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集合写真

作者: 舛田 久

 ロボットアームの操作で肩が凝ったが、狭い操縦席の中では伸びをすることもできず、首を傾けて筋を伸ばすくらいで我慢するしかない。深海潜水艇の操縦士である僕は、同僚の欠勤で、二日連続になった潜行を終えようとしていた。

 まだ珍しい、民間の深海作業専門の会社は、近年、それなりに仕事に恵まれていた。最近では、深海にある養分の多い沈殿物を海底農場がある浅い海までくみ上げる、実験設備の設置が主な仕事だ。しかし、例えば、深海魚のシーラカンスを捕獲して、かごの中で飼育しながら毎日少しずつ浅い海まで運んで行って、生きたまま水族館の水槽に移す、というような夢のあるプロジェクト案は、予算の面から検討すらされずにボツになった。

 僕は、毎日の体調管理と深海での作業という、単調な生活に興味を感じなくなった。

 今日のノルマを終え、浮上を始めた。この一人乗りの潜水艇は、浮上のコントロールの一切を母船に任せている。万が一、深海で操縦士の身に何かあっても、秒速七十センチのペースで安全に浮上させる為だ。水深二百メートル以下の深海は、それより上の水中との間に水の循環がない。横方向の水流も少ないので海底にも変化が少ない。光はまだ十分に届くが、全ての色は青く見えて、色彩的にも変化がない。音もしない世界なので、容易に感覚遮断性幻覚が起きてしまう。幻覚にはいくつかの原因があるが、実験室でも比較的簡単に再現される現象だ。別に不思議な事ではない。幻覚は、操縦席の壁が生き物のように波打って見えたり、海底で焚き火をしている人影を見たり、人魚や恐竜時代の怪物が泳ぎ去る姿を見たり、あるいは、聞こえる筈の無い、母船の乗組員が話している声が、はっきり聞こえたりすることもあった。

僕たち操縦士は、幻覚に対する十分な教育を受けているので、決してパニックを起こすことはない。船外ライトを点けたり、ロボットアームで簡単な作業を行ったりして自分に刺激を与えることで、一瞬で幻覚から逃れる方法を知っている。むしろ、退屈な時は、その幻覚を観察して暇をつぶす事さえある。

でも、この時の幻覚は、僕がライトを点けて自分の視覚に刺激を与えても、消えることが無かった。こんな事は初めてだ。海底での作業に対するストレス、無意識に蓄積した恐怖心が思いのほか強かったのかもしれない。操縦席の内壁がきしみながら迫ってくる。狭い操縦席はさらに収縮し、僕の体を上下左右から押しつぶそうとする。心拍数が跳ね上がっていることは、体に装着した装置からの信号で、海上の母船にも知られているはずだ。

 僕は顔をアクリル製の小さな窓に押し付けられ、なおも狭くなり続ける艇内で、外の水圧に押しつぶされそうになった。視野の全てが暗い海中になった。下向きの船外灯に照らされて、海底へ吸い込まれる無数のマリンスノーが見えた。

 まっすぐ舞い降りる粉雪を、上から見下ろす不安。

 この不安にはおぼえがある。

 僕は昔、雪の降る中庭を、学校の屋上から見下ろした時に感じた、不思議な感覚を不意に思い出した。


 高校時代の僕は、部活もやらず、勉強に打ち込むでもなく、漫然と過ごしていた。唯一の特徴と言えば、入学以来、欠席なしの皆勤を続けていた事だった。それに何か意味があると思っていたわけでもなかったが、いつのまにか、休まないことだけが自慢のように感じてもいた。

中学から一緒の有里も皆勤のライバルだったが、僕は高校三年の春、ついに欠席した。それまでも時々、腹痛があったが、放っておいても治ったので、そのときも薬を飲んでやり過ごそうと思っていたのだ。しかし、朝、吐き気と腹部の激痛で目が醒めた。嫌な汗が出て、立ち上がることもままならず、父親の運転する車で病院に運ばれると、そのまま入院した。虫垂炎だった。

ことさら意識して皆勤賞を目指していたわけではないのに、急に気が抜けた。そのせいだろうか、手術の後、風邪もひいた。

 有里が見舞いに来たのは日曜の夕方だった。前日は男の悪友たちが、見舞いに来たのか遊びに来たのか分からない調子で騒いで帰ったが、有里は一人で来た。

「やっぱりお見舞いはリンゴでしょ」

 有里はリンゴを一つだけ持ってきて無造作に棚に置いた。ナイフがすぐ横に出ていたが、切ってくれる様子はなかったので、教室にいる時のように取りとめのない話をして過ごした。

