表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/42

第三十九話 泡立つ陽光、沈黙の卓に笑みを戻す一杯 ―Australian Sparkling Ale―

侯爵家の中庭で交わされた小さな乾杯は、驚くほど速く屋敷中へ広がった。

 主人が自分の足で庭へ出た。

 しかも、杯を掲げた。

 その事実は、どれほど言葉を飾らずとも、人の心を動かすには十分だった。侍従は廊下を行き来する足取りを少し軽くし、侍女たちは控えめながらも目を見合わせてほっとした笑みを交わし、厨房では料理長が「では夕餉は少し温かいものを増やそう」と声を張った。

 たったそれだけの変化だ。

 だが、長く病の影に覆われていた館にとって、その“たったそれだけ”がどれほど大きいか、醸にはよくわかった。

 人は、倒れた誰か一人のためにだけ消耗するのではない。

 その人が戻るかもしれない、戻らないかもしれない、という長い宙吊りの時間に、少しずつ心を削られていくのだ。

 だから回復とは、本人だけの問題ではない。

 侯爵アルフェンの胸に朝の光を差し込んだ British Golden Ale は、結果として侯爵家全体に“息を吸い直すきっかけ”を与えた。けれど醸は、そこで終わりではないと感じていた。

 館の空気は軽くなった。

 だがまだ、弾んではいない。

 笑い声は戻っていない。

 言葉の端にある遠慮も、長く縮こまっていた肩も、完全にはほどけていない。

 回復の次に必要なのは、活気だ。

 沈んだ空気に風を通すだけでなく、そこへ細かな泡を満たすように、場そのものを少しずつ持ち上げる力。重苦しさを吹き飛ばすのではなく、内側から自然に弾ませる力。

 そんなことを考えながら、醸は中庭から客間へ戻る回廊を歩いていた。夕方の光が石の壁を橙色に染めている。レティシアが並んで歩き、少し後ろからミーナがついてくる。

「ねえ」

 レティシアが口を開いた。

「さっき見てたでしょ。回廊の陰の男たち」

「ああ」

「侯爵家の人間じゃないわ」

「やっぱりか」

「身なりは整ってた。商会筋か、どこかの貴族の使いか。少なくとも、ただの見物人ではない」

「王都らしいな」

「あなたの酒が目立ち始めた以上、そうなるのは当然よ」

「当然、で済ませたくないなあ」

「でも済まされるのが王都」

 相変わらず容赦のない言い方だが、間違ってはいない。

 王都は、奇跡を素直に奇跡として眺めてはくれない街だ。そこに価値があれば、値札がつく。値札がつけば、利権になる。利権になれば、奪う者と守る者が現れる。

 グランエッジでも似たようなことはあった。だが村では、せいぜい揉め事は人の顔が見える範囲に収まる。王都は違う。顔の見えない思惑が、もっと遠くから絡んでくる。

「カモス」

 ミーナが後ろから声をかけた。

「うん?」

「侯爵さま、今日はたぶんもう大丈夫そう。でも、この家の人たちってまだ“どう喜んでいいかわからない”感じがある」

「そうだな」

「嬉しいのに、静かすぎるっていうか」

「長く我慢してたんだろう」

「じゃあ、次はその我慢をほどく酒?」

「……たぶん、それだ」

 言いながら、醸の中で次の輪郭が定まっていく。

 Australian Sparkling Ale。

 オーストラリア系のスパークリングエールは、しっかりとした発泡感、明るい色合い、果実を思わせる酵母由来の香り、そして軽快なだけでは終わらない飲みごたえが魅力のスタイルだ。泡立ちがよく、口に含んだ瞬間に場の空気まで明るくするような印象がある。

