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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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12/18

第十二話 山霊の吐息、金色の角杯に宿る力 ―ヘレス・ボック―

収穫祭の熱が完全に引くまで、村には三日かかった。

 祭りそのものは一日で終わったはずなのに、広場には翌日も笑い声が残り、焚き火の匂いは夕方になっても消えず、樽を洗う水の音が酒蔵小屋の裏で長く響いていた。祭りで使った卓を片付け、余った食材を分け合い、酔いの抜けた兵士たちが妙に働き者になって薪を割り、行商人たちが「ついでだから」と言いながら荷車の車輪を直していく。

 フェストビアが支えたあの一日は、確かに村の何かを変えていた。

 誰もが口にするわけではない。だが、村人たちの表情の奥に、「自分たちはただ生き延びているだけではない」という小さな自信が芽吹いていた。山間の小村グランエッジは、ただの寒村ではない。自分たちには、自分たちだけの祭りがあり、守るべき酒があり、他所から人を呼ぶ力すらあるのだと。

 その変化は嬉しかった。

 しかし同時に、醸の胸には新しい種類の緊張が宿っていた。

 酒蔵小屋の中で樽を点検しながら、彼は無意識に入口の方へ視線を向ける。

「また見てる」

 棚の上に腰かけたミーナが言った。

「何をだ」

「外。誰か来るかもって顔」

「……そんなにわかりやすいか」

「うん。すごく」

 祭りのあとも、麓の商人ベルノは村に一泊していった。結局その日は露骨な商談を持ちかけてはこなかったが、帰る前に、丁寧な笑みのままこう言い残している。

『良い酒は、人を集めます。人が集まるところには、必ず大きな流れが生まれる。あなたがそれを望むかどうかに関係なく』

 脅しとも忠告ともつかない言葉だった。

 醸はその言葉をまだ胸の奥に引っかけたままだった。あの男がまた来るかもしれない。もっと大きな商人を連れて来るかもしれない。あるいは、別の誰かが嗅ぎつけるかもしれない。

 だが、目の前にはもっと切実な問題もあった。

 山の気温が急に落ち始めたのだ。

 秋が深まるにつれ、朝晩の冷え込みは日に日に厳しくなっていた。沢の水は祭りの頃より明らかに鋭く、夜明け前には草葉に白い霜が見え始めている。村人たちは冬支度を急ぎ、薪を積み、家畜小屋の隙間を埋め、保存食の量を数え直していた。

 そして、冷え込みとともに増え始めたものがある。

 山の上での転倒。

 手足のしびれ。

 急な息苦しさ。

 寒さで身体の動きが鈍ることによる怪我。

 さらには、魔力の流れが冷気で乱れたのか、ミーナのように魔術を使う者が「胸の中が冷えるようで、うまく力が回らない」と言い出すことまであった。

「寒さに強い酒、って作れないの?」

 その日の夕方、薪運びを終えたミーナが手をこすりながら言った。

「前に寒い時に効くやつ、なかったっけ?」

「完全に寒さを凌ぐ方向の酒なら、もっと濃くて重いスタイルが向いてるかもしれない」

「じゃあそれ作る?」

「まだ早い」

「なんで?」

「今の村に必要なのは、“冬そのものに籠もる酒”じゃない」

 醸は考えながら言った。

「その一歩手前だ。寒くなってきた山で、外に出て働く者の身体を支え、冷えに負けない芯を作る酒」

「むずかしい言い方」

「要するに、元気のいい強いラガーだ」

「それならわかる!」

 ミーナは勢いよく頷いたが、隣でレティシアが腕を組む。

「元気がいいだけじゃ困るわよ。強い酒は、扱いを間違えると酔わせるだけになる」

「だから設計するんだよ」

「設計」

「ただ度数を上げりゃいいってもんじゃない。重さ、甘み、飲み口、温まり方……全部の釣り合いを取る」

 レティシアは少し目を細め、醸を見つめた。

「もう、頭の中ではできてる顔ね」

「まあな」

「で、何を作るの?」

「ヘレス・ボック」

「……前のヘレスと似てるの?」

「似てるけど別物だ。あれが“祝福の明るさ”なら、こっちは“力のある明るさ”だ」

「詩人みたいな言い方しないで」

「職人だよ」

「そういうところよ」

 だが、その夜から醸の頭の中は完全に新しい一杯へ切り替わっていった。

 祭りを支えるフェストビアの次に来るべき酒。

 厳しくなる山の冷気に対抗しつつ、闇に沈まない明るさを持つ酒。

 村の人間が冬へ踏み込む前に、一度、身体の芯へ“力”を覚えさせる酒。

 ヘレス・ボック。

 金色のまま、強くなる。

 それが今のグランエッジには必要だと、醸は直感していた。

      

