ラブコメ文学
堀辰雄の「風立ちぬ」に部分的に多大な影響を受けています
その日は今冬一番の寒さで、俺とお前の住む町にも雪が降るやも知れなかったそうだ。
刺すような寒さに凍える池の淵の道を、俺とお前はいつものように制服姿で歩いていたが、お前は普段より二尺ばかり俺と離れていた。
俺は普段あまり見ない、お前の後姿に嫌な気配をひしひしと感じながら、時折足裏が霜柱を踏むしゃきっとした感覚をせめてもの心の拠り所にしていた。車の走る音を、人の話す声を、日常的な音を全て消し去ったかのように二人きりのこの空間は、そのまま二人が日常から剥離してどこかへ行ってしまいそうで、俺はそれも悪くないなと一人思っては、お前の後姿から目を逸らしていたのだった。
しかしそんな時は長く続かなかった。お前は振り返らず、立ち止まりもせずに俺に言った。
「ねえアンタ、サチと今日なに話してたのよ」
サチとは俺と彼女に共通する友人であったが、俺はこの質問の意味がよく理解できなかった。お前の言い方に棘があったことも、その裏にあった可愛らしい感情も、この時俺はよく理解せずに返事をした。
「何って、お前にそんなのカンケ―ないじゃん」
お前はくるりと振り返って、その少し吊り上った目で俺を睨んだ。頬と鼻に紅が差して見えたのは、寒さのせいだと勝手に納得することにした。
「そ、そりゃそうだけど……! なによ、気になっただけだっつーの! それよりあれよ、やっぱ私には言えないよーなことなの!?」
そう言ってお前は、平手で俺の肩をばしばしと叩いた。寒さで敏感になった俺の肌にはいくら細腕のお前とは言え、それなりの痛みがやってくる。
「いてえな! 叩くんじゃねーって! 別にそんなんじゃなくてだな、あー、何と言うべきか……」
俺がどう切り出したものかと勘考していると、お前は強気な目を伏せって、今にも泣き出しそうな顔で俺の靴に向けて言った。
「何よ……やっぱ言えないんじゃない……」
お前にそんな顔をさせてしまったことに後悔して、慌てて俺はツギハギのままの言葉を表に出してしまった。
「だああ、そうじゃなくって! えーと、ほらお前のその……な?」
言いたいことも碌すっぽ言えないくせに、察してほしいなどと甘えきった俺の言外の愚考は、果たしてお前に伝わるはずも無かった。
「もういい! 私先帰るから! サキと楽しくニャンニャンしてればいいじゃないこの優柔不断童貞ヤロー!」
「童貞は関係ねえだろ童貞はぁ! そうじゃなくて……待て!」
古めかしい隠語まで用いて俺を罵倒したお前は、その綺麗な黒髪をふうっと翻して、俺から逃げるように早い歩調で去ろうとした。しかし俺はどうしてもお前を引き留めようと、その細腕をがっしと掴んだのだ。
「離しなさいよ童貞がうつるでしょ!」
「童貞を感染症みたいに言うんじゃねー! あのな、その……」
失礼なことを言われた怒りもすぐに緊張に呑まれ、俺はいよいよ覚悟を決めるべき時が来たのだと、ごくりと喉を鳴らした。
気付けば辺りはしんと、まるで俺の二の句を聞き漏らさんとばかりに静けさを増していた。野次馬の様な静寂にも挫けず、俺は半分勢いに任せたまま、ポケットの中から可愛らしく包装された包を取り出して、お前に突き付けた。
「これ!」
お前は突き付けられたそれに一瞬びくりと肩を震わせたが、それをまじまじと見つめて、はてと首をかしげたのだ。
「なに、これ……あ」
ようやく気付いて、恐る恐るといった手つきでその包を受け取ってくれたお前に、ばくばくと血流が俺の全身を駆け回る。まるでそれに促されたように、俺は昨晩散々練習した台詞を思い出した。
「た、誕生日、おめでと」
幼子の様に拙い言葉を口にして、俺はようやく全てをやり切ったと息を吐いた。
しばし、二人の間には心地良い沈黙が居座った。その無音は先程の静寂とは違い、俺を祝福しているように感じたものだ。
ぽちゃん、と池から飛び出した大きな魚が、重力に打ち勝てずに水面下へ沈んだ。今にも雪が降り出しそうな赤みがかった曇天を映したその池に、静かに波紋が広がった。それが俺にもぶつかって、この身の内に広がっていた熱っぽい波紋を打ち消してくれるように、俺は感じていた。
やがてお前は顔を真っ赤にして俺の手をぎゅっと握ってきた。その顔の血色は、もはや寒さで誤魔化すこともできないなと、内心で微笑ましく思った。
「あ、ありがとう……なによ、そういう事なら早く言いなさいよね。それだから」
お前が失礼なこと言う前に、俺は先制して自虐的に笑って言った。
「童貞は関係ねえっつってんだろ」
寒さが教えてくれていた通り、俺とお前は雪に降られてしまった。しんしんと二人の世界が白く、静かに染まっていくのも悪くないなと一人思っては、俺はお前の柔らかい手の感触から目を逸らしていのだった。そんな俺の顔を見て、お前は勝気なその目を細めてふっと笑った。
「あんたの手、やたらあったかいわね」
「お前はすげー冷たいな。だとしたら心があったかいはずなんだけど、おかしいな……」
幼子の様な恥ずかしさを紛らわすための態度も、今のお前にとっては愛しいものだったのだろうか。それとも俺の頬に差した紅に、寒さ以外の理由があることに気付いたからか。
「言ってなさい、ばーか」
普段よりも穏やかな声でお前はそう言った。この道を抜ければもうすぐ、お前の手を離さなければならないのだから、俺は一層お前の手をぎゅっと握り、少しでも俺の体温をお前に伝えようとしたのだった。