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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第七十一話 冷閃の麦風、沈まぬ行軍 ―Cold IPA―

街道を支える酒が生まれると、次にそれを欲しがるのは、たいてい“急ぐ者”だ。


 Session IPA が北路、王都街道、港への中継路で静かに定着し始めてから、まだ半月も経っていない頃だった。グランエッジの酒蔵には、いつもの商人や運び手に混じって、見慣れない顔の一団が現れた。


 揃いの外套。無駄のない革鎧。軍人というほど重々しくはないが、歩き方に規律がある。先頭に立つ女は、日焼けした頬と鋭い目を持ち、腰には短剣、背には巻物筒を下げていた。


「王都伝令隊、第三遊走班、班長エルザ」


 女はそう名乗り、礼をした。


「グランエッジの醸造師、大麦醸殿に依頼がある」


 醸は樽の検品を止め、まっすぐその目を見返した。


「独占供給なら断るぞ」


「話が早くて助かる」


 エルザはまったく気分を害した様子もなく言った。


「今回は違う。欲しいのは、専売じゃない。“別口の酒”だ」


 その場にいたレティシアが眉を上げた。


「別口?」


「ああ。Session IPA は素晴らしい。長く動くには理想的だ」


 エルザは迷いなく言い切った。


「だが、伝令には別の場面がある。長く歩くのではなく、短時間で駆け抜ける。疲労を均して保つより、一気に研ぎ澄まして崩さず走り切る。そういう局面だ」


 セリナが壁際から口を挟む。


「継戦向きじゃなく、機動突入向きってことね」


「その言い方でいい」


 エルザは頷いた。


 王都伝令隊。


 言葉だけ聞けば、手紙を運ぶだけの役目に思える。だが、この世界の伝令は、単なる早馬ではない。戦時には各地の砦と隊を繋ぎ、平時には辺境の異変、盗賊団の動き、魔物の移動、税と物流の変化まで抱えて駆ける。しかも街道が安全とは限らない。急ぐほど、護衛を最小限にせざるを得ず、自らの判断力と持久と冷静さが物を言う。


「欲しいのは、興奮する酒じゃない」


 エルザは続ける。


「眠気を飛ばしすぎる酒も要らない。心だけ前のめりになれば、馬も脚も潰れる。欲しいのは――冷えたまま速くなれる酒だ」


 その一言で、醸の中に輪郭が立ち上がった。


 冷えたまま速くなれる酒。


 Session IPA は歩みを乱さず整える酒だった。


 ならばその先には、同じ IPA の系譜でありながら、もっとシャープで、もっと直線的で、もっと“抜け”のいい酒が必要になる。


 香りはある。だが重くなく、果実の霧ではなく刃のように立つ。


 麦の骨格は保ちつつ、後口は乾いて速い。


 そして効能は、熱を上げるのではなく、熱を制御したまま機動力を引き出す方向へ。


「Cold IPA……」


 醸は低く呟いた。


「今度は冷たいの?」


 ミーナがすぐに反応する。


「冷やして飲む、って意味?」


「それもあるけど、もっと設計の話だな」


 醸は作業台の上の羊皮紙を引き寄せた。


「前の世界にも比較的新しい考え方としてあった。ラガーっぽいすっきりした輪郭や副原料的な軽さを活かしつつ、IPA らしいホップの個性を前に出す。重くないのに、鋭く香る」


「Session IPA とどう違うの?」


 レティシアが問う。


「Session IPA は“長く付き合える”酒だ。歩みに寄り添う」


 醸は指で二本の線を引いた。


「でも Cold IPA は、もっと一直線だ。寄り添うというより、進路を切り開く」


「なるほど」


 セリナが小さく頷く。


「街道の酒じゃなく、行軍と急使の酒になる」


 今回の試作は、久しぶりにラガー寄りの発想を取り込むことになった。


 神麦を軸にしつつ、米に近い軽やかな穀物――この世界で“白粒稲”と呼ばれる乾いた香りの穀物を少量加える。これによって胴体を少し軽くし、飲み口の抜けを早める。発酵温度の管理も、いつものエール寄り IPA よりずっと神経を使うことになる。酵母の表情を出しすぎず、麦とホップを主役にするためだ。


