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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第五十四話 琥珀の重みは、自由交易都市テスファールの舌に嘘を許さない ―British Strong Ale―

黒い酒が海を越える準備を始めた頃、グランエッジには以前とは質の違う手紙が届くようになっていた。


 南方商隊からの追加注文。街道宿からの経過報告。西方交易庁からの通達。そして時折、差出人の名も曖昧なまま、妙に丁寧な文面で「貴酒の見本をぜひ」と求める書状が混じる。


 そのどれもが、酒そのもの以上のものを嗅ぎつけている匂いを持っていた。


 樽が動けば金が動く。金が動けば人が動く。人が動けば、当然ながら、腹に何かを抱えた連中も寄ってくる。


 春の気配がまだ山の陰に隠れていたある朝、交易庁の巡察官エドガーは、珍しく少しだけ険しい顔で村長の家を訪れた。醸、レティシア、ミーナも呼ばれ、小さな円卓を囲む。


「面倒な話だ」


 開口一番、エドガーはそう言った。


「今さら?」


 レティシアが腕を組む。


「あなたが来てから、ずっと面倒の上塗りなんだけど」


「耳が痛いな」


 エドガーはまるで痛がっていない顔で返した。


「だが今回は私のせいだけでもない。自由交易都市から呼び出しが来た」


「自由交易都市ってテスファール?」


 ミーナが目を丸くする。


「え、師匠が?」


「正確には、グランエッジの醸造責任者と、暫定保護認可を結んだ代表者の同席だ」


「つまりあんたとカモスね」


「そうなる」


 村長が低く唸った。


「早いな」


「早いから厄介だ」


 エドガーは封蝋付きの書状を机に置く。


「表向きは、新流通品目の査閲と品質確認。だが実際は、テスファールの商会連中と一部貴族が、グランエッジの酒にどこまで値打ちがあるか、自分の舌で確かめたがっている」


「値踏みってことか」


 醸が言う。


「そうとも言う」


「嫌な仕事だな」


「同感だ。だが断れば、“山奥の怪しい秘酒”という扱いが強まるだけだ」


 理屈は分かる。


 Foreign Extra Stout は街道と海路へ出始めたばかりだ。今のところはまだ、珍品と奇跡のあいだを揺れている。ここでテスファール側にきちんと印象を刻めなければ、制度の中で正当に扱われる前に、噂だけが先行して利権に食われる可能性が高い。


 問題は、何を持っていくか、だった。


「Foreign Extra Stout じゃ駄目なの?」


 ミーナが尋ねる。


「駄目じゃない」


 醸は答えた。


「でもあれは“運ぶための黒”だ。長丁場や遠征に強い。優れた酒ではあるけど、テスファールの連中に最初に飲ませるには、少し武骨すぎる」


「Tropical Stoutは?」


「面白いけど、南方色が強い」


「Oatmeal Stoutは?」


「地味すぎる。でも必要な酒だ」


「じゃあ何がいるのよ」


 レティシアが言う。


「都会の舌なんて、たぶん面倒の塊でしょう」


「その通りだ」


 醸は少し黙り、窓の外の薄曇りを見た。


 交易都市。権力。商会。貴族。交渉の席。


 そこに必要なのは、傷を塞ぐ瞬発力でも、旅人を支える黒の重みでもない。もっと別の力だ。舌に深みを与え、場に格を作り、飲み手の気持ちを急かさず、それでいて芯を揺るがさない酒。


 時間を味方にした、堂々たる強いエール。


 British Strong Ale。


 前世の記憶の中でそれは、派手なホップではなく、モルトの豊かさと熟成の円み、時に果実やカラメルを思わせる落ち着いた複雑さを持つ酒だった。宴会で気勢を上げるためだけの酒ではない。ゆっくり傾けながら、腹を据え、言葉を選び、場の流れを整えるための酒。


