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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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27/103

第二十七話 凍てつく核、極寒に残る火 ―アイスボック―

Doppelbockが「圧を押し返す酒」として避難小屋の者たちを支えてから、グランエッジの蔵には目に見えて重みのある安心が戻っていた。


 もちろん、状況そのものが好転したわけではない。


 監視塔の向こうにいる連中の正体はまだ掴みきれていないし、北の岩稜道に漂う“空気の重さ”も、完全には消えていない。避難小屋の者たちは持ち直したが、あの土地に足を踏み入れると、今でも胸を圧すような感覚があるという。何かがそこにある。土地の歪みか、魔物の残した気配か、人為的な呪いか。答えはまだ遠い。


 それでも、Doppelbockは確かに人を立たせた。


 腹の底に踏む石を入れ、膝の折れた者へ「まだ終わっていない」と教えるような一杯。その実感は村の者たちの間にも広がり、レティシア率いる夜の探索隊には、ドゥンケル、Schwarzbier、そしてDoppelbockの役割分担が自然と根づき始めていた。


 戻るならドゥンケル。


 夜を裂くならSchwarzbier。


 重圧に踏み返すならDoppelbock。


 醸にとって、それは職人として嬉しいことだった。だが同時に、胸の片隅では別の感覚が育っていた。


 まだ足りない。


 Doppelbockは強い。だが、あの酒は“支える重さ”だ。押し返す質量ではあるが、言ってしまえばまだ「正攻法」の強さだった。麦の力をしっかり積み、厚く、深く、堂々と立たせる。


 けれどもし、相手の圧がさらに濃く、さらに深く、人の心の奥まで凍えさせるようなものだったら?


 もし、踏み返すだけでは足りず、極限まで凝縮した一点の力が必要になったら?


 その考えは、冬の朝のように静かに、だが確実に醸の頭へ入り込んでいた。


     


 その日、山は朝から白かった。


 春が近づいているとはいえ、高所ではまだ雪が残る。夜半に冷え込みが強まったらしく、蔵の外に並べた水桶の表面には薄い氷が張っていた。ミーナがそれを指でつついて割り、「わあ」とどうでもよさそうに喜んでいるのを見ながら、醸はふと立ち止まった。


 桶の水面に浮いた氷片。


 透明ではない。白く濁り、縁だけが薄く透けている。押しのけられた水はその下で、より濃く、より冷たく揺れていた。


 その瞬間、醸の中で何かがつながった。


「……そうか」


「何が?」


 ミーナが顔を上げる。


「凍らせればいい」


「えっ」


「いや、全部じゃない。水分だけを先に凍らせて、濃い部分を残すんだ」


「急に怖いこと言い出した」


「怖くない。たぶん理屈としては正しい」


「たぶん?」


「実際にやると、だいぶ癖のある酒になるけどな」


 ミーナは首をかしげたまま、氷片を掌に乗せる。


「それでどうなるの?」


「Doppelbockを、もっと凝縮できる」


「もっと!?」


「水が減れば、そのぶん味も香りも、アルコールも、全部濃くなる」


「それ、すごそうだけど危なくない?」


「危ない」


 醸は即答した。


「でも、必要な時にはすごく強い」


 そのやり取りを聞いていたレティシアが、薪束を抱えたまま眉を寄せた。


「また厄介な方向へ行く気?」


「厄介だけど、今必要な方向かもしれない」


「説明」


「Doppelbockは“重さで踏み返す酒”だった。でも、極限の状況だと、重さそのものを飲み込まれる可能性がある」


「……つまり?」


「もっと核が要る。分厚い壁じゃなくて、圧に穴を穿つ杭みたいな力だ」


「相変わらず喩えが酒臭い」


「酒の話だからな」


 レティシアは薪を下ろし、少し考えた。


「濃縮するってことは、効果も尖るんでしょ」


「たぶんな」


「雑に使えない」


「間違いなく」


「なら、必要かもしれない」


 彼女の声は真剣だった。


「北の岩稜道の奥、旧鉱脈のさらに先で、霧の濃い窪地が見つかった」


「また新しいのが出たな……」


「そこに入った見張りが二人、数刻で戻ってきた。怪我はない。でも、片方は震えが止まらず、もう片方は“寒い”しか言わない」


「寒さ?」


「外気じゃない。火のそばにいても抜けない寒さよ」


 醸は目を細めた。


 圧の次は、凍え。


 それもただの冷えではない。体温の問題というより、もっと芯を薄くしていくような、存在そのものを削る冷たさ。足場を作るDoppelbockでは耐えきれない局面が来ているのかもしれない。


