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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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13/19

第十三話 薄明の一杯、疲れをほどく風の酒 ―ジャーマン・ライヒトビア―

 白角狼を退けた夜から、村の空気は少し変わった。

 誰もが冬の気配を疑わなくなったのだ。

 朝になれば霜は前より厚く、沢の縁には薄氷が張るようになった。山道を吹き抜ける風は容赦なく、木々の葉は一日ごとに色を失っていく。畑の片付けは急がれ、薪小屋はいっぱいになりつつあり、家々の煙突から立つ煙も濃くなった。

 そして、あの夜の防備で活躍したヘレス・ボックは、村の男たちの間で恐ろしい勢いで評判になっていた。

「朝の見回り前に一口あると違う」

「斧の振りが鈍らん」

「冷えが骨まで来る前に押し返せる」

「少しだけ飲むと、身体がしゃんとする」

 おおむね、狙い通りの反応だった。

 だが、三日もすると別の声が聞こえ始める。

「……ちょっと頼りたくなりすぎるな」

「わかる」

「楽だから、つい飲みたくなる」

「強い酒ってのは、そこが怖い」

 醸はそれを聞いて、内心で静かに頷いていた。

 ヘレス・ボックは良い酒だ。

 この寒さの入口で、人の身体に火を戻す役には確かに向いている。だが、その“頼もしさ”ゆえに、毎日のようにそれへ寄りかかれば、今度は身体の感覚を鈍らせる。酒に支えられるべき時と、自分の足で立つべき時の境が曖昧になるのだ。

 特に、グランエッジのような小さな村では、その違いは重要だった。

 戦いの日もあれば、そうでない日もある。

 寒毒や魔獣への備えが必要な日もあれば、ただ地道に薪を割り、水を運び、屋根を直し、保存食を仕分けるだけの日もある。

 そういう“長い日常”まで強い酒で押し切ろうとすれば、どこかで無理が来る。

 だからこそ、次の一杯が必要だった。

 力の酒の次に来るのは、軽さの酒。

 だがそれは、弱い酒ではない。

 頑張りすぎた身体と心をほぐし、働く者が崩れずに次の日へ向かうための軽さだ。

 その考えが、醸の中ではすでにはっきり形を取り始めていた。

「また考えてる」

 酒蔵小屋の樽の上に座ったミーナが言った。

「職人はいつも考えてる」

「でも今のは“次の酒”の顔」

「顔でわかるのか?」

「うん。ちょっと遠く見てる」

「便利な観察眼だな」

「弟子ですから」

 最近そればかりだな、と醸は思ったが口には出さなかった。

 代わりに、樽に手を置いたまま言う。

「次は軽いのを作る」

「軽いの?」

「ジャーマン・ライヒトビア」

「……弱いビール?」

「弱い、だけじゃない」

 醸は振り向く。

「ヘレス・ボックみたいに“押し出す”酒じゃなくて、身体の力みを解いて、疲れを残しすぎない酒だ」

「疲れを取るなら、普通のラガーじゃだめなの?」

「だめじゃない。でも今ほしいのは、もっと日常向きだ」

「日常向き」

「毎日でも付き合える軽さ。だけど、水みたいに薄っぺらくはない」

「むずかしい」

「酒はだいたいそうだよ」

 そこへレティシアが入ってきて、二人の会話の最後だけ聞いたらしく、眉を上げた。

「毎日付き合える軽さ?」

「聞いてたのか」

「入ったら聞こえたの」

「で、どう思う」

「必要だと思うわ」

 彼女はあっさり言った。

「強い酒のあとって、人は自分でも気づかないうちに“力が入ったまま”になるもの」

「お前もそう感じたか」

「見張りをしてるとわかるのよ。皆、ちょっとだけ張りつめすぎてる」

「狼の件があったからな」

「それもある。でも、ヘレス・ボックが悪いわけじゃない」

「わかってる」

「ええ。必要だった。だから今度は、“ほどく酒”が要る」

 その言葉に、醸は小さく笑った。

「ほどく酒、か」

「変?」

「いや。いい言い方だ」

 確かに、その通りだった。

 冬の入口を前に、人はつい身体も心も硬くする。備えねば、守らねば、負けてはならない――その意識は大切だ。だが、常に張りつめたままでは長続きしない。弦は張りすぎれば切れる。だから、時々は緩めなくてはならない。