「……決まったな」


 醸が呟く。


「今度は黒じゃない」


「何?」


 ミーナが身を乗り出す。


「British Strong Aleだ」


「ブリティッシュ……強いエール?」


「うん。濃くて、重くて、でも黒じゃない。琥珀から赤銅色の、しっかりしたモルトの酒だ」


「どう効くの?」


 レティシアが先に訊いた。


「たぶん、“腹を据える”」


「腹を据える?」


「揺さぶられても、簡単に言葉を漏らさない。慌てて決めない。酔っても崩れない。そういう方向だと思う」


 エドガーが初めて、わずかに興味を見せた。


「交渉向きの酒、ということか」


「貴族や商人は剣より舌で刺してくるんだろ」


「よく分かっている」


「だったら、それに合う酒を出す」


 レティシアが苦笑した。


「ほんと、どんな相手にも酒で返すのね」


「職人だからな」


「便利な言い訳」


     


 仕込み小屋に並ぶ材料は、このところの黒一色とは明らかに違っていた。


 神麦を軸にしつつ、今回はロースト麦芽を大きく減らし、代わりに濃いカラメル感を出すための焼成度合いの異なる麦芽を組み合わせる。狙うのは、焦がしの苦みではなく、熟れた果実や糖蜜、焼き菓子にも通じる“厚みのある甘香ばしさ”だ。


 さらに醸は、少量の濃縮麦汁を別で煮詰め始めた。


「なにそれ?」


 ミーナが鍋を覗き込む。


「一部を煮詰めて、深い糖化の香りを作る」


「また難しいことしてる」


「要するに、酒の奥行きを増すんだよ。簡単な甘さじゃなく、時間をかけた甘さにする」


「時間をかけた甘さ……」


「テスファールの連中に一口で分かりやすい派手さを出しても、逆に浅く見られる。必要なのは、“飲んでから気づく深さ”だ」


 レティシアが棚にもたれて言う。


「今回は剣じゃなくて椅子に座って戦う相手だものね」


「座ってる相手の方が面倒なこともある」


「同感」


 糖化槽に湯が落ちると、立ち上った香りは黒ビールとは違う温かさを持っていた。焼きたてのパンの耳、乾いたビスケット、煮詰めた果実、ほのかな蜂蜜、そして奥にふくらむ神麦の清い力。色は深い琥珀を目指していたが、香りはすでに十分に豊かだった。


 櫂を回すたび、液体は重たく、しかし黒のような威圧ではなく、丸く堂々としていた。


「なんか……偉そう」


 ミーナが正直な感想を漏らす。


「酒に対する感想として珍しいな」


 醸は笑う。


「でも間違ってない。今回は“格”がいる」


「格?」


「相手に“これは雑に扱うと損する”って思わせる空気」


「もう戦ってるじゃない」


 レティシアが呆れる。


「仕込む前から」


「酒は杯に入る前から勝負だよ」


 ホップは控えめだが、完全に脇役ではない。華やかな香りを立てるのではなく、モルトの甘やかさを最後に引き締める“節度”として使う。British Strong Ale は、暴れる酒ではない。どこまでいっても、品位と厚みの両立が肝になる。


 さらに醸は、発酵後の熟成を見越して樽を選んだ。木の香りが強すぎず、だが完全に無個性でもない、中庸の古樽。新樽の刺激では、せっかくの繊細な円みが台無しになる。必要なのは“年を重ねた落ち着き”だった。


 仕込みを見ていたエドガーが低く言う。


「君は、テスファールの人間をあまり信頼していないな」


「してない」


 醸は即答した。


「でも分かろうとはしてる」


「なぜだ?」


「酒は相手を知らないと作れないからだよ。好きか嫌いかとは別だ」


「……なるほど」


 巡察官はそれ以上何も言わなかったが、その目には前より明確な敬意が混じっていた。


     


 数日後、発酵桶から立ち上る香りは、これまでのどの酒とも違う成熟を帯びていた。


 黒の激しさでも、南方の濃密さでもない。ドライフルーツのような甘い影。トフィー。ナッツ。焼き林檎。温度が上がるにつれて、蜂蜜を焦がしたようなふくよかさまで顔を出す。液色は赤銅を通り越して深い琥珀褐色へ傾き、光を受けると内部で鈍く燃えるように見えた。