「……やるしかないな」


 醸は、水桶の氷を見た。


「Doppelbockを凍らせて、核だけを残す」


「名前は?」


 ミーナが即座に訊く。


「Eisbock」


「今度はちょっとわかりやすい」


「そのまんまだからな」


「凍ったボック?」


「正確には、“凍らせて濃縮したボック”だ」


「そのまんまのわりにやることが怖い」


「否定できない」


     


 Eisbock。


 前世でも、ボック系の濃厚なビールをさらに凍結濃縮して造る、非常に個性の強いスタイルとして知られていた。氷を取り除くことで、水分より凍りにくいアルコールや香味成分が相対的に濃くなり、元の酒よりはるかに強烈な密度を持つ酒になる。


 つまりこれは、単なる“次のビール”ではない。


 Doppelbockの先。


 重さをさらに削り、凝縮し、一本の芯へ束ね直したもの。


 醸は蔵の奥で、最も出来の良いDoppelbockの樽を選んだ。色、香り、骨格、すべてが整った一本。これをそのまま凍らせ、慎重に氷を抜いていく。


「もったいない気がする」


 ミーナがぽつりと言う。


「わかる」


 醸も正直に頷いた。


「完成した酒に、さらに手を入れるのは勇気が要る」


「なのにやるんだ」


「必要だからな」


「職人って、本当に止まれないんだね」


「たまに自分でもそう思う」


 凍結のため、樽ごと外気へ晒すわけにはいかない。温度が読めないし、変な凍り方をすれば台無しだ。そこで醸は、山陰の冷気がよく集まる石室を使うことにした。冬場の保存食を保つための半地下倉だ。雪を詰め、冷気を逃がさず、内部の温度をできるだけ一定に保つ。


 樽から移したDoppelbockを、浅く広い金属槽へ注ぐ。


 冷気が触れやすいように。


 だが急激に壊れないように。


 表面に最初の薄氷が張った時、醸は思わず息を止めた。


「……来た」


「ほんとに凍るんだ」


 ミーナが感心した声を出す。


「全部じゃない。そこが大事だ」


「どう見分けるの?」


「氷の付き方と、残った液体の重み」


「職人の勘?」


「理屈と経験と勘だな」


「最後に勘が入るんだ」


「入る」


「急に信用が揺らぐ」


「やめろ」


 レティシアは冷えた石室で腕をさすりながら、じっと槽を見ていた。


「これ、見た目は地味ね」


「やってることはかなり派手だけどな」


「酒って、たまにそういうわけのわからないことするのね」


「人類は割と昔からそうだ」


「うちの村に来てから、酒への理解が“飲むもの”から“狂気の技術”に変わってきたわ」


「そこまで言う?」


「かなり本気」


 だが、その“狂気”じみた手間の先にしかないものがあると、醸は知っていた。


 表面の氷を少しずつ取り除く。


 残る液体を別容器へ移す。


 また冷やす。


 また氷を抜く。


 その繰り返し。


 単純作業に見えるが、どこで止めるかが命だ。濃くしすぎれば荒々しさだけが立ち、酒としての美しさが壊れる。弱ければ、ただのDoppelbockとの差が曖昧になる。


 必要なのは、凝縮された核。


 圧を押し返すだけでなく、極寒の奥に残る最後の火種みたいなもの。


     


 三度目の凍結を終えた頃には、元の量は明らかに減っていた。


 だが、残った液体の存在感は別物になっていた。


 色は、深い赤褐色というより、暗い琥珀に夜を溶かしたような濃さ。粘性がわずかに増し、注ぐとゆっくり脚を引く。香りはDoppelbockの延長線上にありながら、より濃密で、より鋭い。濃いパン、糖蜜、干した果実、焦がさないぎりぎりのカラメル、そして奥にアルコールの温かな芯。


「……すごい」


 ミーナがまたそれしか言えなくなる。


「今回は“すごい”で全部通じる気がする」


 醸も素直に認めた。


 レティシアは香りを嗅いだだけで眉を上げた。


「これ、飲む前から圧がある」


「そうだな」


「酒のくせに、近づくだけで“軽い気持ちで触るな”って顔してる」


「顔って言うな」


「いつも自分で言ってるじゃない」


 醸は小さな杯へ、ほんの少量だけ注いだ。


「量は少なく」


「わかってる」


「本当に少なく」


「わかってるって」


「これは冗談抜きで、ガブガブ飲む酒じゃない」


「さすがの私でもそれはわかる」


 ミーナがむっとする。


「前科があるからな」


「それはそれ、これはこれ」


 まず、醸が飲む。


 口当たりからして違った。Doppelbockのような“厚い”という感覚はある。だが、厚いだけでなく、密度が一点へ集まっている。味の層が濃いのに、ただ広がるのではなく、芯へ突き刺さるように入ってくる。


