表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

70/97

第六十八話 濁りの奔流、果香の深域 ―Double IPA―

Hazy IPA の出荷が始まってから、グランエッジの空気は目に見えて変わった。


 もともとこの村は、風と水と麦の匂いが支配する静かな山村だった。朝は斧の音で始まり、昼は畑と家畜の息遣いがあり、夜は火を囲んで短い話を交わして眠る。そんな、外の世界からすればいくらでもありそうな小さな村だったはずだ。


 だが今、その村には“わざわざ来る理由”ができてしまっている。


 酒だ。


 しかもただ酔うための酒ではない。傷を癒やし、魔力を満たし、気力を繋ぎ、夜目を助け、術の精度を整え、そして感覚を解き放つ酒。そんなものが山間の一村から生まれていると知れ渡れば、人も金も情報も集まるのは当然だった。


 そして人が集まれば、熱狂が生まれる。


 Hazy IPA は、まさにそうした熱狂の中心にあった。


 王都から届く報告書には、芸術街の画家たち、劇場街の演出家、術師組合の若手、仕立て屋、調香師、果ては新規商売を狙う若い商人たちにまで愛飲されていると記されていた。飲むと頭の中の固まりがほどけ、視界が広がり、物事のつながりが見えやすくなる。そういう評判が評判を呼び、“流行の酒”から“時代の酒”へと変わり始めていた。


 だが、それは醸にとって、少しばかり危うい兆しでもあった。


「……浮ついてるな」


 朝の仕込み場で、彼は届いた羊皮紙を読みながら呟いた。


「王都が?」


 ミーナが聞く。


「酒の評判が、酒そのものより先を走り始めてる」


 醸は紙束を作業台へ置いた。


「“飲めば発想が冴える”だの、“これがあれば商談に勝てる”だの……そういう言い方が増えると危ない」


「効くのは本当なんでしょう?」


 レティシアが樽の点検をしながら言う。


「本当でも、万能じゃない」


 醸は首を振る。


「Hazy IPA は感覚を開く。でも、答えを授けるわけじゃない。もともと中に何もないやつが飲んだって、急に天才になるわけじゃないし、準備不足の商談がうまくいくわけでもない」


「耳が痛い人、多そう」


 セリナが淡々と笑った。


「王都の流行って、たいていそういうものよ。“道具”を“奇跡”として欲しがる」


 醸は無言で頷いた。


 その違和感は、王都から来たひとつの依頼で、さらに輪郭を持った。


 依頼主は、王都西区の大商会連合。表向きは貿易と金融を扱う有力商人の集まりだが、実態としては王都の流行、物流、価格形成にまで影響を及ぼすほどの巨大な組織だった。その連合の若手幹部たちが、グランエッジへ使者を寄越したのだ。