 醸は若い状態の酒を小さく掬い、舌の上で転がした。


「……いい」


「どう?」


 ミーナがすぐ聞く。


「狙い通りだ。まだ荒いけど、芯がある」


「効きそう?」


「効く」


 それは、今までの酒と比べると派手ではない。


 飲んですぐ傷が閉じるわけではないし、魔力が跳ね上がるような分かりやすさもない。けれど、喉を通って数呼吸のうちに、胸の奥から不思議な安定感が広がっていった。緊張で細くなっていた呼吸が深くなり、頭の熱だけが先走る感じが落ち着いていく。気力を奮い立たせるのではなく、散っていた思考を中央へ寄せるような効き方だった。


 腹が据わる。


 まさにその一語だった。


 しかもそれは、鈍くするのではない。むしろ感覚は澄み、言葉の選び方だけが慎重になる。焦って相手のペースに乗せられにくくなり、自分の中の秤がまっすぐに戻る。


「……これは、交渉の酒だな」


 醸が頷く。


「あるいは裁定の酒」


「裁定?」


 レティシアが眉を上げる。


「そう。感情に流されず、決めるべきことを決める時に向いてる」


「うわ、都会向け」


「だろ」


 その晩、村長を交えて試飲が行われた。


 木杯に注がれた British Strong Ale は、火鉢の明かりを受けてゆっくり燃えるような色を見せる。泡はきめ細かく、白ではなくやや生成りがかっている。香りは濃くても押しつけがましくなく、むしろ嗅ぐ者の方から近寄りたくなる類いの深さがあった。


 村長が最初に飲み、しばらく無言になった。


「……これは、しゃべりすぎるのを止める酒だな」


「おお」


 醸が感心する。


「いい感想だ」


「当たりか?」


「かなり」


 ミーナも恐る恐る香りを嗅ぎ、それから目を瞬いた。


「あれ、なんだろ。緊張が消えるっていうより、“焦ってる自分が見える”感じ」


「そうそう、それだ」


「なにこれ、すごい」


「すごいけど、地味ね」


 レティシアが続けて飲みながら言う。


「でも嫌いじゃないわ。変に感情が立たない。剣を抜く前に、一度座って考えられそう」


「それも大事だ」


「剣を抜く前に飲ませたい相手が何人かいるわね」


「テスファールには山ほどいるだろうな」


 エドガーがぼそりと漏らし、初めてその場が少し和んだ。


 British Strong Ale は、誰かを“その気にさせる”酒ではなかった。


 むしろ逆だ。勢いだけで決めることを戒め、見栄や焦燥を剥がし、本当に必要な重みだけを自分の中に残してくれる。派手な奇跡ではない。だが、権力や金が行き交う場では、そういう力こそ何より貴重かもしれなかった。


     


 テスファールへの道は長かった。


 グランエッジを出て山を下り、宿場町を二つ越え、川沿いの街道をたどる。同行するのは醸、レティシア、エドガー、それに交易庁の護衛二名。ミーナは本当は来たがったが、療養所と村の仕込みを空けられず、泣く泣く留守番となった。


「絶対、変なやつに丸め込まれないでよ!」


 見送りの時に彼女はそう叫んだ。


「師匠は酒のことになると強いけど、人の悪意には無防備な時あるから!」


「ひどい言われようだな」


「事実でしょ」


 レティシアが即座に追い打ちをかける。


「否定できないわね」


「お前までか」


「だから私が行くんじゃない」


 荷車には、British Strong Ale の小樽が二つ、Foreign Extra Stout が一つ、そして応急用の基本ラガーが積まれていた。表向きは査閲用見本。だが実際は、この旅そのものがグランエッジにとって試金石だった。


 道中、British Strong Ale は思わぬ形で役に立った。


 二日目の夜、一行は川沿いの宿場に泊まった。そこではちょうど、地元商人と交易庁の通行税を巡る口論が起きていた。声は大きく、互いに相手が悪いと譲らない。護衛たちも面倒を嫌って距離を置いていたが、騒ぎは宿全体に広がりそうだった。