 喉を落ちる瞬間、熱がある。


 だが、それは外へ広がる熱ではない。


 腹の底、さらにその奥、心臓の下あたりへ、小さく白い火が灯るような感覚だった。


 静かな火。


 消えかけたものの、最後に残る核。


 周囲がどれだけ冷たくても、それだけは消えないと主張する一点。


「……なるほど」


 醸はゆっくり息を吐いた。


「どう?」


 レティシアが問う。


「Doppelbockが“踏む石”なら、これは“炉心”だ」


「また詩的」


「でもそうなんだよ」


 醸は杯を見た。


「重さで支えるだけじゃない。凍えの中でも、自分の中心を失わない感じがある」


「中心」


「そう。寒さや圧で外側を削られても、最後まで残る核だ」


 レティシアもごく少量を口にする。


 普段なら酒の感想を長く言わない彼女が、珍しく黙り込んだ。


「……これ、危険ね」


「悪い意味で?」


「違う。強すぎて、扱いを間違えると酒そのものに呑まれる」


「やっぱりそうか」


「でも、必要な場面では、たぶんこれ以上ない」


 彼女は目を細めた。


「寒さの中で、自分を見失わない」


 薬草師の老婆はさらに慎重だった。唇を湿らせる程度に試し、それでもしばらく目を閉じていた。


「濃いねえ……」


「濃い」


「でも、雑じゃない。芯だけ残ってる」


「そこを狙った」


「成功してるよ」


 老婆は頷く。


「こりゃ、“最後の一押し”じゃなくて“最後の灯り”だ」


 最後の灯り。


 その言葉に、醸は強く頷いた。


 まさしく、そうだ。


     


 ちょうどその日の夕刻、旧鉱脈の奥へ入っていた見張り二人が戻ってきた。


 前回の“寒いしか言えない”状態よりはましだが、まだ顔色は悪い。彼らは口を揃えて言った。


「窪地の奥、風がないんです」


「なのに寒い」


「寒いっていうか……骨の中が静かになる感じで」


「火を見ても、火に意味がなくなる」


 その表現に、場が凍る。


 火に意味がなくなる。


 それは、寒さとしては最悪の類だ。ただ体温を奪うだけではない。温まる、戻る、生き延びる――そうした感覚そのものが薄くなる。


「Eisbockを持っていく」


 醸は即座に言った。


「今夜のうちに?」


 レティシアが訊く。


「ああ。少量でいい。まず、窪地の入り口で試す」


「危険よ」


「わかってる。でも、今の話を聞いたら待てない」


「あなたは来ないで」


 きっぱりと言われ、醸は苦い顔になった。


「わかってる」


「顔がわかってない」


「気持ちは行ってる」


「気持ちも置いていきなさい」


 結局、今回も醸は蔵に残り、レティシアたちが少量のEisbockとドゥンケル、Schwarzbierを持って向かうことになった。使い方は細かく伝える。


「窪地へ入る前、Doppelbockじゃなくて?」


「今回はEisbockを最初に少量だ」


 醸は答えた。


「まず核を作る。そのあと、必要ならドゥンケルで支える」


「シュヴァルツは?」


「意識の輪郭が散りそうな時。でも、寒さに飲まれてる最中は先に核だ」


「……なるほど」


 レティシアは短く頷いた。


 ミーナは不安そうに小樽を見た。


「ほんとに少しで足りるの?」


「少しだからいいんだよ」


「濃すぎるから?」


「濃すぎるからだ」


 Eisbockは、これまでのどの酒とも違う。


 回復薬のように飲ませるものではない。


 支えの酒とも違う。


 これは極限で使う、芯の酒だ。


     


 夜は遅く、戻りはさらに遅かった。


 蔵で待つ醸は、何度も同じ場所を歩き回った。石床を踏む音が一定のリズムになって、自分でも落ち着かないのがわかる。樽の温度を見て、水を汲み、帳面を開き、閉じる。だが、頭の中では窪地のことばかりが膨らんでいた。