 ジャーマン・ライヒトビア。

 軽いラガー。

 けれどただ軽いだけではなく、疲れを次の日へ持ち越させないための一杯。

 それが、今の村に必要な“次”だった。

      

 ヘレス・ボックの時とは違い、今回の仕込みは量よりも繊細さが問われた。

 軽い酒は、ごまかしが効かない。

 濃い酒なら、麦芽の力やアルコールの厚みで多少の粗さを包み込める。だが軽い酒は違う。少しの雑味も目立ち、薄ければ物足りないだけになり、軽さと貧しさの差がそのまま出る。

 だからこそ、醸は神経を尖らせた。

 麦芽は量を抑える。

 だが削りすぎない。

 発酵は綺麗に。

 キレを出す。

 けれど痩せすぎない。

 飲んだ時に「負担がない」と感じさせながら、飲み終えた後にはちゃんと身体が整う感覚を残す。

 火加減を見ながら、醸は静かに呟いた。

「軽さってのは、手抜きじゃない」

「誰に言ってるの?」

 ミーナが首を傾げる。

「自分にだよ」

「忘れそうなの?」

「逆だ。簡単に見えるから、ちゃんと戒めてる」

「へえ」

「強い酒の方が、作ってる感はあるからな」

「じゃあ今回は地味?」

「地味に見えて、一番性格が出るかもしれない」

「ふーん……」

 ミーナは鍋の湯気を見ながら言う。

「じゃあ、これは“醸の素の顔”に近い酒?」

「お前、たまに妙に鋭いな」

「えへへ」

 実際、その指摘は当たっていた。

 前の世界でも、醸は華やかな限定品や度数の高い変わり種を任されることもあった。だが本当に好きだったのは、毎日の食卓に寄り添う、さりげないビールだった。最初の一口で驚かせるより、二口三口と飲むうちにじわじわ良さがわかる酒。派手ではなくとも、気づけばまた手が伸びる酒。

 そういう一杯には、作り手のごまかしが出やすい。

 そして逆に、誠実さも出る。

「今回の酒、なんだか前より静かだね」

 ミーナが言う。

「そうかもな」

「怒ってないし、燃えてもいない」

「落ち着いてるって言え」

「じゃあ落ち着いてる」

「うん、それでいい」

 酒蔵小屋の外では、村人たちが干し草を屋内へ運び込んでいる。子どもたちは寒さに負けず走り回っていたが、時々くしゃみをして大人に叱られていた。

 大きな戦いの後の村は、一見すると平穏だ。

 けれど本当は、その平穏を守るために、皆がずっと少しずつ疲れている。

 ならば、その疲れに寄り添う酒でなくてはならない。

      

 その日の午後、セレナが酒蔵小屋を訪ねてきた。

 白角狼の寒毒から立ち直った彼女は、まだ麓へは戻らず、村に二、三日留まって体調を整えていた。問屋の帳簿係というだけあって頭の回転は早く、村長の手伝いをして物資の整理や冬備えの記録までつけ始めている。村長などはすでに「ずっとうちにいてくれんかのう」と言い始めていた。