 Golden Ale が“朝の光”なら、

 Sparkling Ale は“陽光のきらめき”だ。

 個人の胸を軽くするだけではない。

 その場にいる人間同士の間に沈んだまま残っていた沈黙を、細かな泡でほぐすような酒。

「……いけるか」

 醸は小さく呟いた。

「何が?」

 ミーナが首を傾げる。

「次の酒」

「もう次なの?」

「王都は待ってくれないからな」

「いつも思うけど、カモスの中では酒の話だけ展開が速いよね」

「職人だから」

「便利な言葉」

「お前もよく言うだろ、それ」

「弟子だから」

 ミーナが得意げに胸を張るので、醸は思わず吹き出した。

 その笑い声が回廊に小さく響き、先を歩いていた侍女が振り返って、少し驚いたように目を丸くした。

 ――ああ、そうか。

 今この館に足りないのは、こういう音だ。

 大声の笑いではない。

 ほんの小さな、気を張らなくていい音。

 それが長く失われていたのだ。

      

 その夜、侯爵アルフェンは居間で食事を取ることになった。

 ベッドを離れ、少し広い部屋に出て、短い時間でも卓につく。

 それは侯爵家にとって、庭へ出たことに続く、二つ目の大きな変化だった。

 もっとも、居間に集まった面々の空気はまだ硬い。侯爵本人、セリナ、侍医、近習頭、料理長、そして必要最小限の侍従たち。皆が喜んでいないわけではない。むしろ喜んでいる。だが、長く張り詰めてきたせいで、どうにも肩が上がったままだ。

 侯爵は椅子に座りながら、それを見て苦笑した。

「葬儀の前触れのような顔をするな」

 低いが、よく通る声だった。

「旦那様、そのような」

 近習頭が慌てる。

「わかっている。責めているわけではない」

 アルフェンは卓の上のスープへ視線を落とし、少しだけ息を吐いた。

「長かったからな」

 その一言に、誰もすぐ返せなかった。

 長かった。

 たぶんそれが、この侯爵家に起きたことのすべてだった。劇的な一撃で誰かが倒れたわけではない。日ごとに、少しずつ、長く削られていった。だから戻るときも、一気に元へは戻れない。

 醸はその場の端に控えていた。客人である以上、食卓に同席する立場ではない。だが、酒の提供者として様子を見るよう求められている。

 侯爵アルフェンが視線を寄越した。

「大麦」

「はい」

「君が作った酒は、どちらも見事だった」

「ありがとうございます」

「だが、ここまでくると欲が出る」

「欲、ですか」

「この卓をもう少し、生きた場に戻したい」

 その言い方に、セリナがわずかに目を伏せた。

 おそらく彼女も同じことを感じていたのだろう。

 侯爵は淡々と続ける。

「皆、よく仕えてくれた。だが“よく仕える”ことと、“生きて働く”ことは違う」

「……はい」

「この家には今、後者が足りていない」

 醸は静かに頷いた。

 やはり次に必要なのは、それだ。

 場に生気を戻すこと。

「できますか」

 セリナが真っ直ぐに問う。

「やってみます」

「また曖昧ね」

 レティシアが壁際から呟く。

「酒は飲むまで絶対って言えないからな」

「でも、顔はできると思ってる顔よ」

「そう見える?」

「見える」

 侯爵アルフェンが、ふっと小さく笑った。

「では任せよう。今の私には、お前の曖昧さはむしろ信用できる」

「過信じゃないといいんですが」

「王都では、断言ばかりする者よりましだ」

 その言葉に、卓の何人かが苦い顔で頷いた。

 王都で生きる者らしい反応だった。

      

 翌朝、醸は厨房ではなく、侯爵家の一角にある小さな醸造室を案内された。

 以前は宴席用の酒の管理や、料理酒の仕込みに使っていたらしい。小規模だが設備は悪くない。温度管理用の魔石棚まである。王都貴族の底力を感じる場所だった。

「こんなのあるなら最初から使わせてほしかったな」

 醸が言うと、案内役の老執事が咳払いした。

「通常は、家中の重要設備を客人に開示することはございませんので」

「でしょうね」

「ですが旦那様は、もう“客人”としては見ておられません」

「それ、ありがたいような怖いような」

「王都では概ね同義でございます」

「……やっぱり怖いな」

 老執事は顔色一つ変えずに頭を下げた。

 冗談が通じたのか通じていないのか、最後までわからない。

 だが設備は本当に申し分なかった。淡色麦芽に相当する神麦の選別品、軽くトーストした副原料、王都南方から入った乾燥果皮、そして苦味と香りの両方を持つ青銀の花穂――この世界でいうホップ代わりの素材も、かなり質がいい。