「なんか、欲しいものある?」

 有里が聞いた。退屈しのぎは前日に持ち込まれたマンガや雑誌が大量にある。少し熱っぽかった僕は、アイスが食べたい、と言った。有里はすぐに病院の中の売店で、小さなカップに入ったアイスクリームを二つ買ってきて、一つを僕に渡すと、もう一つをさっさと開けて食べ始めた。メロン味のアイスを飲み込むと、体が冷えて心地よかった。

「メロンも一口ちょうだい」

 有里が言った。僕は冗談のつもりで自分の木のスプーンで一口すくい、有里の顔の前に出した。

「ばか」

 有里は少し怒ったような顔をして、自分でアイスをすくいとってなめた。

「やっぱり、イチゴが正解ね。ねえ、いずみ牧場のイチゴアイス、あれ、食べたことある?朝、牧場で取れたての牛乳で作るの。一日に少ししか作らないから、いつも午後には売り切れてるんだけど」

「そんなにうまいなら、買ってきてくれりゃいいのに」

 僕が言うと、驚いたことに、翌日の月曜、有里が私服姿で昼ごろにその牧場のアイスを持ってやってきた。

「お前、学校はどうしたんだよ」

「シー!声が大きい。高校生がさぼってんのばれたら、なんか言われちゃうでしょ」

 有里は学校にいる時とは違って、うっすらと化粧をしているようだった。良く知っているはずの顔が、別人のように見えてちょっと嬉しかった。そんな僕の思いを感じたのか、有里が照れ隠しのように、わざと乱暴な手付きで袋を開けた。

「ドライアイスが全部消えちゃった。早くたべないと」

「当然、自分の分もあるんだな」

 僕たちは、少し溶けかかっている牧場特製のアイスを黙々と食べた。

「うまいアイスは溶けてもうまいわね」

 そっちのイチゴ味のも一口くれ、と言うと、食べさせてあげよっか、と有里がいたずらっぽく言った。


 卒業式の日は変な天気だった。風も無く陽が出ているのに、時折、細かい雪が降った。雪が陽の光を浴びた様子は、まるで光の粒が降っているようだった。

 式典が終わり、教室で解散になったあと、僕は一人で屋上へ出た。屋上から見下ろすと、粉雪がゆっくりと地面に吸い込まれていた。雪が降っているのではなくて、自分が空に吊り上げられているように見えた。この場所から飛び立ちたくなど無い。まだ、この場所に留まっていたいのに。

 僕の不安をよそに、雪は容赦なく僕を高いところに突き放した。

 僕は毎朝、ここから前の通りを眺めるのが好きだった。僕が眺めていると、いつも有里が坂を上ってきた記憶がある。有里が歩いてくるのを見るために、ここに来ていたのかもしれない。有里も僕がいつも眺めていたのを知っていたはずだ。大抵、一度だけ目を合わせて、しかめっ面で舌を出して見せた。

 僕たちは、教室では冗談を言い合ったりして仲よくしていたが、外で会ったのは有里が病院に見舞いに来たあの時だけだった。あいつは一体、僕のことをどう思っていたのだろうか?

 そう言えば、有里と並んだ写真が一つだけあった。卒業アルバムのクラス写真だ。僕が入院して、有里が学校をサボったあの日が、たまたまクラス写真の撮影日だったのだ。皆勤賞のライバルだった二人の顔だけが、クラスの集合写真の右上に、枠で囲まれて、並んで入っていた。なんともドジな話だ。

 いや。

 潜水艇の外に降る雪を眺めながら、僕は、今頃になって気付いた。

 有里はそういう風に写りたくて、わざとクラス写真を撮る当日に、学校を休んで見舞いに来たのではないか。

 僕は二十年も前の、存在すら忘れていたタイムカプセルを開けた気分だった。


 いつの間にか、息苦しい幻覚からは完全に解放され、狭いながらもいつもどおりの操縦席で穏やかな精神状態になっていた。周囲一帯に降り続くマリンスノーは、着実に僕が現実世界へと浮上している事の証明だ。

 陸に上がったら、知り合いの水族館職員に連絡しよう。僕のシーラカンスプロジェクトについて相談してみよう、そう思った。

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