 使者は礼儀正しく、金払いもよく、何より話が早かった。


「要件は?」


 醸が単刀直入に聞くと、使者は深々と頭を下げた。


「Hazy IPA を、連合の定例会議に正式採用したく存じます」


「会議に?」


「はい。新事業の立案や他商会との折衝前に、少量ずつ供することで、より柔軟で建設的な議論を……」


 そこまで聞いて、醸はため息をついた。


「断る」


「……理由を伺っても?」


「Hazy IPA は“考えるきっかけ”にはなる。でも“判断の責任”までは背負わない」


 醸ははっきり言った。


「重要な契約や利権の話に、酒を前提で組み込むのは危ない。発想が広がることと、結論が正しいことは別だ」


 使者は食い下がらなかった。だが目の奥に、納得しきれていない色が残った。


 その日の夕方、酒蔵の裏でセリナが言った。


「いい断り方だったわ」


「そうか?」


「ええ。でも、ああいう連中が一度諦めたぐらいで終わると思わない方がいい」


「だろうな」


「だから必要になる」


「何が」


「“Hazy IPA のその先”よ」


 醸はセリナの横顔を見た。


 彼女は、いつも先に現実を見る。酒そのものの出来より、それがどこでどう使われ、何を呼び込むかを考えるのが早い。


「今の Hazy IPA は人気がある。親しみやすいし、語りやすいし、絵になる。でも、だからこそ軽く扱われる」


 セリナは言った。


「なら、その先に“軽く扱えない酒”を置くべきよ」


「……強い酒、か」


「強いだけじゃ足りない。濃いの。香りも、味も、効き方も」


 その言葉を聞いた瞬間、醸の中でひとつの輪郭が立ち上がった。


 Hazy IPA の先。


 果実香をさらに押し広げ、厚みを増し、密度を上げる酒。


 だが単に度数を強くしただけでは意味がない。重く、くどく、飲み疲れるだけなら失敗だ。必要なのは、“より濃いのに、より鮮明”という矛盾を成立させること。


「Double IPA……」


 醸は低く呟いた。


「だぶる?」


 ミーナが首を傾げる。


「IPA を、もう一段階押し上げたものだ」


 醸は作業台へ向かいながら言う。


「前の世界でも、ホップも麦芽もたっぷり使って、より強く、より濃く、より派手にした IPA があった。人によっては Imperial IPA とも呼ぶ」


「じゃあ Hazy IPA の、お兄さんみたいな感じ?」


「兄というより……化け物寄りの親戚だな」


「ひどい言い方」


 レティシアが笑った。


「でも、ちょっと分かる」


 その日から、酒蔵は再び試作の渦に入った。


 今回の目標は明快で、同時に難しかった。


 果実香をもっと濃く。


 口当たりをもっと厚く。


 だが苦味は潰さず、芯として残す。


 そして効能は、Hazy IPA の“感覚の解放”を一段深くした先――ただ気分が軽くなるのではなく、集中と発想を高密度で持続させる方向へ寄せる。


「つまり、“ひらめく”だけじゃなく、“ひらめいた先を掘れる酒”ね」


 ミーナが帳面にまとめる。


「いい言い方だ」


 醸は頷いた。


「Hazy IPA が窓を開ける酒なら、Double IPA は開いた窓の向こうへ踏み出す酒だ」


 仕込みの配合は大胆に変わった。


 神麦の比率を高める。小麦麦芽と灰白穀も増やし、舌触りの厚さを作る。糖度を上げる一方で、発酵がだれると単に甘ったるくなるため、酵母の活力管理には細心の注意を払った。ホップは香りの層をいくつにも重ねる。柑橘だけでは足りない。熟した核果、南国果実、樹脂、そして奥行き。前へ飛び出す香りと、飲んだ後に残る影、その両方が必要だった。


 さらに今回は、発酵後半の投入だけでなく、熟成前にもう一度香葉を触れさせる二段階の香り付けを試すことにした。


「入れすぎると青臭くなる」


 醸が言う。


「でも怖がると、ただ強いだけの酒になる」


「綱渡りですね……」


 ミーナが神妙な顔で書き込む。


「綱渡りだから面白いんだろ」


 レティシアが樽を抱え上げた。


「成功したら、たぶんすごいわよ、これ」


 最初の試作は、失敗した。


 香りは派手だったが、舌の上で重すぎた。果実感の厚みが、かえって輪郭を鈍らせ、飲み手に“濃い”以外の印象を残せない。二回目は逆に香りが暴れ、まとまりを欠いた。三回目では発酵が強く進みすぎて、狙った柔らかさが消えた。


「うまくいかないね……」


 ミーナがしょんぼりと呟く。


「そりゃそうだ」


 醸は鍋をかき混ぜながら言う。


「濃くするってのは、単純に足し算することじゃない。何かを増やせば、別の何かが埋もれる。だから“何を主役にするか”を決め直し続けないと駄目だ」


「主役……」


「今回は果実香だ。でも、ただ甘い匂いが派手ならいいわけじゃない。濃密なのに、前へ進む力がないといけない」


 四度目の試作で、ようやく方向が見えた。


 発酵途中の液面に立つ香りは、Hazy IPA よりも明らかに深い。熟したオレンジ、黄桃、マンゴー。そこへ樹脂めいた青い芯が一本通り、全体をだらけさせない。液色は、淡い橙金より一段濃く、夕暮れの光を溶かしたような輝きを持っていた。にごりも豊かだが、重くはない。揺らすと、とろりとした厚みの奥に生きた泡が見える。


