なんでもない積み重ね
教室に前まで戻ると、戸が開けっ放しになっていた。
いつも不思議に思うんだけど、教室に戸って必要なんだろうか。失くしてしまった方が非常時にも助かると思う。
荷物を盗まれないように鍵をかけるためにある、と言う考え方も出来るか?
でも、貴重品なんてものは盗まれないように持ち歩くものだ。いや、持ち歩こうと思う程の物だから貴重品なんだろう。
と言うか、貴重品を持ち歩かない人間はなにを考えているんだろう。
そこまで他人を信用しているのか、それとも何も考えていないのか。
どちらにしたって、それなら盗まれたって文句は言えまい。自業自得だ。
きっと、そういう奴はろくに何も考えないで生きてるんだろう。
「なに、教室の前でぬぼーっとしてんだよ。寝てんのか?」
そう、教室の前でぬぼーっと寝ているような奴に違いない。
……ぬぼー?
俺は声のした方向へと顔を向ける。
「あれ、登じゃん。どうしたの?」
「そう言うお前こそ、どうしたんだ」
俺がどうしたって?
そんなの決まっているだろう。
「教室の戸の存在意義について考えていたんだけど」
「そんなことはいいからさっさと教室に入ってくれよ」
ため息混じりの登の言葉にとりあえず俺は従った。って言うか、その馬鹿を見るような目をやめろ、この馬鹿。
教室に入るといつものようにあちこちから生徒の話し声が聞こえてくる。
芸能人やバイト先、気に入らない教師の言動、流行っているゲームソフト、そして最近話題の連続猟奇殺人。そんなくだらない話ばかりが重なり合って、クラスメート達の話し声という一つのBGMとなっているようだった。
あまり聴いていたくないBGMだ。
全ての綺麗な色を混ぜると汚い茶色ようなものになるが、なぜ全ての汚い色を混ぜても同じ色になるんだろうか?
そんなくだらない思考をしつつも、俺は無意識のうちに自分の席に向かっていく。
俺を追うかのように教室に入った登は、今では俺に視線を向けることもなく自分の席に座って他の男子生徒と談笑している。。
さっき俺に声をかけてきたのが、まるで嘘のようだ。
俺はその光景に無関心に自分の席に向かう。
実は俺達は、人目の付く所では他の生徒に余計なことを言われないように、また特別仲が良いと思われないように、わざわざ教室で呼び止めて話すことはしないようにしている。
今みたいに時々登はルールを平然と破るが、登はクラスメイトほぼ全員と積極的に話すような人間なので基本的にはあえて放っておいてやっている。
それでも、気をつけなければならない。他の一般生徒や教師に俺達をグループとして数えられるのは、あまり都合が良いことではない。
俺達の数多くのアリバイ工作は、真面目を装っているからだけが理由ではなく(装っている部分を差し引いても、他の生徒よりは真面目な部類だろうけど)、たいして仲の良くない人間がつるむはずはない、という思い込みがあるから成功するのだ。
日頃からそういったことに気をつけているからこそ、今のところ何かが起きても、彼らではなく、あの真面目な彼と彼と彼がやるとは思えない。と言った認識が第三者からなされるのである。
その事実を知っているのは、俺達に敵対した事件の当事者達だけだ。
『日々の積み重ねが人生をつくる』と言う言葉もある。『ローマは一日にして成らず』でもいい。世の中の連中は大体そう思ってるんだろうし、その考え方の正しさ、有効性は疑うまでもない。
だが、ま、自分で言っておいてなんだけど、この格言に関して言えば、あえて登の言葉を借りて「そんな言葉はクソ食らえ」と言っておこう。
努力と研鑽を積み重ねたからって、悪事が出来る人生なんてやだ。
……ならすんなよ、俺。
「おはよー、スバル」
隣の席の佐々木が妙なイントネーションのある声で挨拶をしてきた。
顔を見るといつもより若干、化粧が濃い目かもしれない。
「おはよう、佐々木さん」