「お邪魔します」

「もう客って感じでもないな」

 醸が言うと、セレナは微笑んだ。

「お世話になってばかりでは落ち着きませんので」

「助かってるならいい」

「助かっています」

 彼女は仕込み鍋を見た。

「新しいお酒ですか?」

「ああ。今度は軽いのを作ってる」

「軽い……?」

「強い酒の次だからな」

「なるほど」

 彼女は少し考え込んでから、静かに頷いた。

「わかる気がします」

「何が?」

「村の皆さん、少しだけ頑張りすぎている顔をしています」

「やっぱりそう見えるか」

「ええ。安心したいのに、安心しきれない顔です」

「冬前だし、狼も出たからな」

「だからこそ、強いお酒だけでは続かない」

 セレナは醸を見る。

「心を起こす酒の次には、心を整える酒がいるんですね」

「……みんな同じようなこと言うな」

「それだけ、今の村に必要なのでしょう」

 醸はふっと笑った。

 必要、という言葉は重い。だが最近、自分の酒に対してその言葉を使われることに、以前ほど戸惑わなくなっていた。たまたま効いた、偶然うまくいった、ではもう済まないところまで来ているのだろう。

「帳簿係の目から見て、村の冬備えはどうだ?」

 醸が尋ねると、セレナは指先で顎をなぞった。

「食料は思ったよりあります。ただ、人手の余裕が少ないですね」

「余裕」

「ええ。誰かが少しでも体調を崩すと、他の人の負担が一気に増える形です」

「小さい村だからな」

「ですから、“皆が大崩れしないこと”の価値が大きい」

「……なるほど」

 それは酒造りにもそのまま通じる話だった。

 一人の英雄がいるより、十人が倒れない方が強い。

 一杯で大逆転するより、毎日少しずつ崩れない方が生き延びる。

 ジャーマン・ライヒトビアは、そういう酒であるべきだ。

      

 発酵は順調に進んだ。

 ヘレス・ボックの時のような、胸を押す力強い香りではない。もっと淡く、もっと静かだ。だが発酵槽に耳を近づけると、小さな泡の弾ける音がやけに綺麗に聞こえた。軽いからこそ、酵母の仕事がそのまま輪郭になる。

 醸は試験用に少量を汲み、何度も口に含んだ。

 若い。

 だが悪くない。

 すっと入る。

 喉を抜ける。

 そのまま終わるかと思えば、わずかに麦の柔らかさが残る。

 胃を押さない。

 頭を熱くしない。

 でも、呼吸が深くなる。

 あと少し。

 ほんの少しだけ整えば、狙い通りになる。

 そう思った矢先、酒蔵の戸が勢いよく開いた。

「醸!」

 飛び込んできたのはガランだった。

「どうした」

「いや、大したことじゃねえんだが」

「その前置きで大したことじゃなかった試しがない」

「薪小屋の梁を持ち上げたら、若いのが一人、腰やった」

「大したことあるじゃねえか」

「いや、動けなくはない。だが、妙に力が抜けるってよ」

「冷えか、疲労の蓄積か……」

 レティシアもすぐ後ろから入ってくる。

「見てきたけど、骨はやってない。でも完全に疲れが溜まってる」

「ヘレス・ボックは?」

「飲ませるほどじゃない気がするのよ」

「わかる」

 醸は頷いた。

「押し上げるより、ほどいた方がいいやつだな」

 ガランが腕を組んだ。

「で? ちょうどそういう酒、あるのか?」

「まだ完成前だ」

「最近それ多いな」

「この村、酒の完成を待って怪我してくれないからな」

「もっともだ!」

 笑い事ではないのだが、ガランはこういう時に妙に明るい。

 醸は少し考え、試験用の小樽を持ち上げた。

「ごく少量だ。これで様子を見る」

「未完成なんだろ?」

「今回のは強い酒じゃない。暴れる危険は少ないはずだ」

「はず、か」

「酒造りに絶対はない」

「お前、そういう時だけ正直だな」

「いつも正直だよ」

 小樽を持って広場へ出ると、件の若者が薪小屋の脇に座り込んでいた。顔色は悪くない。だが、腰を押さえ、肩で息をしている。重傷ではないが、このまま無理をすれば明日以降に響く類いの疲れだった。

