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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第八十二話 灰白の歌、火床に眠る古地 ―Lichtenhainer―

 秋の入り口に立つころ、山の村の空気は二つの顔を持つようになる。


 朝はまだ冷たい。水に手を浸せば骨の芯まで澄むような冷たさがある。だが昼になれば陽は確かに強くなり、畑の土は乾き、道の白い砂利は熱を帯びる。夜と昼、湿りと乾き、冷えと熱。ひとつの季節の中に複数の顔が同居し、どちらにも完全には寄らない。


 Gose は、そんな季節の入口にふさわしい酒だった。


 塩と酸、小麦の白さ、コリアンダーの風。


 人をこの土地へ馴染ませる酒。


 外から来た者にも、村に根づいてきた者にも、まず身体を“ここ”へ戻させる酒。


 その効能は村に新しい静けさをもたらした。王都商会の者たちでさえ、山の空気に余計な敵意を募らせず、まず深呼吸をしてから言葉を選ぶようになった。村人たちも、外の者を“よそ者”として構える前に、同じ水を飲み、同じ風の中で汗をかいている存在として見る瞬間が増えた。


 けれど、醸はその変化の中で、また次の不足を感じていた。


 土地に馴染むことと、土地の厳しさを知ることは違う。


 水と風に身体を合わせることはできても、


 火と煙の記憶まではまだ飲んでいない。


 この山は、清らかでやさしいだけの土地ではなかった。冬には凍え、春には土が緩み、夏には乾き、秋には枯れ草が火を呼ぶ。山肌には昔の焼畑の跡があり、炭焼き窯の黒い痕も残っている。火は脅威であると同時に、暮らしの道具でもある。煮炊きの火、鍛冶の炉、麦を焙る火、樽の内側に命を刻む火。


 土地は、水だけでできているわけではない。


 風だけでもない。


 そこには必ず、灰と煙の記憶がある。


 そのことを強く思い知らされたのは、ある夕暮れのことだった。


 村外れの古い炭焼き小屋が、半ば崩れたまま放置されているのを、醸はレティシアの巡回に付き合う形で見に行った。屋根の一部は落ち、石組みの窯には苔が生え、周囲には黒ずんだ木片がいくつも埋もれていた。だが、雨を吸った地面の下には、なお乾いた炭の名残があり、踏めばかすかに焦げた匂いが立つ。


「ここ、昔は使ってたのか」


 醸がしゃがみ込みながら尋ねる。


「ああ」


 レティシアが答える。


「今の若い者はあまり来ないが、古参の何人かはここで冬越し用の炭を焼いたことがあるらしい」


「火事は?」


「あった。小さなものも、大きなものも」


「やっぱりな」


 焦げた石を指でなぞると、ざらりとした感触が残った。


 その時、醸の脳裏に、白い酸味と、焚き火の上を流れる煙の記憶が重なった。


 Gose の白い土地感の、そのさらに奥。


 まだ整えられる前の、火に炙られた風土の声。


「……次はこれだな」


「何がだ」


「煙だ」


 レティシアが少しだけ眉を上げた。


「今度は塩の次に煙か」


「順当だろ」


「お前の順当は信用ならん」


 翌朝、蔵へ戻った醸は、炭焼き小屋から持ち帰った黒ずんだ木片を卓に置いた。もちろんそのまま使うわけではない。ただ、焦げた木と湿った灰の匂いを忘れないための“見本”だった。


 ミーナがそれを見るなり顔をしかめる。


「先生、ついに炭まで持ち込んできたんですか」


「資料だ」


「資料が煤けすぎてます」


「大事なのは匂いだ」


「最近、匂いの資料が増えすぎでは」


「酒は匂いで半分決まる」


「その理屈で何でも通そうとしないでください」


 セリナも遅れてやってきて、木片を見て開口一番こう言った。


「今度は何を燃やす気?」


「燃やしはしない」


「怪しいわね」


「燻すだけだ」


「もっと怪しいわよ」


 レティシアが腕を組む。


「名は?」


「Lichtenhainer」


 その場に沈黙が落ちた。


 ミーナが首をかしげる。


「……先生、それ、もはや呪文では?」


「スタイル名だ」


「どういう酒なんです?」


「白っぽくて、酸があって、煙い」


「情報量が喧嘩してます」


「だが全部必要だ」


 前世の記憶では、Lichtenhainer はドイツの歴史的なスタイルで、やや酸味があり、軽やかで、しかもスモーク香を持つという、現代でもかなり珍しい部類のビールだ。重厚な燻製酒とは違う。酸味と軽さの中に、焚き火の煙のような輪郭が差し込む。その奇妙な均衡こそが魅力であり、難しさでもある。