俺は挨拶を返して席に座る。
「ねぇ、怪我はもう大丈夫なの?」
佐々木は俺に話を続ける。
底抜けに明るい声だな。
いつもならそれが癇に障るところなんだろうけど、なぜか今の俺は全く気にもならない。
「うん、全然大丈夫。早めに保健室で手当てできたから腫れも少ないし。佐々木さんがかばってくれたお陰だよ」
全然大丈夫、というのは日本語としては間違っているらしいが、生徒と同士での日常会話では使った方が会話が弾みやすい。だから、会話で使っても全然大丈夫。
「そっかぁ……なんか、スバルさ。今日、機嫌むちゃくちゃ良くない?」
佐々木が語尾上がりの発音で俺に尋ねる。
機嫌よくない、それは「機嫌がいいよね」ときいているのか。それとも、「機嫌がよくないね」と聞いているのか。イントネーションだけで左右されるので曖昧だ。なんとなく、発音的に前者のような気がするが決め付けはよくない。
「自分じゃよくわからないな」
俺は曖昧な返事で言葉を濁すことにした。
その俺の言葉に「そうなんだぁ、まぁそういうものかもね」と佐々木も適当に返事を返して、おしゃべりを続ける。
「前から思ってたんだけどさぁ、佐々木さんじゃなくてカナエって呼び捨てで良いよ。みんなそう呼んでるし」
カナエ?
ああ、そういえば佐々木の名前はカナエだったか。どうも人の名前は憶えづらい、特にどうでもいい人間に関しては。
と言うか、みんなそう呼んでるってどこのみんなだよ。お前の友達、特に女子はカナちゃんと呼んでいた気がするぞ。
とにかく俺は相手に話を合わせる。
「女の子に呼び捨てはしづらいな。カナエさん、じゃだめかな」
「えー、よりにもよってカナエさん?」
わざとらしく佐々木が声を上げる。
俺は意図的に困ったような顔をした。本当はこのまま冗談みたいに持っていくのがベストだが、その方向性は俺のクラスでのイメージとはほんの少しずれている。
「いやかな」
「いやじゃないけどさぁ。なんて言うか、違和感あるよ」
そりゃそうだ、後輩とかならまだしも同級生にさん付けされるなんてぞっとする。正直な話、する方もごめんだ。
「でも、呼び捨ては照れくさいし」
いや、全く思ってもないけどな。そんなことは。
それを聞いて佐々木は「うーん」とわざとらしく腕を組んで考え込む。そんなにこの話題は重要なことだろうか。
俺は表面上は笑って話を続ける。
「じゃあ、カナエちゃん」
「カナエちゃんかあ、それもありか」
なにが、どうあるんだ。
「そういえば、これ聞いてみてよ」
そう言って突然、佐々木が携帯電話を取り出す。全体的にピンク色に染まっていて、可愛いのかなんなのかわからないストラップが大量についていた。
……使いにくくないか?
「ほら、早く」
佐々木が携帯電話のボタンを押してから差し出した。
とりあえず俺は頷いて、携帯電話を受け取り耳に当てる。
それを聞いた俺は首を傾げた。
なんだ、これ。
見ると、佐々木が楽しそうに目を細めて俺を見ている。
「どう、ちゃんと聞こえた?」
「そりゃね。ねえ、これはなんなの」
俺が尋ねると、佐々木は声を弾ませて説明する。
と、そのまま無駄話を続けていると、担任が教室に入ってきた。いつものように眠そうな顔。
これで無駄話は中断だ。
佐々木はあからさまに不満そうな顔をして、席にきちんと座りなおす。
ここでは佐々木みたいな女子でもそれなりの態度は取る。これでも一応、進学校だ。とらないのは馬鹿を通り越して真性の愚者だけだろう、あのライオンヘアですらそうするんだからな。
俺はふと気付いて、周囲を見回す。
教室にライオンヘアがいない。
*
「気付くの遅っ!」
登はメロンパンをかじりながらそう言った。
ここは学校の屋上、そこでまた俺達は昼食を食べている。
「そうかな、俺アイツのことそんなに気にしてないし」
他人が一人いないぐらい気付かなくても不思議ではない。
