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夢幻犬鏡 ※整備中  作者: 奥瀬
第二章 小山若犬丸の乱① 祇園城奪還のこと
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高貴なる落人(二)

 少女の名はまゆる。

 まゆるは代々の使用人たちの中にあって、新参者の扱いを受けていた。


 彼女の祖父母が相次ぐ戦乱のため故郷を追われ、この地に流れ着いたのは四十年ほど前であったという。

 先代の田村荘司のもと、耕作人として働き始めた祖父母には、一人娘がいた。美しくよく気のつく娘だったので、周囲の薦めで庄司の邸で働くようになった。だが、数年後、娘は子を腹に宿して実家に帰された。娘は子を産んで間もなく死んだ。これが、まゆるだ。


 まゆるは祖父母のもとで育てられたが、彼女が家の手伝いができるようになったころ、彼らも相次いで亡くなった。残されたまゆるは庄司家で引き取られた。母親と同じ、自家の端女として。


 彼女の毎日は、水汲みや庭掃除などの下働きで忙しく過ぎた。

 祖父母が生きていたころ、

「お前の母さんはとても美人で働き者で、わしらの自慢じゃった」

 と、よく言っていたが、まゆるの記憶に母の面影はない。そして、父の面影も。

 母は正式な婚姻によらず、野合(やごう)によってまゆるを産んだ。

 おそらく、身分違いの恋。

 自分に似ない、まっすぐな美しい髪を持った母は、庄司の身内に見初められたのだ。

 そして、身の程知らずに貴人の愛を受け容れた母は、父の名前さえ伝えずに逝った。


 自分は母と同じ間違いはすまいと思う。

 ――けど、私はお母さんと違って、そんなに美人じゃないから。

 まゆるの渦巻く髪、皆と異なる容貌を、端女仲間は不思議がった。

「あんたも残念だね。母親に似れば良かったのに」

「でも、いくら美人に生まれても、慰み者で終わっちゃあね」

 くすくすと意地悪く笑う。

 こんなとき、まゆるは居たたまれなさに、身を縮める他なかった。


 年老いた端女が言った。

「そういえば、あんたのじいさんも、私らと違う風貌をしていたね。やっぱり髪は渦を巻いてたし、眉の庇はぐっと前にせり出してた。きっと蝦夷(えぞ)の血が混ざっていたのだろうよ」

 蝦夷。毛人。えみし。

 それは中央政府に臣従しない異民族への蔑称だ。


 古代、中央の為政者たちはこの蝦夷に手を焼かされていた。それを、六百年前の昔、彼らを平定したのが、征夷大将軍坂上田村麻呂だった。この田村荘に住む人々は、名前が共通するというだけで自分たちを田村麻呂の子孫だと称する。


 征服者の末裔と被征服者の末裔。

 どれほどの根拠があるとも知れず。だが、その意識は同じ端女の中でも分け隔てを生んだ。

 孤児の上に、人とは違うこと。

 まゆるはいつも、『ここはお前の住むべき場所ではない』と、突き付けられているような思いでいた。


 朝、誰よりも早く起きて(くりや)の水瓶をいっぱいにすることがまゆるの仕事だった。

 下野からの賓客が訪れた翌日、饗応疲れで眠りこける仲間たちの体を跨ぎながら下人小屋を()、水汲みに立った。


「ねぇ、見た? 大名の子っていうけれど、この辺にはいないわよねぇ」

「品があって、きれいな顔立ちしててさ」

 昨夜の女たちは、かしましかった。

 権力へ叛逆した武将の子息を匿う主の危惧など、彼らには理解できない。

 それよりも、高貴な客人がもたらした華やぎに、邸の者たちはどこか浮かれていた。

「若犬丸って言うんだって。名前もかわいいもんだね」

 端女など口もきけぬはずが、どこで聞きつけたのか名前まで知っている。

 しかし、それをまゆるは醒めた目で見ていた。

 ――私には関係のないことだ。

 同じ邸に住んでも、きっと会うこともない。

 世界の違う人。

 そう思っていた。

 ただ一つ、若犬丸、という名にまゆるはひっかかるものを覚えた。

 小山一門の子どもは幼名に犬の一字を付けるという話に。

 ――まさか偶然だよね。

 頭に浮かんだものを打ち消した。

 それでも邸のざわめきは、まゆるに影響を及ぼす。


 翌朝、井戸へと向かう途中、何とはなく足を厩に向けた。

 ――下野の馬って、どんなものだろう。

 まゆるは好奇心に駆られた。

 馬はもとより好きだった。時々厩を訪れては体をさすり、話しかけた。同じ人間より余程心安いから。

 だから、まさかそこで、みんなの言っていた『若犬丸』に出会うなんて。


 まゆるは息を呑んだ。

 ――品があって、きれいな顔立ちで。

 昨夜の女たちの言ったとおりだった。

 邸の無骨な男たちにはいない。目も鼻も整って、柔和な顔立ちが優しげに見えた。背は高くないけれど、それはまだ大人になりきる年ごろでないせいだ。

 けれど、あまりに美しすぎる彼の容姿はまゆるを失望させた。


 それでも、勇気を振り絞って声をかけた。

「若犬丸、あんた、若犬丸っていうんでしょう?」

 言葉遣いの悪さに、自分でも恥ずかしくなった。礼儀知らずと怒られるかと思ったが、少年は機嫌を損ねることもなかった。

 最初の印象通り、

 ――やさしい人なのかもしれない。


 実際、若犬丸は優しかった。

 馬を触らせるために抱き上げもしてくれた。

 けれど、それは、

 ――そんな、私、小さな子じゃないのに。

 不満と、同時に異性に触れられたという羞恥を覚えさせた。

 顔に血が昇る。

 なのに、少年は理由も思い付かぬげに、戸惑っているばかりだ。

 まゆるは腹が立った。

 身分違いの少年に、

「私、水汲みの仕事があるから」

 言い捨てるようにして、逃げ出した。

 思えば、これは八つ当たりだ。

 若犬丸はさぞ驚いたことだろう。

 それより怒って、庄司に言い付けたかもしれない。いつ叱られるかと、その日は一日中びくびくして過ごしたが、咎めを受けることはなかった。

 逆に言えば、

 ――若犬丸は、私のこと、これっぽっちも関心がないんだね。

 そう思えて、がっかりした。


 だから翌日の早朝、井戸のそばで若犬丸の姿を見つけたとき、まゆるは思わず立ちつくした。


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