 Australian Sparkling Ale に必要なのは、まず泡だ。

 ただ炭酸が強いだけでは足りない。細かく、弾けるようでいて荒くない泡。舌を叩くのではなく、口中を明るく起こす泡。

 次に、香り。

 白ぶどう、洋梨、ほんの少し青草。

 晴れた日の空気を連想させるような軽い果実感。

 さらに、飲みごたえ。

 軽すぎれば、ただ浮つく。

 逆に重すぎれば、弾みにならない。

 “楽しさ”と“支え”の釣り合いが必要だった。

「ミーナ、発酵温度は少し高めに見たい」

「果実っぽい香りを出すため?」

「そう。ただしやりすぎると散る」

「難し」

「難しいよ」

「なのにやるんだ」

「必要だからな」

「職人ってそういうとこあるよね」

「お前、それ褒めてないだろ」

「半分は褒めてる」

 レティシアは入口で腕を組みながら、いつものように周囲を警戒していた。

「今日は人の出入りが多いわ」

「見学?」

「様子見。たぶん“侯爵家で何が起きているか”を探ってる」

「入れるなよ」

「入れないわよ。でも、厨房よりここを見せてもらえたのは正解ね。護りやすい」

 醸は頷き、神麦を手に取った。

 指先に伝わる重みが、いつもより少しだけ張っている気がする。王都に入ってから、神麦そのものの反応も変わってきていた。人の欲や恐れ、期待や焦りが濃い場所では、この麦も何かを敏感に拾うのかもしれない。

「……今日は、跳ねろよ」

 独り言のように呟くと、手の中の麦がかすかに熱を返した気がした。

 粉砕、糖化、ろ過。

 工程は変わらない。だが目指す場所が違えば、手つきも変わる。

 醸は湯の当て方を慎重に調整し、過度な重さが出ないよう麦汁を組んだ。煮沸では香りの青さを飛ばしすぎず、しかし輪郭は作る。終盤に果皮をわずかに加えることで、柑橘よりも明るい果実の気配を引き出す。オレンジピールほど強くない。もっと軽く、泡に乗るような香りだ。

 発酵に入る直前、神麦の魔力がふっと立ち上がった。

 黄金に近い麦汁の中に、白いきらめきが細かく走る。

 それは British Golden Ale のときの“光が差す”感じとは違った。もっと無数の小さな粒が、底から上へ昇っていくような感触だ。

「来た」

 醸が低く言う。

「何が?」

 ミーナが覗き込む。

「泡の気配」

「見ただけでわかるの?」

「見たのもあるし、匂いもある」

「職人ってずるい」

「経験って言え」

「その言葉、便利すぎない?」

 レティシアが少し表情を和らげた。

「今回の酒は、どう効くの?」

「たぶん、張り詰めすぎた人間の心と息をほぐす」

「精神安定?」

「そこまで静かなものでもない。もっとこう……」

「こう?」

「“一緒にやれそう”って気分を戻す感じ」

「連携?」

「近いな」

「なるほど」

 レティシアは顎に手を当てた。

「王都の屋敷には、たしかに必要そう」

「だろ」

「でも危ないわよ、そういう酒」

「……やっぱり?」

「人の判断や空気に関わる酒は、治療酒よりずっと政治に近い」

 その言葉は重かった。

 醸も同じことをうっすら感じていた。怪我や病に効く酒は、わかりやすい。だが場の空気、組織の連携、意欲や活気に触れる酒は、人の集団の動きそのものを変えうる。

 それは便利だ。

 同時に、権力者が喉から手が出るほど欲しがる類の力でもある。

 けれど、だからといって造らないわけにもいかない。

 今、この侯爵家には必要だ。

 目の前の必要を見捨ててまで、先の面倒だけを恐れるのは、醸の性分ではなかった。

      