 極寒。


 火が意味を失う場所。


 それでも中心に残るものは何か。


 前世にも、たしかにあった。


 仕事で何もかもがうまくいかない時。


 疲れて、誰とも話さず、帰っても部屋は冷たくて、明日のことを考えるだけで心が薄くなる夜。


 ああいう時、人は大きな希望では立てない。


 もっと小さいものだ。


 湯気の立つ食事。


 灯りの下の静けさ。


 腹の底に確かに落ちる一口。


 “まだここにいる”と思い出せるもの。


 Eisbockは、そういう極小の、それでも消えない確かさを酒にしたかった。


 深夜近くになって、ようやく足音が戻る。


 戸が開いた瞬間、冷気と一緒にレティシアたちがなだれ込んできた。顔は疲れている。だが、前回の見張りたちのように虚ろではない。


「どうだった!」


 醸が思わず声を上げる。


 レティシアは肩で息をしながら、先に小さく笑った。


「……当たり」


「本当か」


「ええ。あの窪地、入った瞬間にわかる。寒いっていうより、“自分が薄くなる”感じ」


「……」


「でも、入る前にEisbockを少量飲むと、その薄くなり方が違う。消えそうなところに、芯が残る」


「芯が」


「完全に平気になるわけじゃない。でも、“戻る場所”を失わない」


 彼女はそこで一度息を整えた。


「Doppelbockが踏み返す石なら、Eisbockは、心の真ん中に刺す杭ね」


「杭」


「抜けないようにするための」


 同行した若者の一人も、興奮気味に言う。


「窪地の奥で、一回、頭の中が遠くなる感じがしたんです。でも、腹の奥が熱くて、そこから戻れた」


「熱い?」


「熱いっていうか……火花? うまく言えないけど」


「わかる」


 醸は強く頷いた。


「それでいい」


 さらに、彼らは奥で新しいものを見たという。


 窪地の中心近く、石の裂け目から薄い白い霧が絶えず上がっている。その周囲だけ、草が枯れずに灰色のまま立ち、獣も寄らない。自然のものとも、誰かが仕掛けたものとも断定できない奇妙な場所。


「たぶん、あそこが源だ」


 レティシアが言う。


「圧も寒さも、全部そこから広がってる気がする」


「……いよいよ核心だな」


「ええ。だから次は、酒だけじゃなく、踏み込む準備も要る」


 その言葉と同時に、醸の中に別の熱が生まれた。


 酒は答えをくれる。


 だが、酒だけで終わらない時が来る。


 それでも、踏み込むための酒があることは、確かな武器だった。


     


 翌朝、蔵には静かな達成感が満ちていた。


 大勝利でもない。


 問題が解決したわけでもない。


 だが、Eisbockは役目を果たした。


 極寒のような見えない侵食の中で、人の中心に最後の火を残す。Doppelbockが“立てる重さ”なら、Eisbockは“消えない核”だった。


 ミーナは樽を見上げて、しみじみ言った。


「なんか、すごいとこまで来たね」


「そうだな」


 醸は笑う。


「ラガーが回復薬だった頃から考えると、ずいぶん遠くまで来た」


「でも、ちゃんと繋がってる気もする」


「うん」


「最初からずっと、“人を立たせる酒”だったんだね」


 その言葉に、醸は少しだけ驚いた。


 たしかに、そうかもしれない。


 傷を塞ぐのも。


 魔力を戻すのも。


 疲れを飛ばすのも。


 夜を支えるのも。


 圧を押し返すのも。


 極寒の中で核を残すのも。


 全部、形は違うが、人を“立たせる”ための一杯だ。


「……お前、本当に時々すごいな」


「また“時々”って言った」


「そこはごめん」


「じゃあ許す」


 レティシアはそのやり取りを聞きながら、苦笑した。


「でも、次はもっと厳しいわよ」


「窪地の中心か」


「ええ。たぶん、あれを放っておくわけにはいかない」


「なら、酒ももっと要るな」


「まだ先を考えてるの?」


「考えるだろ、そりゃ」


 醸は樽に手を置いた。


「山が凍るなら、それに対抗する一杯を。山が狂うなら、それを正す一杯を」


「ほんと、止まらないわね」


「職人だからな」


「面倒」


「それ、最近みんなで言うようになってないか?」


「たぶんね」


 蔵に笑いがこぼれる。


 その笑いの奥で、Eisbockの深い色が静かに光っていた。凝縮された核。凍てつく中でも消えない火。危険で、強くて、だからこそ極限で頼れる酒。


 大麦 醸は、その黒にも赤にも見える液面を見つめながら、そっと杯を掲げる。


「極寒に、負けないために」


 誰に向けた言葉でもないその乾杯に、ミーナが真っ先に応じた。


「乾杯!」


 レティシアは呆れた顔をしながらも、最後には小さく杯を持ち上げる。


「……乾杯」


 火の前で揺れる液面は、まるで小さな炉そのもののようだった。


 凍てつく夜がいかに深くても、消えない火はある。


 そしてその火を、酒にできる。


 グランエッジのビール薬師は、また一つ極限の答えを手に入れた。


 だが物語は、ここで止まらない。


 圧の源。


 寒さの窪地。


 灰色の草と白い霧。


 その先には、さらに暗く、さらに古い何かが待っている。


 凝縮の極みに触れた次は、いよいよ“夜そのもの”と向き合う番なのかもしれなかった。


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