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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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第百話 祝福は、杯の上から降りてくるものではない ―Belgian IPA―

 グラン=セル聖騎士府の朝は、これまででいちばん騒がしかった。


 とはいえ、市場のような喧騒ではない。


 白い回廊を行き交う修士たちの足音は相変わらず規律正しく、僧兵たちの鎧の鳴る音も抑えられている。声を荒げる者もいない。だが、静かであることと、落ち着いていることは違う。


 今朝の聖騎士府は、確かに揺れていた。


 地下告解庫で秘蔵酒《夜祷の大杯》の扱いが見直され、光冠座では祝冠酒が停止された。


 内陣では高位修道士たちが、これまでの記録を洗い直し始めている。


 施療院では「上から与えられる癒やし」だけでなく、「現場の声」が拾われ始めた。


 僧兵団でも、黙って従うことと、責任を果たすことは違うのではないかという議論が起きていた。


 表面だけ見れば、崩壊の前兆にも見える。


 だが醸にはわかっていた。


 これは崩壊ではない。


 今まで“整いすぎていたもの”が、ようやく人間の呼吸を取り戻し始めただけだ。


「でも、向こうはそう見ないでしょうね」


 セリナが言った。


 彼女は中庭に面した回廊の欄干に腰掛け、下を行き交う修士たちを眺めていた。


「組織の上層は、“揺れ”を嫌うものよ。腐っていても固定されている方が安心だもの」


「最後に出てくるのは誰だと思う?」


 レティシアが問う。


「決まってる」


 セリナは肩をすくめた。


「ここまで全部を黙認してきて、でも表には出てこなかった“象徴そのもの”」


「象徴?」


 ミーナが首を傾げる。


「ええ」


 セリナの目が鋭くなる。


「組織はね、最後にはいつだって“人”じゃなく“意味”で支配しようとするのよ」


 その言葉の直後、聖堂側の鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 これまで聞いたどの鐘とも違う、長く澄んだ音だった。


 アルノーが蒼白な顔で駆けてくる。


「大麦さま! 皆さま!」


「何があった」


 醸が訊く。


「大聖堂で……開扉の儀が行われます」


「開扉?」


 ベルナールが後ろから現れ、苦い顔で言った。


「本来は年に一度、建国記念祭にしか開かれぬ内奥です」


「なんで今さら?」


 レティシアの問いに、ベルナールは重く答える。


「“聖性の最終確認”のためでしょう」


 嫌な予感が、全員の胸を同時に走った。


     


 グラン=セル大聖堂の最奥は、これまで閉ざされていた。


 白亜の正面聖堂は何度も見てきたが、その背後にある扉は常に閉じられ、近づくことすら禁じられていた。


 信徒たちが祈るのは手前の聖堂まで。


 高位修道士でさえ、許しなくしては奥へ入れない。


 そこにあるのは、“聖騎士府の祝福の源泉”としか伝えられていない。


 今、その巨大な扉がゆっくりと開いていた。


 中から溢れてきたのは、まばゆい金色の光だった。


 それは陽光とは違う。


 炎とも違う。


 もっと柔らかく、もっと広がりがあり、そしてもっと危うい。


 見た者すべてに「これはありがたいものだ」と思わせる種類の光だった。


「……綺麗」


 ミーナが思わず呟く。


「そう見えるように作ってあるのよ」


 レティシアが苦々しく言う。


「いや」


 醸は目を細めた。


「作ってあるだけじゃない。中身もある」


 最奥聖堂は、広い円形の空間だった。


 床は白と金の石で象嵌され、壁面には王国建国からの奇跡譚が細密画のように描かれている。


 中央には、大きな祭卓。


 その上に置かれているのは、透き通る金色の液体を満たした巨大な聖杯だった。


 杯の周囲には白衣の高位司祭たち。


 中央に立つのは、これまで一度も表へ出てこなかった人物――


 大座首エルドリック。


 年齢は六十を越えているだろう。長い白髪を後ろで束ね、装飾を削ぎ落とした純白の法衣をまとっている。金や宝石で飾られていないにもかかわらず、その存在感は光冠座の誰より強かった。彼の前に立つと、不思議なことに、自分の姿勢を正したくなる。