 仕込みは祭り酒の時よりさらに慎重だった。

 ヘレス・ボックは、見た目だけなら前のミュンヘン・ヘレスとそう大きく違わない。明るい色合い、ラガーらしい清らかさ、麦芽の丸み。だがその内側には、より高い密度の力が必要になる。薄いまま強くしても、ただ荒い酒になる。重すぎれば鈍い。甘すぎればくどい。苦みが浮いても駄目だ。

 しかも、ここは異世界だ。

 神麦の持つ不思議な力は、単純な“度数”以上の意味を生む。麦の旨味がそのまま生命力や身体強化へつながり、発酵の深さが血や魔力の巡りに影響する。現実世界で学んだ理屈を土台にしつつも、この世界では「どう効くか」という結果まで見据えて組まねばならない。

 醸は酒蔵小屋の机に羊皮紙を広げ、何度も配合を書き直した。

 基本は神麦。

 そこへ、祭りの時よりも少し濃いめに麦芽を重ねる。

 香りは明るく保ちたいから、焙煎香に寄せすぎない。

 だが芯は太くしたい。

 発酵は深く、しかし清潔に。

 飲んだ瞬間の明るさと、飲み下した後に下腹へ灯るような温もり――その両立。

「字が怖い」

 横から覗き込んだミーナが言った。

「真剣だからな」

「なんか敵を倒す作戦みたい」

「似たようなもんだよ。相手が寒さなだけで」

「じゃあこの線は?」

「麦芽の量」

「この丸は?」

「発酵温度」

「このぐしゃぐしゃは?」

「悩み」

「わかった!」

 役に立っているのか立っていないのかわからない相槌だった。

 翌朝、醸は村の外れへ向かった。山肌に近い畑の脇で、祭り後の片付けを終えた老人たちが火を焚いている。彼らは冬前の空気を読むのがうまく、醸は時々、酒の効き方の相談相手にもしていた。

「寒さは、今年どうなると思う?」

 醸が尋ねると、古老の一人が空を見た。

「早いな」

「やっぱりか」

「雪も深くなるだろう。しかも、乾いた寒さじゃない。山霊の息みたいな湿り気を帯びた冷えだ」

「山霊の息?」

「骨に入る寒さってことだ」

「嫌な言い方だな」

「だがそういう年はある」

 骨に入る寒さ。

 その表現は、醸の中で妙にはっきり残った。表面を温めるだけでは足りない。皮膚ではなく、身体の奥、関節と筋、血の巡りそのものに働く酒が要る。

「今年の冬は、山が試してくるぞ」

 老人は言った。

「村が祭りで浮かれすぎていないか、見に来る」

「なら、こっちも負けないものを出すさ」

「ほう」

「ただ耐えるだけじゃない。胸を張って越えられる酒をな」

 老人は目を細め、面白そうに笑った。

「それができるなら、お前はもうただの余所者じゃない」

「今さらか?」

「今さらだ」

 酒蔵へ戻る道すがら、醸は空気の冷たさを肺に吸い込んだ。山霊の息。なるほど、その通りだ。冷たいのに、ただ鋭いだけではない。じわじわと内側へ入り込んでくるような圧がある。

 ならばヘレス・ボックは、それに対する返答でなければならない。

      

 発酵が進み始めた頃、異変は思わぬ形でやってきた。

 夕方、村の見張り台から鐘が鳴ったのだ。

 敵襲ではない。だが、注意を促す短い連打。村人が広場へ顔を出すと、山道の方から二頭立ての荷車が現れていた。荷車には分厚い毛布が掛けられ、その周囲を四人の護衛が囲んでいる。どれも装備の整った者たちで、旅慣れた傭兵のように見えた。

