黄金
古びたアパートの一番右上のドアを開け、中に入る。
自宅に戻った俺は既に奥の部屋の電気が付いていたことに警戒を抱いた。
職業柄、命を狙われることは少なくない。
ほぼ無名な俺は無いに等しいが睡蓮さんが現役の時は散々あったらしい。
音が出ないようドアを閉め、息を殺す。短い廊下を抜けた先に俺を待つ人がいるだろう。
上着のポケットに入れたナイフを取り出し、カバーを外す。
銃を使ってもいいのだが、部屋に穴を開けるのは大屋さんに申し訳ない。
あと一歩で部屋に入る距離だ。
下半身に力を入れ、勢いをつけて部屋に突入した俺は全身の力が抜けた。
「あっ、お帰り」
「雫……睡蓮さんか」
黒のテーブルの脇で行儀よく座っていたのは雫だった。
身一つで俺に着いてきたのだから生活する場所が無いのは当たり前か。
だが、どうしてだ? 買った覚えのない水玉らしい水色と白のマグカップがテーブルの上に置かれているのは。
「これ? 睡蓮が買ってくれた」
「そっか。で、睡蓮さんは何て言ってた?」
「責任持って養って貰えって」
一々誤解を招くような言い回しをするなと睡蓮さんに言ってやりたいが、言ったところで睡蓮さんは変わらないだろう。
しかしまぁ、ご近所さんの評判は下がるだろうな。
表向きは品行方正なサラリーマン、東山咲が少女を家に連れ込んだとか噂が流れれば住み難くなる。
原因は俺にあるのだから誰にも文句は言えないが。
「ね、咲ちゃん。仕事っていつ行くの?」
透き通るような高い声と茶色の瞳には心配など微塵もない。ただ、興味一色だ。
「明日か明後日か……一週間以内には済ませるよ」
「サボり?」
「間違ってないな。準備という名のサボりだよ」
「なら、明日遊びに行こう」
明日は平日。平日に少女に連れ回される大人の絵を想像して卒倒しそうになったが、雫の生活用品を揃えなければならないのも確かだ。
荷物を部屋の隅に置き、部屋の奥に立つ冷蔵庫を開ける。
「いいぞ。明日な」
「やった!」
嬉しそうにはしゃぐ雫を横目に俺は冷やしておいた缶ビールを取り出し、プルトップを弾いた。
仕事終わりのビールは最高だと初めて言った人間には最大の賛辞を送りたい。
俺のような汚れ仕事を糧としているのは尚更だ。
「ね、咲ちゃん。それ、何?」
「ビールだ。大人の飲み物だから雫にはまだ早いな」
「……飲んでみたい」
未成年の飲酒は法律で禁じられていると諭したところで、法律の外で生きている俺みたいな外道が言っても説得力が皆無だ。
「一口な」
最初の一口を譲ることは絶対にあってはならないことなのだが、相手は子供だ。言ったところで分かってくれないだろう。
俺から缶ビールを受け取った心配などは両手で缶を持ち、口元へと運んだ。
「……苦いし不味い」
「ほら、言っただろ? 大人の飲み物だ」
「これ飲まないといけないなら大人なんてならなくていい……」
雫から缶ビールを受け取った俺は同じく冷蔵庫に冷やしておいたコップを取り出し、注ぐ。
俺にとっては黄金以上の価値がある黄金色の液体を注ぎきったところで、俺はビールを喉に、胃に流し込む。
「そうそう、睡蓮がご奉仕? しろって」
黄金の以上の価値があるものを吹き出してしまった。