 その日の夕刻。

 Australian Sparkling Ale は、想像以上に美しい仕上がりになった。

 色はやや明るい金。Golden Ale よりも少し白みを帯び、透けるような輝きがある。注げば泡がするすると立ち上がり、きめ細かく盛り上がる。香りは花より果実寄りで、熟しきらない洋梨や白ぶどうの皮を思わせる軽い芳香。口に含めば、最初に泡がはじけ、その後からやさしい麦の芯と穏やかな苦味が追ってくる。

 そして何より、飲むと胸の内側にたまっていた澱が、少しずつ浮いてほどけていくような感覚があった。

「これは……いいな」

 醸は杯を置いて言った。

「今回は自信満々ね」

 レティシアが笑う。

「いや、本当にいい」

「わかる」

 ミーナも目を丸くした。

「なんか、さっきまで“ちゃんとしなきゃ”って思ってたのが、“ちゃんとできそう”になる」

「それだ」

「今日も狙い通り?」

「今日はかなりな」

「最近どんどん感覚で喋るようになってない?」

「酒の話になると昔からこうだよ」

「うわ、自覚二回目」

 侯爵アルフェンへの提供は、今度は居間で行われた。

 卓には昨日より少し多くの料理が並び、使用人たちの動きも心なしか整っている。侯爵はまだ万全ではないが、背筋を伸ばして椅子に座っていた。

「今夜は何だ」

「Australian Sparkling Ale です」

「また長いな」

「今回は略しにくいですね」

「では、お前が王都向けの名をつけろ」

「……“陽泡”とか」

「ようほう?」

「陽の光の泡です」

「悪くない」

 侯爵は目を細めた。

「では陽泡をもらおう」

 杯に注がれた酒を見て、居間にいた者たちが小さく息を呑んだ。

 泡がきれいだったのだ。静かな部屋の中で、その白い泡だけが生き物のように立ち上っていく。

 侯爵アルフェンは香りを取ると、少し意外そうな顔をした。

「果実のようだな」

「重くならない程度に、発酵の香りを生かしました」

「ではいただこう」

 一口。

 侯爵の喉がわずかに動き、すぐに表情が変わった。

 昨日の Golden Ale のような“胸が軽くなる”反応とは少し違う。もっと自然に、口元の力が抜けるような、そんな変化だった。

「……これは面白い」

「どうでしょう」

「静かだった部屋に、少し人の声を入れたくなる」

 その評に、醸は思わず頷いた。

「近いです」

「近い、か。酒を評するには妙な言い方だが」

「この酒自体が、そういう方向なんだと思います」

「なるほどな」

 侯爵はもう一口飲み、今度は卓の他の者たちを見回した。

「セリナ」

「はい」

「お前も飲め」

「ですが」

「命令だ」

「……かしこまりました」

 セリナは一礼し、少量を杯に取った。

 彼女は普段、感情を表に出しすぎない人物だ。だが飲んだ瞬間、ほんの少し肩が下がった。

「これは……」

「どうだ」

「気を抜く酒ではありませんね」

「ほう」

「むしろ逆です。張り詰めたままでは見えなかった周囲が、少し見やすくなる感じがします」

「お前らしい言い方だな」

「職務柄、そうなります」

 そのやりとりに、近習頭がつい小さく笑った。

 侍医がそれを見て目を丸くし、料理長まで口元を押さえる。

 長い沈黙が支配していた食卓に、ようやくささやかな反応の連鎖が起き始めた。

 侯爵アルフェンはそれを見て、杯を卓に置いた。

「大麦」

「はい」

「これは、よい」

「ありがとうございます」

「私だけでなく、この場そのものに効いている」

「そうなればと思って作りました」

「……なら、見事だ」

 侯爵は少し声を張った。

「皆、聞け。今夜は“病人の食卓”ではない」

 部屋が静まる。

「ようやく戻り始めた家の、最初の食卓だ。過度に騒ぐ必要はない。だが黙り込む必要もない。話せ。食え。働き続けるためにも、生きている卓を思い出せ」

 その言葉は、命令というより許しに近かった。

 近習頭がまず最初に口を開いた。

「では、旦那様。庭師頭が、春に向けて北側の花壇を作り直したいと」

「やるといい」

「はい」

 侍医が続く。

「薬湯の配合も、少し回復期用へ移れそうです」

「任せる」

 料理長が胸を張る。

「明日には、もう少し固いパンもお出しできます」

「楽しみにしておこう」

 それは本当に些細な会話だった。

 だが、些細であることこそ大事だった。

 病の前で止まった家は、いつのまにか“主人の命に関わること”以外を口にしづらくなる。花壇の話、パンの話、薬湯の話。そういう日常の小さな相談が戻ってくること自体が、家の再生なのだ。