 白い酒に煙。


 風土に火床。


 土地へ馴染んだ身体に、今度は土地の“焼けた記憶”を通す。


 それは今の流れの先として、あまりにふさわしかった。


「Gose の次にこれを置く理由は?」


 セリナが珍しく先回りして聞いた。


「Gose は土地に身体を馴染ませる酒だった」


「ええ」


「でも、土地って優しいだけじゃないだろ。火もある。焦げ跡もある。人が住むってことは、そういう傷の上で暮らすってことだ」


「……なるほど」


「だから次は、野の白に灰を混ぜる」


「言い方は綺麗だけど、やっぱり変なことしてるわよ」


 仕込みは、いつも以上に慎重だった。


 神麦に小麦を重ね、色は淡く保つ。ベースは白い。ここに Gose で得た“土地へ馴染む輪郭”を残したいからだ。ホップは控えめ。主張の強い苦味は要らない。必要なのは、軽い酸味と、白い穀物感、そして――煙。


 だが問題は、どう煙を載せるかだった。


 Rauchbier のようにしっかりした燻製麦芽で押せば、煙は出る。だが今回はそれでは重すぎる。Lichtenhainer に欲しいのは、暖炉の前に座って服へ移るような煙、遠くの野焼きが風に乗って届くような煙であって、肉料理のような強烈なスモークではない。


「先生、燻し方どうします?」


 ミーナが真面目な顔で問う。


「神麦そのものを軽く燻す」


「軽くで済みます?」


「済ませる」


「最近、“軽く”“少し”“ほんのわずか”の信頼度が下がってます」


「ひどいな」


「でも事実です」


 蔵の裏庭に、即席の燻し台が作られた。


 乾燥させた神麦を浅い籠に広げ、その下で、山桜ではなく、あえて湿り気を残した白樺と野草を少しだけ燻す。狙うのは甘い木香ではなく、湿った灰白の煙。火は強くしない。炎ではなく、くすぶりで香りを移す。


 レティシアがその様子を見て、ぽつりと呟く。


「戦の後の野営地みたいだな」


「縁起でもないな」


「だが近いだろう」


「……近い」


 白い煙が、朝の空へ細く立つ。


 焦げる匂いではない。


 炙られた草、湿った薪、火の後に残る温度の記憶。


 醸はその匂いを確かめながら、何度も籠の位置を変えた。


「これ、絶対難しいやつです」


 ミーナが半泣きで言う。


「難しい」


「認めましたね」


「だが面白い」


「先生が面白いって言う時は、弟子はだいたい大変なんです」


 燻した神麦で仕込んだ麦汁は、見た目には大きく変わらなかった。だが蒸気の中に、ごく薄く煙の影が混じる。その上へ、乳酸のやわらかな下地を整える工程を重ねる。酸っぱくしすぎず、煙くしすぎず、軽さを失わず、しかし印象を薄くしない。綱渡りのような配合だった。


「先生、なんでこんな面倒な酒にするんです?」


 仕込みの最中、ミーナが不意に尋ねた。


「もっとわかりやすく、煙なら煙、酸なら酸でいいじゃないですか」


 醸は少し考えてから答えた。


「土地って、たいてい混ざってるだろ」


「混ざってる?」


「きれいな水がある場所にも、昔の火事の跡があったりする。住みやすい土地にも、冬の厳しさがある。人間も同じで、やさしさの中に怖い記憶があったり、傷の中にぬくもりが残ってたりする」


「……はい」


「だったら酒も、そういう混ざり方をしていい」


 ミーナは何も言わなかったが、杓子を握る手が少しだけ強くなった。


 数日後、最初の試飲が行われた。


 注がれた酒は、白く霞んだ淡金色だった。Gose よりわずかに深いが、それでも明るい。泡は軽く、香りは最初、小麦と酸の爽やかさを思わせる。だがその奥に、ふっと煙が通る。焚き火の真ん前ではない。少し離れた場所で、火床がまだ温かいと知るような、控えめな煙。