「飲めるか?」

 醸が訊く。

「……はい」

「少しだけだぞ」

 木杯に注いだライヒトビアは、見た目からして軽やかだった。明るい淡金色。泡も控えめで、香りは穏やか。派手な印象はない。だが鼻を近づけると、薄い草のような清さと、ほんのりしたパンの香りがある。

 若者は半信半疑で口をつけた。

「……あ」

「どうだ」

「軽いです」

「見ればわかる感想だな」

 ガランが言う。

「いや、でも……」

 若者は目を瞬かせた。

「軽いのに、身体が抜ける感じがします」

「抜ける?」

 レティシアがしゃがみ込む。

「痛みが消えるの?」

「消えるっていうより……ううん、固まってたのがほどける、みたいな」

「立てるか?」

「やってみます」

 若者はゆっくり立ち上がった。

 一歩。

 二歩。

 まだ無理は禁物だが、さっきまでの顔より明らかに呼吸が楽になっている。

「おお……」

 ガランが感心したように顎をさする。

「こりゃすげえな。強くするんじゃなくて、余計な力を抜く酒か」

「そんな感じだ」

 醸は答えた。

「疲れてる時って、身体が勝手に力んで、余計に疲れることがあるだろ」

「あるな」

「それをほどいて、戻しやすくする」

「地味だがありがてえ」

「今の村には、その地味さが要る」

 若者は何度も頭を下げたが、醸はすぐ座らせて、それ以上は飲ませなかった。

 まだ完成前だ。

 だが、方向は見えた。

 この酒は“劇的な奇跡”ではない。

 その代わり、人が静かに立ち直るのを手伝う。

 冬の長さを思えば、その価値は決して小さくない。

      