「また商人?」

 ミーナが不安そうに言う。

「いや……」

 レティシアが目を細める。

「護衛の動きが変。荷を守ってるんじゃない。“中の何か”を逃がさない動きよ」

 荷車が広場へ入ると、護衛の一人が叫んだ。

「ビール薬師はいるか!」

「俺だ」

 醸が前へ出る。

「何があった」

「麓の街道で、山魔獣に襲われた」

 男は荒い息のまま言った。

「傷は浅い。だが、寒毒を食らった」

 荷車の毛布がめくられる。

 中には若い女が横たわっていた。旅装束は裂け、腕や肩に浅い爪痕がある。外傷そのものは致命的ではない。だが顔色が異様に悪い。青ざめているというより、血の気が引いたその奥で、皮膚の下に氷が張ったような白さだった。

「寒毒……?」

 醸が眉をひそめる。

「冬前の高地に出る“白角狼”だ」

 護衛が言う。

「噛まれたり深く裂かれたりしなくても、爪に触れた冷気で内側をやられる。身体が凍るみたいに動かなくなっていく」

「治療師は?」

「試した。温める薬湯も、火の魔術も、回復薬もだ。傷は塞がっても、芯の冷えが抜けない」

「それで俺のところへ?」

「麓で聞いた。祭り酒を作るビール薬師がいると。兵士を治し、村を支える酒を出す男だと」

 噂がまた一つ、面倒な形で返ってきた。

 だが、躊躇している暇はない。女の呼吸は浅く、指先は固まったように冷たい。普通のラガーでは表層の疲れや傷の回復には効いても、この“骨の中の冷え”には届ききらないかもしれない。エールでも違う。必要なのは、もっと深く身体を押し上げる力だ。

 醸は一瞬だけ樽の列を見た。

 まだヘレス・ボックは完成していない。

 発酵と熟成の途中だ。

 だが、試験用に汲み出した若い酒が少量だけある。

「醸」

 レティシアが低く言う。

「まさか、未完成のを?」

「完成品じゃない」

「危険よ」

「わかってる」

「でも」

「今使える可能性があるのは、これしかない」

 ミーナが不安そうに醸を見上げる。

「大丈夫?」

「大丈夫かどうかは、飲ませてみないとわからない」

「それ、大丈夫じゃない時の言い方」

「そうだな」

 醸は自嘲気味に笑った。

 職人としては、未完成の酒を薬として出すのは本来したくない。味も、働きも、まだ安定しきっていない可能性がある。だが、目の前で冷えていく命を見て、完成を待つことなどできるはずがなかった。

「小樽を持ってこい」

 醸はミーナに言った。

「一番奥、印のついたやつだ」

「うん!」

 樽が運ばれ、栓が抜かれる。

 立ち上る香りは、若いながらもはっきりしていた。明るい麦芽の甘やかさ。その奥に、まだ完全には馴染みきっていないが、確かに太い芯がある。ヘレスの軽やかな祝福ではない。フェストビアの祭りの高揚とも違う。もっと集中した力。金色の液体の中に、小さな炎が折り重なっているような気配だった。

 醸は木杯に少量を注ぎ、まず自分で口に含む。

 若い。

 だが、悪くない。

 舌に残る密度があり、喉を落ちた瞬間、胸から腹へ温もりが広がる。ただの熱ではない。血が押し出されるような、巡りが目を覚ますような感覚だ。

「……いける」

「本当に?」

 レティシアが問う。

「賭ける価値はある」

 女の頭をそっと起こし、醸は木杯を口元へ運んだ。

「聞こえるか」

 声をかける。

「少しでいい。飲め」

 女は薄く目を開け、かすかな反応を見せる。護衛たちが息を呑む中、彼女はほんの一口だけ酒を飲んだ。

 数秒。

 何も起こらない。

 だが次の瞬間、女の喉が大きく震えた。凍っていたような呼吸が、一度、深く肺へ落ちる。指先にわずかな赤みが差し、肩のこわばりが少しだけ緩んだ。

「もう一口」

 醸は慎重に言う。

 今度は女の方から杯へ口を寄せた。二口、三口。頬へ、じわじわと血色が戻る。爪痕の痛みよりも何よりも、身体の奥に沈んでいた冷えが押し出されていくように、彼女は小さく呻いた。