「……来たかもしれない」


 醸が小さく言った。


 試飲役には、今までとは少し違う顔ぶれを呼んだ。


 ひとりは王都の若い建築士。


 ひとりは戦術教官。


 ひとりは新しい術式の設計に行き詰まっている中堅魔術師。


 どの分野も、“ひらめき”だけでは足りず、“詰め切る力”が必要な人間たちだった。


 最初に飲んだ建築士は、三口目で机の上の木炭を掴んだ。


「紙」


「え?」


「紙を。早く」


 ミーナが慌てて羊皮紙を差し出すと、男はそこへ凄まじい勢いで線を引き始めた。


「ここを支点にすれば、梁を細くできる……いや、待て、荷重を分散すればこっちも……」


 ぶつぶつ呟きながら、男の手は止まらない。


 線は荒いのに、迷いがなかった。


「どう?」


 醸が聞く。


「頭の中の立体が、崩れない」


 男は息を吐いた。


「普段は思いついても、途中で散る。けどこれは違う。発想が出たあと、骨組みまで持っていける」


 次に戦術教官が飲んだ。


 彼は目を閉じたまま、しばらく腕を組んでいたが、やがてゆっくりと目を開いた。


「盤を使いたい」


「模擬戦の?」


「ああ」


 彼は深く頷く。


「敵の動きを読むというより、複数の可能性を同時に維持できる。ひとつ思いついて終わりじゃない。次、その次、その次まで崩れずに置いておける」


 最後に中堅魔術師が杯を置いた時には、額に薄く汗が浮いていた。


「怖いな、これは」


「悪い意味で?」


 ミーナが心配そうに訊く。


「いや、良すぎて、だ」


 魔術師は苦く笑った。


「術式を組み立てる時、集中力が一点に寄りすぎると周辺の綻びが見えなくなることがある。でもこれは逆だ。広く見ながら、深く掘れる。普通は両立しない」


「……効果は?」


 醸が静かに問う。


 魔術師は即答した。


「高密度持続。感覚と発想の深潜。たぶん、そう呼ぶのが近い」


 その言葉に、酒蔵の中が静まり返った。


 Hazy IPA が“感覚を開く”酒なら、Double IPA は“開いた感覚を密度高く維持する”酒だ。


 ただ軽やかになるのではない。


 ただ高揚するのでもない。


 頭の中に広がった果樹園のような発想を、そのまま設計図に変え、術式に変え、戦術に変えられる。ひらめきを刹那で終わらせず、深く潜らせる酒。


「これは……使いどころを選ぶわね」


 セリナが低く言った。


「だろうな」


 醸も同意した。


「Hazy IPA より明らかに強い。向く相手と、向かない相手がはっきり分かれる」


「一般向けの流行酒じゃない」


 レティシアが腕を組む。


「でも必要な人には、ものすごく刺さる」


 それはまさに、その通りだった。


 王都へ少量の試験出荷をした結果、反応は二極化した。


 若い流行追いの貴族たちは「Hazy IPA の方が飲みやすい」と言った。劇場街の役者たちも、舞台前には少し重すぎると首を傾げた。だが一方で、建築組合、設計師、上級術師、戦術研究所の一部からは、信じられないほどの勢いで追加注文が舞い込んだ。