「難しそう」


 ミーナが帳面を抱えたまま言う。


「難しいぞ」


 醸は即答した。


「香りは立てたい。でも重さは要らない。苦味は芯として必要。でも舌に残しすぎると“速さ”が消える。すっきりさせすぎると今度は IPA じゃなくなる」


「いつも難しいって言ってる気がする」


 レティシアが笑う。


「本当に毎回難しいんだよ」


「でも顔は楽しそう」


「……否定できないな」


 最初の仕込みでは、ホップの立ち方が硬すぎた。


 二度目は逆に、抜けがよすぎてただ薄い。


 三度目では苦味の戻り方が遅く、飲んだあとに脚が止まる感じが残った。


「脚が止まる感じ、って何だよ」


 バスコが珍しく試飲に付き合いながら言う。


「飲んだあと“よし、もう一歩”じゃなく、“ふう”ってなることだ」


 醸は杯を揺らしながら答えた。


「Cold IPA はそれじゃ駄目なんだよ」


「なるほど」


 夜警頭は一口含み、無表情のまま付け加えた。


「これは止まる」


 四度目の試作で、ようやく光が見えた。


 液色は、Session IPA の淡金よりやや白っぽい輝き。


 余計な濁りはほとんどなく、光を受けると、冷えた刃の腹のように明るく返す。香りは柑橘の皮、若い草、そしてかすかな白ぶどうを思わせる清涼感。口に含むと、最初の輪郭は軽い。だがすぐにホップの鋭さが線となって現れ、最後は乾いた苦味がすっと抜ける。


「……冷たい」


 ミーナが香りを確かめてそう言った。


「冷えてはいないぞ」


 醸が笑う。


「違う。温度じゃなくて、感じが」


 彼女は自分の胸元に手を当てた。


「頭の中がしゃんとする。熱くならずに、すっと揃う」


 その感想は、狙いに近かった。


 今回の試飲役は、王都伝令隊のエルザたち、北路を走る騎馬郵便の若者、峠越えを仕事にする山岳案内人、そして夜明け前から作業を始める水車番の老人だった。


「なんで水車番?」


 ミーナが囁く。


「単調な繰り返しの中で、手元を鈍らせないか見たい」


 醸が答える。


「急使だけじゃなく、冷静さを保って長く正確に動く相手にも向くかもしれない」


 最初に反応したのは、エルザだった。


 彼女は飲んだあと、しばらく沈黙し、やがて言った。


「視界が近くならない」


「近くならない?」


 レティシアが首を傾げる。


「速く走る時、人は目の前だけを見やすくなる」


 エルザは指で前方を示した。


「だが伝令は駄目だ。枝道、影、馬の呼吸、風向き、全部見なきゃ死ぬ。これは速くなりそうなのに、視野が狭まらない」


「……いい反応だな」


 醸が小さく呟く。


 騎馬郵便の若者は、もっと率直だった。


「馬が嫌がらない感じがする」


「お前が飲んだだけだろ」


 レティシアが吹き出す。


「でも本当だって!」


 若者は必死だ。


「こういう“速くなれる”系のやつって、自分だけ前に行きたくなって、手綱が荒くなることがある。でもこれは違う。自分の呼吸が整って、馬の歩調に合わせやすい」


「自分だけが突っ走らない……」


 ミーナが書き留める。


 山岳案内人は、杯を置いてから短く言った。


「判断が乾く」


「乾く?」


 醸が聞き返す。


「濡れてる時は、迷いがまとわりつく」


 男はぶっきらぼうに言う。


「こっちか、あっちか、決める時に余計なものが絡む。でもこれは、濡れた縄が乾くみたいに、判断がすっとする」


「詩人かよ」


 レティシアが笑うと、男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 最後に水車番の老人が、ゆっくり杯を置いた。


「手元が急がぬな」


「え?」


 ミーナが首を傾げる。


「頭は冴える。だが指は焦らん」


 老人は穏やかに笑った。


「それが良い。早くなる酒は、たいてい手元まで急がせる。すると怪我をする。これは違う」


 その一言で、醸は確信した。


 Cold IPA の効能は、単なる覚醒でも、高揚でもない。


 冷静な機動性。


 熱を上げず、視野を保ち、判断を乾かし、身体と道具の動きを揃えたまま速くする。


「Session IPA が“崩れを防ぐ”なら、こっちは“詰まりを抜く”感じだな」


 醸がまとめる。


「いい言い方」


 セリナが頷く。


「流れを止めず、詰まらせず、必要なところだけ鋭くする」


 王都伝令隊は、その場で追加試験の申請を出した。だが今回は前回よりずっと慎重だった。独占は望まない。まずは各方面の急使と遊走班で少量ずつ使い、長距離と短距離、街道と山道、平時と非常時でどう違うかを確認したいという。


「学んだのね」


 セリナがぼそりと言う。


「前より礼儀がいい」


「必要な相手には、ちゃんと礼を尽くす」


 エルザはまっすぐ返した。


「それに、これは囲うべき酒じゃない。広く走る者に行き渡ってこそ価値がある」


 その返答に、醸は少しだけ肩の力を抜いた。


 試験出荷から一月、反応は明白だった。


 Cold IPA は Session IPA ほどの“誰にでもわかる実用性”ではない。だが、急使、遊撃、斥候、案内人、夜明け前の職人、そうした短い精度を何度も要求される仕事に、驚くほど深く刺さった。