「熱い……」

 初めてはっきりした声が漏れる。

「胸の中が……熱い……」

 護衛の一人が思わず膝をついた。

「助かるのか……?」

「まだ断言はできない」

 醸は答える。

「でも戻り始めてる。毛布を増やせ。火を近づけすぎるな。外から急に温めるより、内側の巡りを保たせろ」

「わ、わかった!」

 レティシアがすぐに指示を飛ばし、村人たちも動く。ミーナは両手をかざし、柔らかな風の魔術で周囲の冷気を追い払った。

 やがて女は、震えながらも自分の力で上体を起こした。

 その瞬間、広場に張りつめていた空気が一斉にほどける。

「すごい……」

 ミーナが呟く。

「これが、ヘレス・ボック?」

「まだ完成前だけどな」

 醸は深く息を吐いた。

「たぶん、方向は間違ってなかった」

 山霊の息のような冷えに対し、金色の強い酒は確かに応えた。

 温めるのではない。

 芯に火を戻す。

 凍えた身体の内側へ、「生きろ」と命じるような力を通す。

 それがこの酒の役目なのだと、醸ははっきり理解した。

      

 女の名はセレナといった。

 麓の町で薬種問屋の帳簿を管理しているらしく、今回の旅も山向こうの村との取引帰りだったという。白角狼の群れが例年より早く下りてきていることには気づいていたが、寒毒を帯びた個体が出る時期まではまだ早いと思っていたらしい。