 ミーナがまず匂いをかいで、目を瞬いた。


「……これ、思ったより全然重くない」


「だろ」


「でも、ちゃんと煙です」


「だろうな」


「なんか悔しいです」


「何でだよ」


 セリナは慎重に一口飲み、しばらく黙り込んだ。


「これ、不思議」


「どう不思議だ」


「最初は白い酒なのに、飲み終わったあとで、遠くに火が見える感じがする」


「いい表現ね」


 セリナは自分で言ってから少し笑う。


「私まで先生みたいな言い方してる」


「蔵に染まってきたな」


 レティシアは杯をゆっくり傾け、短く評した。


「野営の酒だ」


「悪くないな」


「歩き疲れた兵が、焚き火のそばで肩の力を抜く時の味だ。ただし酔って鈍るんじゃない。周囲の冷えや暗さを知ったまま、火の位置だけは見失わない」


「まさにそれだ」


 この Lichtenhainer の効能は、じわりとしか現れなかった。飲んですぐ何かが治るわけではない。魔力が満ちるわけでもない。だがしばらくすると、飲んだ者の身体から、妙な“怯えすぎ”が抜けていくのがわかった。


 火に対する恐れ。


 暗がりへの緊張。


 土地の荒さに対する過敏さ。


 それらが消えるのではない。


 だが、“怖いから全部拒む”のではなく、怖さを含んだまま、その場にいられるようになる。


 つまりこの酒は、


 土地の厳しさと共存するための酒


 だった。


 それをはっきり示したのは、その三日後のことだった。


 村の北側の斜面で、小さな野火が起きたのだ。


 幸い大事には至らなかった。乾いた草むらに、誰かが捨てた火種が残っていたらしい。すぐに発見されたため延焼は防げたが、煙は村の上空へしばらく漂い、古参の者たちの顔色を変えた。昔、大きな山火事を経験している者には、わずかな煙でも記憶を刺すのだ。