「評判は?」


 醸が訊くと、セリナは報告書を読み上げた。


「“霧の次に来た奔流”」


「誰が言い出した」


「建築組合の誰か」


「詩人かよ」


「でも広がりやすいわね、この呼び名」


 別の報告書には、こうもあった。


 《Hazy IPA は扉を開ける。Double IPA はその先の廊下を照らす》


 王都の誰かが書きつけた一文らしい。


 醸は少しだけ笑った。


 大げさだが、言いたいことは分かる。


 ただし、この酒にも危うさはあった。


 濃い酒は、欲張りを呼ぶ。


 ある晩、バスコが裏口から現れた時点で、醸は何かあったと察した。


「また王都か」


「ああ」


「今度は何だ」


「若い術師が、徹夜で術式を組むために Double IPA を重ねた」


 夜警頭は短く告げる。


「結果、朝には頭痛と魔力の空回りで寝込んだ。大事故にはならなかったが、しばらく術が安定しないらしい」


「……やっぱりな」


 醸は顔をしかめた。


「効くからって、積み増せばいいもんじゃない」


 レティシアが呆れたように言う。


「人間って、どうしてそういう使い方をするのかしら」


「便利だからよ」


 セリナが冷静に返す。


「便利なものほど、過剰に使われる」


 ミーナは帳面を開き、真剣な顔で新しい項目を書き足した。


 《注意:連続使用不可。長時間集中時は休息併用。術者・設計者向けは特に適量厳守》


「刻印にも入れよう」


 彼女は言った。


「Hazy IPA より、もっとはっきり」


「そうだな」


 醸は頷く。


「これは“強い酒”じゃなく、“深い酒”だ。深く潜るには、戻るための縄も要る」


 こうして Double IPA の刻印には、新しい印が加えられた。


 果実紋を二重の輪で囲み、その中心に細い縦線を一本。


 意味は、“拡がりの中に芯を保つ”。


 さらに注意書きとして、


 《深く潜る者、帰路を忘るるな》


 と刻まれることになった。


「また詩的ね」


 レティシアが言う。


「効能の強い酒は、記号だけだと忘れられる」


 セリナが答える。


「でも言葉は、案外、人の頭に残るのよ」


 出荷初日、酒蔵にはいつも以上の緊張が漂っていた。


 Hazy IPA の時のような、浮き立つ祭りの熱とは少し違う。


 これはもっと、刃物を研いで渡す前の静けさに近い。


 醸は、最初の樽へ自ら刻印を押した。


 二重の輪。


 その中心を貫く細い一本線。


 木肌に印が沈み込むのを見た瞬間、彼はこれが一つの転換点だと感じた。


 American IPA が新風だった。


 Specialty IPA が分化だった。


 Hazy IPA が熱狂だった。


 そして Double IPA は、その熱狂の先に現れた“選ばれるべき強度”だ。


 万人の酒ではない。


 だが、必要な者には深く刺さる。


 王都へ向かう荷車が動き出す直前、ミーナが小さな瓶を一本差し出してきた。


「先生の分」


「俺の?」


「記念」


 彼女は少し照れながら笑う。


「Hazy IPA の時は“景色が広くなる”って感じだった。でもこれは、たぶん先生にとっても特別だと思う」


「なんで」


「だってこれ、“思いつくだけじゃ終わらない酒”だから」


 その言葉に、醸は瓶を受け取ったまま少し黙った。


 前世の自分は、発想がなかったわけではない。新しいことを考えなかったわけでもない。ただ、それを最後まで押し通すだけの舞台も、自信も、環境もなかった。町工場の職人として日々を回し、よい酒を造り、そこで人生が閉じていくものだと思っていた。


 だが今は違う。


 この世界では、思いつきが酒になる。


 酒が人を変え、村を変え、文化を変える。


 そしてその変化を、自分が最後まで見届けられる。


「……そうかもな」


 醸は静かに言った。


 瓶の中で、Double IPA は濃い橙金に揺れていた。


 霧ではない。


 もっと密度のある、果香を抱えた流れ。


 彼はそれを一口だけ飲む。


 香りが来る。濃密だ。Hazy IPA の開放感を残しながら、さらにその奥へ引き込むような深さがある。味わいは厚いのに重くなく、苦味は力強いのに乱暴ではない。そして頭の中に、幾つもの線が同時に生まれ、それが途切れずに繋がっていく感覚があった。


 次に何を造るか。


 どの系譜を伸ばすか。


 誰のために、どんな酒を設計するか。


 思考が散らない。むしろ、深く潜っていく。


「先生?」


 ミーナが不安そうに覗き込む。


「いや」


 醸はゆっくり息を吐いて笑った。


「これはたしかに、先へ行ける酒だ」


 空には、夕方の雲が薄く流れていた。


 その向こうにはまだ見ぬスタイルの余白が、いくらでも広がっている。


 Hazy IPA の熱狂は、終わらない。


 それは次の段階へ、さらに濃く、さらに深く、さらに選別された形で続いていく。


 人を驚かせる時代から、


 人を選び、使い手を問う時代へ。


 Double IPA は、その境目に立つ酒だった。


 荷車が山道を下っていく。


 果実の香りを閉じ込めた樽たちが、王都へ向かう。


 グランエッジの酒蔵に残ったのは、静けさと、次の仕込みの気配だけだった。


 醸は作業台の前に立ち、新しい羊皮紙を開く。


 そこへ書く見出しは、もう決まっていた。


 ――濃度のその先。


 ――選ばれた者だけが扱える、さらなる高み。


 彼はしばらく筆を止め、それから小さく笑った。


「まだ上があるんだよな、IPA は」


 山の風が吹き込む。


 その風は、果樹の甘さと針葉の青さを同時に運んでいた。


 香りの森は、まだ終わらない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