「ほっとけ」


 エドガーは言った。


「我々の任務ではない」


「そうだな」


 醸もそう返した。返したのだが――。


 喧嘩の中身を聞くうち、どうにも双方とも感情だけが先走っているのが分かった。税額の解釈も、荷の分類も、冷静に紙を見れば解ける話だ。だが疲れと疑心暗鬼で、誰も引くに引けなくなっている。


 醸はため息をつき、宿の主人に頼んで小さな杯をいくつか借りた。


「何をする気だ」


 エドガーが怪訝そうに訊く。


「戦場を変える」


「また酒でか」


「また酒でだよ」


 British Strong Ale を少量ずつ四つの杯に注ぎ、当事者たちの前へ置く。


「なんだこれは」


 商人のひとりが睨む。


「口が乾いてると、余計な言葉が増える」


 醸は言った。


「飲んでからもう一回、紙を見ろ」


「怪しい酒を飲めってのか?」


「毒なら、俺が先に飲む」


 そう言って自分もひと口飲むと、相手も渋々続いた。


 結果は、驚くほど早かった。


 怒鳴り声が、まず一段落ちる。次に、通行税を主張していた役人の一人が「……いや、待て」と紙を見返し始めた。商人側も「分類が違うのか?」とようやく相手の説明を聞く姿勢になる。数分後には、ただの記載漏れと誤解が重なっただけと分かり、険悪だった空気は拍子抜けするほどあっさり収まった。


 レティシアが小声で言う。


「ほんとに効いた」


「だろ」


「怖いくらい」


「怖いっていうか、本来そうなるべき場所に戻しただけだよ」


「それが難しいのよ、人間は」


 エドガーは黙ってその様子を見ていたが、宿を出たあと低く言った。


「テスファールでそれをやるなよ」


「どうして」


「効果がありすぎると、欲しがる連中が増える」


「もう増えてるだろ」


「……否定できんな」


     


 テスファールは、山村の人間にとってあまりに大きかった。


 高い石壁。何重にも続く街区。市場の喧騒。色とりどりの看板。馬車の列。香辛料と排水と焼き菓子と人いきれの匂いが混ざった空気。グランエッジの澄んだ冷気とはまるで別の世界だ。


 査閲の場は、テスファール西区にある交易庁付属の会合館で開かれることになっていた。そこには有力商会の代表、酒税監督官、港湾管理官、そして数名の小貴族が招かれているという。


「全員、面倒くさそうな肩書きね」


 レティシアがぼやく。


「面倒くさいから肩書きが増えるんだ」


 醸が返す。


「逆じゃない?」


「たぶん両方だ」


 会合館の大広間は、絨毯と燭台と磨かれた木卓で整えられていた。だが、その上品さの下に流れる空気は明らかに品定めのものだった。山奥の新興醸造者が、どの程度のものか。どれだけ利用価値があるか。どこまで自分たちの枠組みに組み込めるか。


 視線が痛いほど分かる。


 醸は持ち込んだ小樽に手を置き、深く息を吸った。


 ここで必要なのは、見栄ではない。萎縮でもない。


 腹を据えること。


 自分で作った酒が、そのまま今の自分に返ってくるのを感じた。


 査閲はまず Foreign Extra Stout から始まった。保存性、街道輸送への適性、効能の持続。テスファールの役人たちは予想以上に冷静で、質問も鋭い。次に Tropical Stout が出され、南方交易との相性や現地商人の反応が話題になる。