 ミーナが醸の袖をくいと引いた。

「ねえ」

「うん?」

「これ、すごいね」

「ああ」

「みんな、笑う手前まで来てる」

「そうだな」

「あと少しで、ちゃんと笑えそう」

「たぶんその“あと少し”が大事なんだろうな」

 そう言った直後だった。

 居間の外、扉の向こうで言い争う声がした。

「ですから、お取次ぎ願いたいと――」

「今はお引き取りを」

「侯爵閣下のご快復を祝い、商都側から――」

 レティシアの目がすっと細くなる。

「来たわね」

「早いな」

「早いんじゃない。待ってたのよ。侯爵が戻る兆しを」

 セリナが立ち上がりかけたが、侯爵アルフェンが手で制した。

「誰だ」

 扉越しに近習が答える。

「ヴィスタ商会の使者を名乗っています」

 居間の空気がわずかに冷えた。

 醸はその名を知らない。

 だがセリナとレティシアの反応を見る限り、ろくでもない相手なのだろう。

 侯爵アルフェンは杯を手に取ったまま、落ち着いた声で言った。

「伝えろ。今宵は家の食卓だ。商いの話を差し込む日ではない」

「はっ」

「それと」

 侯爵はわずかに目を細める。

「快復を“確認しに来た”のなら、なおさら帰せ。私は見世物ではない」

 扉の外の気配がざわつき、やがて遠ざかっていった。

 静けさが戻る。

 けれど今度の静けさは、前までの重苦しいものではなかった。むしろ皆が同じものを見て、同じように理解したあとの静けさだ。

「……なるほど」

 醸が低く呟く。

「わかった?」

 レティシアが言う。

「狙われるって、こういう形か」

「ええ。酒そのものだけじゃない。誰に効いたか、どこまで戻したか、それを握りたいの」

「面倒だなあ」

「王都だから」

 侯爵アルフェンは再び“陽泡”を口にし、ふっと息をついた。

「だが悪くない」

「何がです?」

 セリナが問う。

「外が騒がしいと、内を整える理由がはっきりする」

「……それは、たしかに」

「大麦」

「はい」

「お前の酒は、どうも私に先の仕事を思い出させるらしい」

「それは、いいことですか?」

「少なくとも、死にかけていた人間の感想としては悪くない」

 その言い方に、とうとう居間の何人かがはっきりと笑った。

 大きな爆笑ではない。

 だが、確かな笑いだった。

 侯爵家の食卓に、ようやく戻ってきた音。

 Australian Sparkling Ale――陽泡は、その瞬間、確かに役目を果たしたのだと醸は思った。

 Golden Ale が、一人を朝へ連れ出した酒なら。

 Sparkling Ale は、複数の人間を同じ卓へ戻す酒だった。

 個を立たせるのではなく、場を弾ませる。

 沈黙を壊すのではなく、ほぐして、言葉が生まれる余地を作る。

 それは王都で生きる上で、きっととても危険な力だ。

 だが同時に、失われれば人も家もじわじわ死んでいく種類の力でもある。

 侯爵アルフェンは食事を終える頃には、昨日よりもはっきりとした顔をしていた。疲れは見える。けれど、それは“生きて動いた人間の疲れ”だ。病に押しつぶされているだけの顔ではない。