「昨日、喧嘩した相手ぐらいチェックしようよ」
今度は篤史が呆れたように口を開く。
俺はため息をつく。
「そんなのもう終った話だろ」
と思っても俺は彼らに言う気はなかった。どうせ2対1の口げんかには勝てないんだから、何も言わないのが得策だ。
そうしたら、今度は逆に俺がなにか諦めが入った表情でため息をつかれた。それも二人分。
「ま、コウだからな」
「そうだね、コウだからね」
二人は互いに顔を見合って頷いた。
なにも余計なことを言われたくないのが俺の望みだった。だから彼らが非難してこなくなったのは、むしろ俺にとって希望通りのはずだ。
だが、逆に一番余計な一言を言われた気がして腹が立つ。
「どういう意味だよ、それは」
俺は彼らを睨みつけながら聞く。実は、その言葉に返ってくる反応は大体予想できるので、わざわざ聞くこともないのだが俺はなぜか聞いてしまった。無駄に。
登は牛乳パックに差し込んだストローを口に含む、そしてそのままろくに口も開けずに器用に返事をした。
「どういう意味もなにも、そのままの意味」
篤史は新しいパンの袋、『産地直送どんぐりパン』と書かれた袋を開ける。
「世の中にはどうしようもないことがある、ってことだよね」
そのまま二人は食事を続ける。
俺は大してお腹が空いていないので、購買のパンに手をつけることはない。
「なんだかお前らの言葉を聞いてると、まるで俺がどうしようもない人間と言っているように聞こえるんだが」
その言葉を聞いて彼らは二人揃って肩をすくめた。この肩をすくめるのは俺の真似であって、要するに俺に対するあてつけだ。
本気で俺に喧嘩売ってるのか、こいつら。
冷静に考えろ、これ以上話しても時間と思考の無駄だ。
今、俺に必要なのは事実確認だ。そう頭の中で唱えて思考を整理する。
「……それで、なんでライオンヘアが休みなんだい?」
そう、最初から元はといえばこの話題だ。
二人は食事を一時的に止めた。そして、ほぼ同時に笑みを浮かべる。
「さあ、事故ってヤツじゃない?」
「ちなみに休みなのは古田だけじゃない、西川もだ」
俺は彼らの言葉を聞いて、ようやく悟った。なんだ、こいつらそれを聞いて欲しかったのか。素直にそういえばいいのに。
俺はわざとらしく驚いたフリをする。
「へえ、事故ね。どんな事故だったんだろうな、想像も付かないけど」
二人は愉快そうに語り始めた。
「そうだね、あてずっぽうだけどさあ。トイレの個室とかで起きた気がするな」
「俺も適当に思いついただけなんだけどな。あいつら昨日の放課後、もしかしたらどこか公園のトイレに入ったきり出てこなかったかもな」
「それが万一本当だとしたら、かなり不幸な事故だね」
「そうだな、かなり不幸な事故だな。みんな同情してくれるさ、発覚すればな」
俺は頭の中で、それは一般に事故ではなく事件と言うな、と彼らにそう言った。
彼らの語る様子を俺は他人事のように見る。一見、俺が話に興味がないか退屈しているかのように見えるだろうが、内心驚きっぱなしだ。
いや、それどころかある意味で恐怖すら感じている。
昨日の昼に何気なく言ったことをその日のうちに実行して、今では何事もなかったかのように笑っている。これは、イカレてるとしか言いようがない。
だけど、同時にそれを面白いとも思ってしまう自分がいた。
トイレから出さないようにしたのか、それとも出れないようにしたのか。どっちなんだろうな。この両者の違いは案外大きい。
俺はトイレに閉じ込められた奴らの様子を想像して、彼らと一緒に大口を開けて笑い声を上げそうになる。が、それは我慢する。
それは少々悔しい。今、笑うと負けな気がする。
もう少し突っ込んで、なにをしたのか具体的に聞きたいところだ。が、俺はあえて聞かない。それは彼らの思う壺だし、案外聞かないほうが楽しいことに気付いたからだ。
次に会う時、奴らはどんな顔をしていることやら。