 完成したジャーマン・ライヒトビアが樽に収まったのは、その二日後だった。

 朝の空は薄曇りで、山の稜線は白く霞んでいる。雪になるかもしれない、と村の誰かが言った。村人たちはすでに冬支度の手を止めないまま、酒蔵小屋の前へ集まってくる。

 最近では、新しい一杯ができるたびにこうして皆が顔を出すのが半ば習慣になっていた。

「今日は軽い酒なんだって?」

「軽いってことは、あんまり効かねえのか?」

「いや、あいつの酒だから、何かあるだろ」

「何かある前提になってるの、怖いわね」

 レティシアがぼそりと言う。

「事実だから仕方ない」

 醸は栓に手をかけた。

 樽が開く。

 立ち上る香りは、やはり静かだった。

 ヘレス・ボックのような力強い厚みはない。

 フェストビアのような祝祭の膨らみもない。

 だが、澄んでいる。

 冬の朝の空気をそのまま和らげたような、透明で柔らかい香りだった。

 注がれた酒は淡い金色。

 陽が当たれば、ほとんど薄明かりのように見える。

「綺麗……」

 ミーナがまた同じことを言った。

「お前、毎回それ言うな」

「だって毎回そうなんだもん」

 最初の一杯を受け取ったのは、昨日腰を痛めた若者だった。

「お前がいい」

 醸が言う。

「昨日の続きだ」

「はい」

 若者は少し緊張しながら飲んだ。

 一口。

 二口。

 それから、ふっと肩を下ろす。

「……ああ」

「どうだ」

「すごく、楽です」

「強くなる感じは?」

 ガランが訊く。

「それはないです」

「ないのか」

「でも、今日の朝からずっと残ってた重さが……後ろに流れていく感じがします」

「後ろに流れる?」

「うまく言えないですけど、疲れが身体の真ん中に居座らなくなる感じです」

 次にレティシアが飲んだ。

 彼女は味を見るようにゆっくり舌の上で転がし、それから目を細める。

「……いいわね、これ」

「珍しく素直だな」

「ほんとに良いんだから仕方ないでしょ」

 彼女は杯を見下ろす。

「強い酒のあとにこれを出す意味、すごくわかる。ずっと戦闘態勢のままの身体が、一度ちゃんと人間に戻る感じ」

「人間に戻る、か」

「ええ。守るための力は残しつつ、余計な緊張だけ落ちる」

「かなり狙い通りだな」

 ミーナも少しだけ飲み、きょとんとした顔になった。

「眠くなるわけじゃないのに、落ち着く」

「そういう酒だ」

「不思議」

「魔力はどうだ?」

「暴れない。すごく静か」

 彼女は両手を見つめる。

「こないだのヘレス・ボックで“火をつける”感じだったなら、これは“火の周りを整える”感じ」

「比喩がうまくなったな」

「弟子ですから」

「そればっかりだな」

 笑いが起きた。

 やがて村人たちにも酒が回る。

 薪割りを終えた男が飲む。

 保存食の仕分けを終えた女が飲む。

 見張りを交代した若者が飲む。

 みな最初は「軽いな」と言い、次に「でも悪くない」と言い、最後には「これ、疲れてる時にちょうどいい」と口をそろえた。

 その変化は派手ではない。

 誰かが歓声を上げるわけでも、傷が一瞬で閉じるわけでもない。

 だが、飲んだ者たちの呼吸が深くなり、眉間のしわがほどけ、肩が自然に落ちていくのを見れば、この酒の役目は明らかだった。

 長い冬に入る前、人はまず“抜くこと”を覚えなくてはならないのだ。

      

 その日の夕方、酒蔵小屋の前に意外な客が現れた。

 ベルノだった。

 相変わらず質の良い外套をまとい、今度は護衛を連れていない。たった一人で村へ入ってきた彼を見て、レティシアはあからさまに警戒したが、男は両手を見せて害意のなさを示した。