 食卓が終わり、人が散っていく中、セリナが醸のもとへ来た。

「ありがとうございます」

「侯爵が良くなられたなら何よりです」

「それだけではありません」

 彼女は一度、居間を振り返った。

「今夜、皆が“明日の仕事”を話しました。ここ数ヶ月、あの食卓では一度もなかったことです」

「……そうですか」

「ええ。あなたの酒は、やはり厄介ですね」

「褒めてます?」

「半分は」

 それはミーナと同じ言い方だったので、醸は少し笑った。

「王都では、その半分が命取りになるかも」

 セリナは声を落とした。

「ヴィスタ商会は引きません。侯爵閣下が戻り始めた以上、次は酒を囲い込みに来る」

「でしょうね」

「ですが、侯爵家もただ守られるだけでは終わりません」

「というと?」

「旦那様は明日、少人数の内々の席を設けるおつもりです」

「内々の?」

「味方を見極めるための席です。戻った主人を見せるためではなく、誰に何をどこまで見せるかを選ぶ席」

「……王都って感じだなあ」

「ようやく理解してきましたね」

「嬉しくない理解だ」

 セリナはごくわずかに笑ったが、すぐ真顔に戻った。

「その席で、今夜の酒がもう一度必要になるかもしれません」

「陽泡が?」

「ええ。人と人の間の空気を整える酒として」

「わかった。備えておきます」

「助かります」

 彼女が去ったあと、レティシアが壁にもたれて言った。

「次は宴、ってわけね」

「宴というより探り合いだろ」

「王都の宴なんて大体そうよ」

「夢がない」

「剣も酒も、鞘に入ってるときのほうが危ないことはあるわ」

 醸は苦笑し、窓の外を見た。

 王都の夜景は、山村の星空とは違う。地上に無数の灯があり、人の思惑の数だけ揺れているように見える。

 この街では、酒はもう単なる薬では済まない。

 命を繋ぎ、

 朝を呼び、

 卓を生かし、

 そしてこれからは、誰が敵で誰が味方かを照らす場にも立つのだろう。

 面倒だ。

 だが、逃げるつもりはなかった。

 なにしろ自分は、大麦 醸だ。

 前世では小さな町工場で、誰にも知られないような地味な仕込みを続けていたビール職人。

 異世界へ来て、神麦に出会い、酒が人を癒やし、人を動かし、人の運命にまで触れるようになっても、根っこのところは変わらない。

 必要な酒があるなら、造る。

 目の前に困っている人がいるなら、その人のために最善を考える。

 その結果、面倒な連中に目をつけられるとしても、今さら足を止める理由にはならなかった。

「カモス」

 ミーナが窓辺まで来て、外を見上げる。

「うん?」

「次、ちょっと大変そうだね」

「そうだな」

「でもさ」

「なんだ?」

「今日の酒、好き」

「お、珍しく率直だな」

「だって、飲むとみんなが“ちゃんとそこにいる”感じするんだもん」

「……ああ」

 その表現は、実に正しかった。

 場にいるのに、心がいない。

 同じ卓についているのに、皆が別々の不安の中に閉じこもっている。

 そんな状態から、人を“今ここ”へ戻す。

 Australian Sparkling Ale の力は、きっとそこにあった。

 醸は夜の灯りを見ながら、明日への仕込みを頭の中で組み始める。

 侯爵家は立ち直りつつある。

 だが王都の商会と貴族たちは、その回復をただ眺めてはいない。

 なら次は、回復した家がどう立つかだ。

 守るための酒か。

 見抜くための酒か。

 あるいは、人を繋ぐための酒か。

 泡立つ陽光の余韻が、まだ舌の奥に残っていた。

 沈黙の卓に笑みを戻した一杯は、きっとそれだけでは終わらない。

 はじける泡は消えても、その場に生まれた弾みは残る。

 そしてその弾みが、王都の次の一手を呼び込むことになる。

 夜の窓に映った自分の顔を見て、醸は小さく笑った。

「……さて」

 誰にともなく呟く。

「次は、王都の腹の中か」

 その声は静かだったが、もう迷いはなかった。

 侯爵家に戻った笑みと、

 卓に戻った言葉と、

 泡のように立ち上がった小さな活気。

 それらを無駄にしないためにも、ビール薬師は次の一杯を考え続ける。

 光を差すだけでは足りない。

 人は時に、弾みがあって初めて前へ進めるのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