 そして最後に、British Strong Ale の樽が卓上へ置かれた。


「これが新作か」


 白髭の商会長が訊く。


「見た目は派手ではないな」


「派手さを売りにした酒ではありません」


 醸は答えた。


「では何を売りに?」


「重みです」


 失笑がいくつか漏れた。


 山村上がりの職人が、都会の重鎮に向かって“重み”を語る。滑稽に映ったのだろう。だが醸は気にしなかった。杯に酒を注ぎ、ひとりずつへ回していく。


 液体は深い赤銅色を湛え、燭台の光を受けてゆっくり揺れた。香りは黒ほど威圧的ではない。だが、ひと嗅ぎすれば簡単に忘れられない厚みがある。


 最初に飲んだ港湾管理官は、眉をわずかに上げた。


「……甘い」


「甘いだけではありません」


 醸が言う。


「続けてください」


 男は二口目を飲み、言葉を止めた。


 次に酒税監督官が口をつける。小貴族のひとりも続く。やがて、さっき失笑していた白髭の商会長までもが無言になった。


 それは劇的な沈黙ではない。


 むしろ、場の全員がそれぞれ自分の中の秤を持ち直すような、静かな変化だった。視線が不用意に泳がなくなる。言葉を急がない。誰かを出し抜くための早口が消える。


 エドガーがその機を逃さず、淡々と資料を差し出す。


「グランエッジ醸造品のうち、本品は接待・査閲・裁定補助用途において、高い適性を持つ可能性があります」


「裁定補助、だと?」


 小貴族が聞き返す。


「補助は補助です」


 エドガーは冷静だった。


「判断を代行するのではない。判断の土台を整える」


 白髭の商会長が、杯を見つめたまま言う。


「妙な酒だな」


「ありがとうございます」


 醸が返す。


「褒めておらん」


「知ってます」


「……だが、嫌いではない」


 その瞬間、会場の空気は変わった。


 完全な味方になったわけではない。だが少なくとも、山奥の胡散臭い奇跡扱いではなく、“国が無視できないひとつの技術”として認識されたのが分かった。


 会合の終盤、ひとりの若い伯爵がこう言った。


「この酒、宴会向きではありませんな」


「ええ」


 醸は頷く。


「浮かれるための酒じゃない」


「では、誰に向く?」


「責任を持つ者にです」


 伯爵はしばらく醸を見つめ、それから薄く笑った。


「……それは、売り文句としては上等だ」


「売り文句ではありません」


「では?」


「本音です」


 伯爵はそれ以上何も言わず、杯を飲み干した。


     


 その日の夜、会合館を出る頃には、交易庁側から正式な追加提案が出ていた。


 British Strong Ale は、当面のあいだテスファール内で限られた公的会合にのみ試験供給される。数量制限付き。製法秘匿は維持。価格は高め。だがその代わり、グランエッジはテスファール交易庁公認の醸造拠点として名が記録される。


「勝った、のか?」


 宿へ戻る道で、醸が呟いた。


「勝敗で言えば優勢ね」


 レティシアが答える。


「少なくとも食い物にはされなかった」


「完全にではないがな」


 エドガーが補足する。


「これから先、さらに面倒は増える」


「知ってる」


「だが今日のところは、よくやった」


「褒めた?」


「半分だけだ」


 夜風はまだ冷たい。だがテスファールの石畳の上を歩きながら、醸は奇妙な実感を抱いていた。


 自分は本当に、世界の中へ出てきたのだ。


 山村の小さな仕込み小屋で始まった酒が、今では自由交易都市の卓上で、商会長や役人や貴族の舌を止め、言葉を変え、制度の一部に触れようとしている。


 前世では想像もしなかった場所だ。


 けれど不思議と、怖さよりも手応えの方が強かった。なぜなら、自分は剣も権力も持たないが、樽の中身だけは誰より理解しているからだ。その一点だけで、ここまで来た。


 British Strong Ale。


 それは、派手な奇跡の酒ではない。


 だが責任ある者の喉を通り、揺れた秤を真ん中へ戻すなら――


 国にとって、これほど危険で、これほど必要な一杯もないのかもしれなかった。


 そして醸はまだ知らない。


 このテスファールでの成功が、次に呼び寄せるのが商会だけではなく、


 もっと古く、もっと執念深く、


 “酒を奇跡としてではなく、信仰として奪おうとする者たち”であることを。


 グランエッジの琥珀色は、ついにテスファールの舌に届いた。


 その重みは、これからさらに多くの嘘を暴き、多くの欲を炙り出していくことになる。


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