「今日は商談ではありません」

「前も似たようなこと言ってたな」

 醸が答える。

「覚えていただけて光栄です」

 気に入らない物言いだが、今回は確かに雰囲気が少し違った。視線は相変わらず鋭いものの、前回のような“値踏み”ばかりではない。何かを確認しに来た目だ。

「何しに来た」

 レティシアが単刀直入に言う。

「様子を見に」

「何の」

「村と、酒の」

 ベルノは広場を見回した。

 薪を積む者。

 洗濯物を取り込む者。

 子どもを叱る母親。

 そして新しい軽い酒を手にして、肩の力を抜いている村人たち。

「なるほど」

 彼は小さく呟く。

「今度は軽さですか」

「よくわかったな」

「顔を見ればわかります」

「お前もそれ言うのか」

 醸は少しうんざりして言った。

 ベルノは珍しく、ほんの少しだけ楽しそうに笑った。

「前回は、祭りを支える酒。次は冬の入口で人を押し出す酒。そして今度は……張りつめた村をほどく酒」

「……」

「面白い」

「商品を並べてるわけじゃない」

「わかっています」

 ベルノは静かに言う。

「だから面白いのです」

 醸は眉をひそめた。

「どういう意味だ」

「普通の商人なら、“一番効く酒”を増やせと言うでしょう。傷を一瞬で塞ぐ酒、寒さを退ける酒、魔力を満たす酒。売れるからです」

「だろうな」

「ですがあなたは、村の呼吸に合わせて酒を変えている」

「必要だからだ」

「ええ。そして、そういう作り方をする人間は厄介です」

 褒めているのか警戒しているのか、わからない。

「厄介?」

「値段だけでは動かない」

 ベルノはまっすぐ醸を見る。

「こちらの思う通りに増産もしない。だが、その分だけ本物です」

「商人らしい評価だな」

「商人ですから」

 レティシアの手はまだ剣の近くにあったが、ベルノはそれ以上踏み込まず、一礼した。

「今日は確認に来ただけです」

「何を」

「あなたの酒が偶然ではないことを」

「それで?」

「確信しました」

 それだけ言うと、彼は本当にそれ以上何もせず帰っていった。

 見送ったあと、ミーナが小声で言う。

「なんか、やっぱり嫌な人」

「同感」

 レティシアが即答した。

「でも前より変だった」

「変?」

「変に本気になった感じ」

「それはそれで困るな」

 醸は頭を掻いた。

 だが、同時に理解もしていた。

 ベルノが見たものは、おそらく間違っていない。

 自分の酒は偶然の奇跡ではない。

 この村の暮らしに根を下ろし始めている。

 それは誇らしいことだ。

 そして同時に、外から見ればますます価値の高いものに映るだろう。

 冬が深まる前に、備えるべきものは酒だけではなさそうだった。

      

 夜。

 村の仕事がひと段落し、空に細い月が上る頃、醸は酒蔵小屋の前で一人、完成したライヒトビアを飲んでいた。

 軽い。

 だが、空虚ではない。

 一日の終わりに飲んでも重くならず、身体の内側に残った余計な力みだけをそっと持っていく。派手な勝利の味ではなく、明日もまた働けるという静かな手応えの味だ。

「一人で飲んでる」

 後ろからレティシアが来た。

「珍しいわね」

「試飲だよ」

「言い訳が雑」

 彼女は隣に立つ。

「で、どう?」

「いい酒になった」

「ええ、そうね」

「強い酒の次に軽い酒を出すの、最初は地味すぎるかと思った」

「でも違った」

「ああ」

 醸は杯を見下ろす。

「たぶん、こういうのがないと続かない」

「村も、人も?」

「どっちもだ」

 レティシアは少しだけ黙ってから、自分の分を受け取った。

 ひと口飲み、静かに息を吐く。

「……なんだか、安心する」

「戦う酒じゃないからな」

「そうね。でも、だからこそ必要なんだと思う」

「お前まで同じこと言うのか」

「皆そう思ってるんでしょ」

「らしいな」

 遠くで犬が吠え、家々の明かりが一つ、また一つと消えていく。

 村は眠りへ向かっている。

 その眠りが、今夜は少しだけ深く、やさしいものであるようにと、醸は思った。

 ヘレス・ボックが冬の入口に立つための酒なら、ライヒトビアはそのあとで膝を折らないための酒だ。

 火をつけるだけでは、人は持たない。

 張るだけでも、守れない。

 ほどくこと。

 緩めること。

 軽くすること。

 それもまた、生き延びるための技術なのだ。

「次はどうするの?」

 レティシアが訊く。

「まだ考え中だ」

「珍しい」

「今回は答えが静かすぎてな。次は、もう少し遠くを見る酒になるかもしれない」

「遠く?」

「冬が深くなった時のことだよ」

 そう言いながら、醸の脳裏にはすでに次の輪郭がかすかに浮かび始めていた。

 軽さの次に要るもの。

 ただ日常へ戻すだけでなく、長く続く冬の中で、なお心を明るく保つための何か。

 外は寒く、閉ざされ、時には単調になる。

 そんな季節に、人の気分まで沈ませない酒がいる。

 それはたぶん、ただ軽いだけでは足りない。

 しかし重すぎてもいけない。

 日々の食卓にも寄り添いながら、少しだけ光を差し込むような一杯。

 醸は月を見上げた。

 異世界の冬は厳しい。

 だが、その厳しさに対して酒で答える術を、自分は少しずつ覚えてきた。

 一杯ごとに。

 一樽ごとに。

 村の呼吸に合わせながら。

 薄明のような淡い金色の酒は、杯の中で静かに揺れた。

 強さのあとに来る軽さ。

 それは後退ではなく、次へ進むための調律だった。

 そしてグランエッジの人々は、その調律を受けながら、近づく本当の冬へ少しずつ備えていく。

 静かに。

 しかし、確かに。


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