「冬が早いのか……」

 話を聞いた村長が渋い顔で言う。

「それとも山がおかしいのか」

「どちらにせよ、備えを急ぐべきね」

 レティシアが答えた。

 セレナはその夜、村の空き家で休むことになった。完全回復ではないが、夕方には温かい粥を食べられるまでに戻っていた。眠る前、彼女は醸に深く頭を下げる。

「命を助けていただきました」

「酒が合っただけだ」

「それでも、です」

 彼女は真っ直ぐに醸を見た。

「あなたの酒は、ただの秘薬ではありませんね」

「……どういう意味だ」

「傷を治す、疲れを癒やす、魔力を戻す。そういう話は麓でも聞いていました。でも実際に感じたのは、もっと別のものです」

「別のもの?」

「場に応じて、人が生きるための形を選んでいる。そんな酒でした」

 その言葉に、醸は少しだけ目を見開いた。

 祭りを支えたフェストビア。

 鍛冶屋を助けた黒ラガー。

 兵士たちを救った琥珀のラガー。

 そして今、寒毒に抗うヘレス・ボック。

 確かに自分は、いつも“何を作れるか”だけでなく、“誰に今何が必要か”を考えて酒を造ってきた。だが、それをこんな風に言葉にされたのは初めてだった。

「あなたは、季節ごとに薬を変える薬師というより」

 セレナは続ける。

「生き方に合わせて酒を醸す人ですね」

「大げさだ」

「でも、本当です」

 彼女は柔らかく微笑んだ。

 その笑みは、商人ベルノの笑みとはまるで違っていた。値踏みも打算もなく、ただ純粋に見たものを認める目だった。

 その夜、醸は久しぶりに長く眠れなかった。

 酒蔵小屋の前に立ち、星の多い山の空を見上げる。冷気はすでに深く、吐く息は白い。遠くで獣の鳴き声がした。冬は間違いなく近い。

 だが、不思議と恐れだけではなかった。

 山が試してくるなら、応えればいい。

 寒さが骨まで来るなら、骨まで届く酒を造ればいい。

 この世界でビールが薬になるのなら、その意味を自分はもっと先まで広げられるかもしれない。

「また外にいる」

 後ろからレティシアの声がした。

「見回りか?」

「半分はそれ。半分は、あんたが風邪ひかないように」

「ありがたいな」

「で、どうなの」

「何が」

「今の酒。完成に近づいた?」

「近づいたどころか、役目が見えた」

「へえ」

「これはたぶん、冬の入口を越える酒だ」

「入口?」

「本格的に閉じこもる前に、人間の身体に“まだ戦える”って思い出させる」

「なるほどね」

 レティシアは腕を組み、夜空を見た。

「じゃあ早く仕上げなさい。冬は待ってくれない」

「言われなくても」

「あと」

「なんだ」

「今回みたいに、未完成の酒を自分で毒見するの、やめなさい」

「毒じゃない」

「そういう話じゃないのよ」

「……心配したか?」

「したわよ」

 その言い方が思ったよりまっすぐで、醸は少し黙った。

 レティシアはそれ以上何も言わず、ただ酒蔵小屋の扉に手を置く。

「でも、効いたなら良かった」

「……ああ」

「本当に、あんたの酒は変なところまで届くわね」

「褒め言葉として受け取っておく」

「好きにしなさい」

 彼女は小さく笑った。

 その笑みを見て、醸は胸の中の硬さが少しだけ解けるのを感じた。外から来る流れも、冬の脅威も、簡単ではない。だが、今の自分は一人で酒を造っているわけではない。

 見てくれる者がいて、支える者がいて、叱ってくれる者がいる。

 それだけで、人はずいぶん強くなれる。

      

 ヘレス・ボックが完成したのは、その四日後だった。

 朝から空気は張りつめ、山の上には薄い雪雲が見えていた。村人たちが広場へ集まり、今回ばかりは祭りほどではないにせよ、皆どこか期待した顔をしている。寒さが増し、白角狼の噂も広がり始めた今、村には“次の一杯”が必要だと誰もが感じていたのだ。

 醸は完成した樽の前に立ち、静かに栓を抜いた。

 ふわりと立つ香りは、明るかった。

 だがヘレスのような軽やかさではない。熟した麦の厚み、蜜を思わせる丸い気配、そして喉の奥へ続くような力強い芯。色合いもまた美しい。金色ではあるが、祭り酒より一段深く、夕陽を溶かしたような濃さがある。

「綺麗……」

 ミーナが目を丸くする。

「なんか、強そうなのに明るい」

「そういう酒だからな」

「飲む前からわかるもんなんだ」

「わかる時はな」

 最初の一杯は、例によって村長へ渡された。

 老人は慎重に香りを嗅ぎ、ひと口飲む。そして、ゆっくり目を閉じた。

「……これは、いい」

「どんな感じ?」

 ミーナが身を乗り出す。

「寒い朝に、分厚い上着を羽織るのとは違う」

「うん?」

「腹の中に、若い火を一つ入れられた感じだ」

 その表現に、醸は思わず笑った。まさに狙っていたところだ。

 続いて村人たちが飲む。薪割りの男たち、家畜の世話をしていた女たち、見回りを終えた若者たち。誰もが飲み終えたあと、まず肩の力を抜き、それから目の奥に力を灯した。

「手が動く」

「さっきまで冷えてたのに」

「身体の芯が重くならない」

「これ、外仕事の前にいいぞ」

「酔うっていうより、身体が起きるな」

 反応は上々だった。

 さらに、まだ完全に本調子ではなかったセレナにも少量を飲んでもらう。彼女は杯を包むように持ち、慎重に口をつけたあと、ほっと息をついた。

「今度は、前よりずっと整ってます」

「完成版だからな」

「胸の熱が暴れない。ちゃんと全身に広がる」

「なら成功だ」

 護衛たちも安堵した顔を見せた。

 その時だった。

 見張り台の方から、慌てた声が飛んでくる。

「山道に狼影! 三、いや五!」

 広場がざわつく。レティシアが剣へ手をかけ、兵士経験のある巡回兵たちも反射的に動いた。白角狼。噂になっていた連中が、こんなに早く村の近くまで下りてきたのだ。

「柵の内に子どもを!」

「火を増やせ!」

「家畜を下げろ!」

 村人たちが一斉に動く。

 その混乱の中で、醸は完成したばかりのヘレス・ボックの樽を見た。そして、はっきりと悟る。

 この酒は、試飲会で終わるためにできたのではない。

 冬の入口を守るために生まれたのだ。

「配るぞ!」

 醸が叫ぶ。

「見回りと防備に出るやつ、ひと口ずつ飲め! 飲みすぎるな、芯だけ起こせ!」

 ガランが真っ先に杯を掴んだ。

「待ってました!」

「お前は一口だぞ!」

「わかってる!」

 レティシアも受け取り、一気ではなく、短く飲み下す。その瞬間、彼女の目つきがさらに鋭くなった。

「……いいわね、これ」

「説明してる暇はない」

「十分よ」

 ミーナも少量だけ飲む。すると彼女は目を瞬かせ、両手を見た。

「魔力の流れが止まらない」

「冷えで詰まるのを防いでるんだろう」

「すごい……!」

 数分後、村の外縁では白角狼との小競り合いが始まった。

 幸い、群れは本格的な襲撃ではなく、餌を探して下りてきた小規模なものだった。だがその分、動きは速く、吐く息は白く鋭い。斬りかかろうとして一瞬でも足を止めれば、寒気で身体が鈍る。

