまった。何て言うんだ?」
「まゆる」
と答えたものの、当のまゆるは、
――大名の子が端女の仕事を手伝っている。
あまりのことに呆然としながら、若犬丸の動きを目で追って、それから、はっとした。
「あの、困るよ、こんなところ、誰かに見られたら」
叱られるのはまゆるの方だ。
「うん。だから、さっさと済ませてしまおう」
一杯になった手桶をまゆるに持たせると、厨に運ばせ、その間、若犬丸は釣瓶を使って水を汲み上げる。
「よいしょっ、よいしょっ」
まゆるの小さな身体が重たげに水桶を運ぶ。本当は厨との往復も手伝いたいくらいだったが、そうなれば家の者に見つかる可能性が高くなる。まゆるの立場を思って遠慮したのだ。
いつも一人でこなしていた仕事を二人で分担すれば、はかがゆく。
何度か井戸とを往復し、厨の水瓶がいっぱいになっても家人の起き出す気配はない。まゆるは、ようすをみて、井戸の方へ戻った。
若犬丸は井戸縁に腰をかけて待っていた。
水干に手伝った証しの飛沫がかかっていたから、それを伝えると、
「こんなもの、すぐに乾くよ」
と、意に介さない。まゆるは、
「あんたって、変わっているわね。普通、えらい人は端女の仕事なんか、手伝わないわよ」
「そう? 私は自分で自分のことを偉い人間だなんて、一度も思ったことはないよ」
若犬丸は少女の口の訊き方を気にも留めなかったが、
「昨日だって、馬糞くさい厩に平気で入っていたし。あんたって、きっと『なんでも自分でやりたがり』なんだね」
「えっ……」
まゆるの言葉に絶句したあと、若犬丸は声を立てて笑った。
女の子が馬糞だとか、『なんでも自分でやりたがり』も言いえて妙だったから。
「私、そんなにおかしなこと、言った?」
まゆるは井戸に近づいた。けれど、彼から少し離れて井戸縁に寄りかかったのは、少年の真っ新な水干の浅葱色に臆したからだ。
「お前の父母は何をしてるんだ」
彼から聞かれるであろうことは予測していた。
まゆるは手短に自分の生い立ちを語った。
「――お前は偉いな。一人でもちゃんと生きている」
そう言って若犬丸はまゆるの頭を撫でようと手を差し延べかけたが、昨日の失敗を思い出して、すぐに引っ込めた。
彼の目からは、年下というだけで子どもの範疇に入るまゆるだが、厩での一件で子ども扱いしてはいけないということを学んでいた。
若犬丸の心遣いはまゆるにも伝わる。
今まで掛けられたことのなかった思いやりというものに胸が暖まった。
――やさしいね。若犬丸。女心には鈍いけど。
まゆるは眩しそうに少年を見上げた。
若犬丸からすれば、自分はこの家の食客である。何もしなくとも生活は保証されているが、一方で、まゆるのように小さいころから働いて生計の道を得ようする者もいる。この子の方がよほど尊いと素直に感心を覚えるのだった。
厨の方からざわめきが聞こえ出した。
人々が起き出し、庄司家の一日が始まる。
「私、もう行かなくちゃ」
まゆるはするりと若犬丸から離れたが、昨日のように逃げ出すふうではない。
後ろ髪を引かれるように振り返り、振り返りして、厨に向かう。
名残惜しさは若犬丸とて同じだった。
――また会えるよね。
――また明日、ここで。
そう瞳と瞳で約束し合った。
黙契通り、若犬丸は次の朝も、また次の朝も井戸端に通った。
まゆるの水汲みを手伝い、束の間言葉を交わす。
それだけであっても、次第に二人の距離は縮まっていく。
「私のおじいちゃんもね。正犬丸っていったのよ」
最初に会った日のように、勇気を奮い立たせるようにしてまゆるが言った。
下方の者には、生涯幼名で通す人間が少なくない。また犬の一字を名に入れるのも魔除けの意味合いがある。
だが、
「犬がついていたのは、代々の習わしなんだって。若犬丸の家も同じだって聞いて、何か関係があるんじゃないかって思ったけれど。迷惑だよね。こんな私と親戚筋だとしたら」
まゆるが憶するように言う。若犬丸は、
「そんなことはないよ。我が家は藤原秀郷公の流れとして栄え、方々に親戚が散らばった。まゆるの血と我らの血に繋がりがあったとしても、不思議はないと思う」
「無理だって。私を見ればわかるでしょう」
波打つ髪の束を若犬丸に見せた。
「若犬丸に最初会ったとき、あんたがあんまりきれい過ぎて、がっかりしちゃったよ。私と全然似たところがないんだもの」
ようやく本音を言えた。
そんなまゆるの表情を見て、若犬丸は笑った。
「すまないな。お前を失望させてしまって」
「本当だよ、もぅ」
まゆるも笑った。
彼女は孤児で、血縁を希求する気持ちは人一倍強いはずだった。だが、その笑顔は何の屈託もなく、若犬丸の心を和ませた。
――なぜ、自分はまゆると会うのか。
ときに自問するが、若犬丸には、よくわからない。
ただ、まゆるといると気持ちがほぐれるのだ。
己れの立場や行く末の不安などで張りつめた心が。
若犬丸もまた子どもだった。
周囲の大人たちの前で期待通りの振る舞いを続けるには、つかのまでも休息の時間が必要だった。
それが、まゆるとの一時だったのだ。
気を張らぬ相手から与えられる安らぎ。
それは若犬丸本人より、まゆるの方が気付いていた。
――この人は今、本当に大変なんだ。
抱え切れないほどの重荷を持たされて。
伝え聞く噂から、故郷を失い、父親の生存も絶望的だという。
居場所を失った孤児。
自分と同じだ、とまゆるは思いかけて、慌てて打ち消す。
――身分が違い過ぎるよ。
初めて会った厩でのことを思い出す。
優しげに馬の背を撫でていた若犬丸。
――きっと、あの馬と同じくらいに思っているんだよ。私のことを。
そう考えた方がむしろ気が楽だった。
母親のことが頭に浮かんだ。
――私は母さんとは違うから。
自分を抑制できる。
こうやって朝の他愛ないおしゃべりで一時を楽しむ。それだけでいい。
芽生え始めた思いを抑えて、若犬丸との幼い逢瀬を続けた。
けれど、少年と少女のささやかな時間はある日をもって絶たれた。
若犬丸の父の死の報せとともに。