 広場に集まった村人たちは、火が消えたあともざわめいていた。


「また燃えるんじゃないか」


「北の風に変わったら危ない」


「炭焼き小屋のあたりも見た方がいい」


「子どもを家へ戻せ!」


 理性的な判断もあれば、過去の恐れに引っ張られた声もある。正しい警戒と、過剰な怯えが入り混じっていた。


 醸は、その空気を見てすぐに Lichtenhainer を思い出した。


「ミーナ、小樽を」


「はい!」


「先生、まさかこんな時に?」


 セリナが言う。


「こんな時だからだよ」


「火のあとに煙の酒?」


「火を見た後だからこそ、煙を“怖いだけのもの”で終わらせない」


 レティシアはすでに理解していたらしく、頷いた。


「配れ。見張りにも回す」


 広場へ運ばれた酒は、最初こそ訝しがられた。だがレティシアが自ら杯を取ると、見張り衆も年寄りたちも、しぶしぶながら口をつける。


 一口。


 二口。


 白い酸味が喉を洗い、そのあとで煙が、まるで“もう消えた火の記憶”のように鼻へ抜ける。


 そこで起きた変化は、派手ではなかった。


 誰かが泣き出すでも、笑い出すでもない。


 ただ、声の調子が少し変わる。


「……まだ焦げ臭い」


「だが、もう燃えてはいないな」


「水桶はこのまま並べておくか」


「ああ。子どもたちは家で待たせておけ」


「北斜面の見張りは二交代にしよう」


 混乱していた言葉が、“今やるべきこと”の方へ戻っていく。


 過去の恐怖を否定しないまま、現在の火加減に合わせて動けるようになる。


 古参の女がぽつりと言った。


「昔の山火事の時はね、煙の匂いがしただけで足が竦んだよ。でも今は……怖いは怖いが、足は動く」


 その声に、醸は静かに頷いた。


 Lichtenhainer の力は、そこにあった。


 煙を消すのではない。


 火への記憶を忘れさせるのでもない。


 むしろ、煙を“消えたあとの火”として身体に通し、恐れと現実を同じ場所へ置き直す。


 言い換えれば、


 厳しい土地の記憶を、怯えだけで終わらせず、暮らしの判断へ変える酒


 なのだった。


 夜、蔵へ戻った一同は、疲れた身体で再び小さく試飲をした。今度は火事のあとだからこそ、味がよりはっきりする。


「先生」


 ミーナが杯を見つめながら言う。


「これ、火を消す酒じゃないんですね」


「ああ」


「でも、火を見た人が“もう何も見たくない”ってならないようにする」


「そうだな」


「……優しいんだか厳しいんだか、よくわからないです」


「土地ってたぶん、そういうもんだ」


 セリナは少し疲れた笑みを浮かべた。


「本当に、最近の酒は役所の分類を壊しに来てるわね」


「いいことだろ」


「書類に書けないのが困るのよ。“野火の後、住民の過剰な混乱を抑え、実務判断を回復させる煙酸味酒”なんてどう書けばいいの」


「そのまま書けばいい」


「嫌よ」


 レティシアは杯を干し、静かに言った。


「戦の後の兵にも要る」


「やっぱりそっちに行くか」


「当然だ。火を見た者、焦げた匂いを知った者、叫びを聞いた者は、その後ずっと“少し似たもの”に怯える」


「……そうだな」


「だが、それをなくそうとするより、抱えたまま立てた方がいい時もある。この酒はそのための火床になる」


 醸は、その言葉を胸の奥に置いた。


 火床。


 まだ熱を残す灰の下で、次の火にも、消えた火の記憶にもなりうる場所。


 Lichtenhainer は、まさにそういう酒だった。


 夜が更け、皆が寝静まったあと、醸はひとりで蔵の裏へ出た。即席の燻し台には、もう火はない。白樺の灰が薄く残り、指で触れればまだ少し湿っている。


 前世を思い出す。


 醸造の現場では、火は見えにくかった。電熱、蒸気、温度計、数値。直接の炎は遠ざけられ、管理された熱だけが工程に残る。もちろんそれは必要だった。だがこの世界では、火はもっと暮らしに近い。煮る、炙る、暖を取る、照らす、そして時に奪う。


 だからこそ、火を酒にしなければならないのだろう。


 火は、恐れるだけでは付き合えない。


 使うしかない。


 けれど使うには、火が奪った記憶を無視してはならない。


 灰の上へ座り込むようにして、醸は夜空を見上げた。


 Gose が土地へ身体を馴染ませる酒だったなら、Lichtenhainer は土地の厳しさに身体を慣らす酒だ。


 水と風の次に、火と灰。


 それでようやく、この山のひととおりの輪郭が酒になった気がする。


「先生」


 またしてもミーナの声がした。最近、彼女は本当によく気配を読む。


「やっぱりここでした」


「今日は多いな」


「先生が火の後で一人になる時は、だいたい何か考え込んでます」


「弟子の解像度が高い」


「観察してますから」


 彼女は醸の隣にしゃがみこみ、消えた燻し台を見た。


「今日、ちょっと思ったんです」


「何を?」


「煙って、嫌な記憶の匂いでもあるけど、家の匂いでもあるなって」


 醸は横目でミーナを見た。


「家?」


「はい。冬に炉を焚いた匂いとか、パンを焼いた匂いとか、薬草を炙った匂いとか。だからたぶん、火が怖いだけじゃなくて、火がないと困るんですよね」


「……その通りだ」


 ミーナは少し得意げに笑った。


「だから今日の酒、怖さをなくすんじゃなくて、“火ってそういうものだよね”って身体に思い出させる感じがしました」


「いい弟子だな」


「珍しく素直に褒めましたね」


「今日はそういう気分だ」


「火事の後だからです?」


「煙の後、かもな」


 二人でしばらく、冷え始めた灰を眺めた。


 世界はいつも、澄んだ水や甘い香りだけでできているわけではない。


 灰もある。焦げもある。


 けれど、その全部があって土地であり、暮らしであり、人の記憶になる。


 Lichtenhainer は、そういう“きれいではないが欠かせないもの”を、白い酒の中に細く通した一杯だった。


 そして醸は、すでにその先をうっすら見ていた。


 水。


 風。


 火。


 灰。


 では次は何か。


 もっと湿っていて、もっと低く、もっと土に近いものかもしれない。


 煙の軽さではなく、古い街角の褐色の息。


 あるいは、人が日々の営みの中で自然に醸してしまう、素朴で飾り気のない“生活そのものの酒”。


 名のない土地の次は、名もなく生きる人々の酒。


 洗練ではなく、雑多さに宿る豊かさ。


 灰白の歌の次には、きっとそういう色が来る。


 醸は立ち上がり、灰をそっと足でならした。


 火床は眠る。


 だが眠った火は、消えたのではない。


 次の朝、必要な熱としてまた起こされる。


 恐れとぬくもりを同時に抱えたまま。


 酒もまた同じなのだろう。


 白い酸の中に、煙の記憶を一本だけ通す。


 そうして人は、厳しい土地と喧嘩せずに生きる術を少しずつ覚える。


 灰白の歌は静かだった。


 だがその静けさの下に、火床に眠る古地の声は確かに残っている。


 それを聞き取った者だけが、この山で長く息をしていけるのかもしれなかった。


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