「峠の切り返しで迷いが減った」


「徹夜明けの伝令でも、字を取り違えにくい」


「夜明け前の荷捌きで、手順がもつれない」


「急行のあとも、頭だけ熱くならずに次の指示が聞ける」


 そして、軍の一部からも興味が示された。行軍酒、斥候酒、先遣酒。いろいろな呼び名がついたが、醸はどれもしっくり来なかった。


「これは“戦うための酒”じゃない」


 彼はきっぱり言った。


「でも戦でも役に立つ」


 エルザが返す。


「それは否定しない」


「なら?」


「“急ぐときに壊れないための酒”だ」


 その定義に、バスコが珍しく賛同した。


「いいな。それ」


「お前に褒められると妙に重い」


「実際、重い話だ」


 問題がなかったわけではない。


 当然ながら、Cold IPA を“眠気覚ましの酒”として雑に扱う者も出た。飲めば速くなれる、頭が冴える、と聞きつけた若い騎手や見習いたちが、睡眠不足のまま連続で頼る。結果、二日目、三日目で反動が来て足元を崩す例が出た。


「やっぱりな」


 醸は報告書を見てため息をついた。


「酒は休息の代わりにならない」


「でも人は代わりにしたがる」


 セリナが淡々と言う。


「便利なものほど、そうなる」


 そこで刻印と注意文が定められた。


 白銀に近い淡金の線を三本、前へ走らせる印。


 その下に、小さく風切羽のような模様。


 意味は、冷たく切り開く進路。


 そして注意文は、醸自身が考えた。


 《冷えた刃は鈍らぬ。されど鞘なき刃は折れる》


「珍しく先生が詩的」


 ミーナが言う。


「たまにはな」


「でも分かりやすい」


 レティシアも頷く。


「休まず使い続けるな、ってことね」


「そういうことだ」


 初の正式出荷は、王都よりも北方と峠路を優先した。


 朝靄の中、樽に押された三本線の刻印がきらりと光る。Session IPA の流線が“続く歩み”なら、こちらは“切り開く線”だ。荷車ではなく、まずは軽量な小樽と瓶が多く選ばれた。急使や案内人が持ち運びやすいようにだ。


「今回、小さいの多いね」


 ミーナが瓶籠を見て言う。


「道中で分けやすいからな」


 醸が答える。


「一樽囲んで飲む酒じゃない。必要な時に、必要な分だけ、すっと使える方がいい」


 エルザは出立前、小瓶を一本手に取り、深く一礼した。


「必ず、正しく使う」


「頼む」


 醸は短く答えた。


「速さは、正しくないとすぐ死ぬ」


 彼女は一瞬だけ笑った。


「伝令隊がよく知っていることだ」


 馬の嘶き。革の軋み。朝の冷気。


 その中へ、Cold IPA の小瓶たちは旅立っていった。


 見送りながら、ミーナがぽつりと言う。


「先生、これって Session IPA の兄弟みたい」


「兄弟?」


「うん。あっちは長く歩くための風。こっちは鋭く走るための風」


「悪くないな」


 醸は目を細める。


「同じ街道でも、必要な風は違うってことか」


「そうそう」


 前世で、醸は現代のビール文化の広がりを知っていた。軽やかさ、苦味、香り、濁り、度数、それぞれに流行と意味があった。だが、異世界でこうして一つひとつの酒が、特定の生き方や仕事や道に結びついていくのを見ると、スタイルとは単なる分類ではなく、やはり“生き方の器”なのだと感じる。


 Session IPA は道そのものを支える酒だった。


 Cold IPA は、その道の上で、詰まらず、熱に飲まれず、正確に速くあるための酒。


 同じ IPA の森でも、枝はここまで違う形になる。


 酒蔵へ戻る前、醸は山の向こうに伸びる街道を見た。


 朝日を受けた道は白く光り、その上を点のように伝令隊の馬が走っていく。


 沈まぬ行軍。


 なるほど、と彼は思った。


 それは疲れないという意味ではない。


 休まなくていいという意味でもない。


 ただ、進むべき時に熱で潰れず、冷静さを失わず、歩調を壊さずに進み続けること。


 この世界では、それだけで命がいくつも救われる。


「先生」


 ミーナが帳面を抱えて隣に立った。


「次はどんな風になるのかな」


「風じゃないかもしれない」


 醸は笑う。


「Cold IPA まで来たなら、次はもっと別の方向もある。軽さの先、濃さの先、あるいはまったく違う素材の先」


「まだまだ終わらないね」


「ああ。終わらない」


 彼は作業台に戻り、新しい羊皮紙を開いた。


 ――冷えて切れる、その次。


 ――熱を抑えた先にある、別種の機動。


 筆先が止まる。


 酒蔵の奥では、神麦の香りと新しい発酵の息づかいが、静かに次の物語を待っていた。


 Cold IPA。


 それは、熱狂ではなく冷閃。


 卓を囲む酒ではなく、進路を開く酒。


 街道に生まれた風を、今度は刃のように研ぎ澄ました一杯だった。


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