 しかし、ヘレス・ボックを飲んだ者たちは違った。

 ガランは大槌を振るう腕が重くならず、レティシアは冷気に切っ先を鈍らせない。ミーナの風の魔術は白い吐息を押し返し、巡回兵たちも足を止めずに陣を組めた。まるで村全体の血が、少しだけ速く、強く巡っているようだった。

 やがて狼たちは火と刃と魔術に追われ、再び山の闇へ退いていく。

 完全な勝利と言うほど大きな戦いではない。だが、冬の入口で村が“押し返した”という事実は大きかった。

 戦いのあと、冷たい空気の中で誰かが笑った。

 それが一人から二人へ、二人から全体へ広がる。

「勝ったな」

 ガランが肩で息をしながら言う。

「まだ追い払っただけだ」

 レティシアが答える。

「でも、十分でしょ」

 ミーナが弾んだ声で言う。

「だって、今のわたしたち、寒さに負けなかった!」

 その言葉に、村人たちは顔を見合わせ、そして大きく頷いた。

 醸は樽のそばに立ち、静かに目を閉じる。

 祭りの酒は人を繋いだ。

 そして今、冬の入口の酒は、人を前へ押し出した。

 金色の強いラガー――ヘレス・ボック。

 それは、迫る寒さへ「まだ終わらない」と告げる一杯だった。

 村長がゆっくりと歩み寄り、杯を掲げる。

「皆、飲みすぎるなよ」

 その一言に笑いが起きる。

「だが今日は、ひと口だけ祝おう。冬の入口を越えた祝いだ」

 醸は樽から酒を注いだ。

 夕暮れの冷気の中、金色の液体は不思議なほどあたたかな光を宿して見えた。村人たちがそれを手にし、互いの無事を確かめ合いながら杯を合わせる。

「乾杯!」

「乾杯!」

 その声は祭りの日ほど派手ではない。

 だが、ずっと力強かった。

 生き延びるための声ではない。

 生き抜くための声だ。

 醸も自分の杯を見下ろし、そっと飲む。完成したヘレス・ボックは、やはり若い火を抱えていた。だが暴れない。清らかな輪郭を保ったまま、身体の深くへ降りていく。これなら冬の始まりに立つ者たちを支えられる。

 そして、その確信とともに、彼は次の予感も得ていた。

 冬が深まれば、もっと重く、もっと濃く、もっと厳しい酒が必要になるだろう。

 寒さはまだ入口にすぎない。

 山はさらに試してくる。

 だが、それでいい。

 一杯ずつ応えればいいのだ。

 季節に、村に、人に。

 異世界でビールを醸すということは、もはや単なる仕事ではなかった。季節の問いに答え、暮らしの痛みに形を与え、人が前を向くための力を液体に変えること。

 大麦 醸は、自分の歩く道を、また一歩深く理解した。

 白い息を吐く山の麓で、金色の強い酒は静かに輝く。

 その輝きは、迫る冬の闇に対する、グランエッジなりの返答だった。

 そしてその返答を聞き逃さなかった者が、村の外にも確かにいることを、この時の醸はまだ知らない。

 麓へ向かう山道の途中。

 雪雲を背にした一台の馬車の中で、あの商人ベルノが、護衛から届けられた報告書を読んでいた。

「祭り酒の次は、寒毒に効く金色の強酒、か……」

 彼は薄く微笑み、紙を畳む。

「やはり、あの村の酒は一樽ごとに価値が上がる。ならば、こちらも次の手を考えねばなりませんね」

 馬車は冷たい街道を進んでいく。

 山は冬へ向かい、村は備えを固め、酒蔵では新たな樽が息づいている。

 そのすべてが、まだ始まりにすぎなかった。


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