 これが長年、聖騎士府の“意味”そのものとして君臨してきた男か。


 醸はそう思った。


「大麦 醸」


 エルドリックの声は高くも低くもなく、よく通った。


「異邦の醸造師よ。あなたがここへ来てから、我らの府はずいぶん騒がしくなった」


「責任の半分くらいは認める」


 醸が返すと、エルドリックはわずかに笑った。


「正直でよろしい」


 その笑みには、ルシアンのような硬さも、セラフィーナのような冷たさも、ベルナールのような疲労もなかった。


 むしろ穏やかで、包み込むようで、それだけに厄介だった。


「だがあなたは、三つの層を誤解している」


「三つ?」


「沈黙、栄光、苦悩」


 エルドリックは祭卓の杯へ手を添える。


「それらは人を縛るための道具ではない。未熟な人間を、より高い祝福へ導くための階梯だ」


「階梯、ね」


「人は弱い。迷い、酔い、罪を犯す。ならば、導きが要る。型が要る。物語が要る。そして最後には、“己を超えるもの”へ身を委ねる必要がある」


「それがこの杯か」


「そうです」


 大座首はゆっくりと聖杯を掲げた。


 液体は眩い金色。


 Tripel よりも明るい。


 祝冠酒よりも純粋。


 それでいて、ただ軽いだけではない。


 香りは白花、熟した果実、蜂蜜、スパイス、そして清冽なアルコール。強いのに濁りがなく、甘やかなのに最後は鋭く空へ抜ける。


 醸は胸の奥で、静かに息を吐いた。


 ――Belgian IPA。


 明るく、強く、華やかで、危険なほど美しい。


 本来なら祝祭と歓喜の極みにある酒。


 Belgian Tripel と近しい金色の系譜にありながら、より自由で、より奔放で、より“祝福そのもの”の顔をしやすいスタイル。


 その美しさゆえに、使い方を誤れば最悪の酒になる。


「これが《降福の杯》」


 エルドリックは言った。


「聖騎士府創建以来、もっとも深い儀式にのみ用いられてきた、祝福の原型です」


「何をする」


 醸が訊く。


「人に“赦された感覚”を与えます」


 ミーナがぎくりとする。


「赦す……?」


「ええ」


 大座首は穏やかに頷く。


「迷いも、弱さも、後悔も、すべてを包み、“それでもお前は祝福されている”と知らせる」


「ずいぶん優しいな」


「優しさは必要です」


「でも」


 醸の声がわずかに低くなる。


「それ、誰が赦すんだ?」


「祝福が赦す」


「曖昧だな」


「神意とでも言い換えましょう」


「つまり、お前らが定義した祝福が、だろ」


 聖堂の空気がぴんと張った。


 だがエルドリックは怒らなかった。


 むしろ少し悲しそうに目を細める。


「あなたは、祝福を疑いすぎる」


「違う」


 醸は首を振った。


「俺は“人間が勝手に上から配る祝福”を疑ってるだけだ」


     


 その日のうちに、最終の試飲比べが決まった。


 聖騎士府の全層が見守る場。


 信徒代表、施療院、僧兵、内陣、光冠座、監察使。


 そして大座首エルドリック自らが立ち会う。


 舞台は最奥聖堂。


 祝福の中心で、祝福そのものの意味を賭けて酒を競う。


「最終決戦って顔してるわね」


 セリナが古い醸造室で言った。


「実際そうだろ」


 醸は静かに答えた。


「ここで負けたら、“全部を包んで赦す”って大義名分で、また上から整え直される」


「勝てる?」


 ミーナの問いに、醸は少しだけ黙った。


 Dubbel は、本音を返す酒だった。


 Tripel は、責任を見る光だった。


 Dark Strong Ale は、言い訳に酔わせない夜だった。


 だが今度はもっと難しい。


 “赦し”は、本来必要なものだからだ。


 人は罪を犯す。間違える。過去に囚われる。


 ただ裁くだけでは、どこかで壊れる。


 だから赦しそのものを否定してはならない。


 問題は、赦しが「上から与えられる支配」になることだ。


「作るのは、赦しの酒じゃない」


 醸は言った。


「え?」


 ミーナが瞬く。


「“赦される前に、ちゃんと生きたくなる酒”だ」


 レティシアが口角を上げた。


「なるほどね。先に免罪符を配るんじゃなくて、自分で歩く気にさせるわけ」


「そういうこと」


 彼は材料を並べた。


 神麦。


 明るい麦芽。


 軽やかさを作る糖。


 香りの骨格を立てるための酵母。


 そして、大量のホップ。


 さらに、コリアンダーをほんのひとつまみ。


 最後に、前夜から仕込んでおいた山の花蜜をひと雫だけ。


「花蜜?」


 ミーナが言う。


「そんなの入れるの?」


「甘くしたいわけじゃない」


 醸は鍋へ湯を張る。


「祝福ってのは、本来、誰かの暮らしのそばにあるもんだろ。畑とか、風とか、花とか、手の届く場所にある」


「対して向こうは?」


 レティシアが問う。


「祭壇の上から降ってくる」


 糖化が始まる。


 湯気が立つ。


 神麦の澄んだ香りに、淡い柑橘と花の気配が混じる。


 明るい。


 だが空虚ではない。


 強い酒になるはずなのに、その香りはどこか人の食卓に近かった。


 醸は鍋をかき混ぜながら、ふと思う。


 前世の自分は、赦されることにあまり慣れていなかった。


 誰かに大きく責められたわけではない。


 けれど、孤独も、後悔も、手遅れのものも、自分の中へ溜め込んで、「まあこんなものだ」と飲み込んできた。


 だからこそ知っている。


 人は“上から全部赦された気分”になると、逆に自分で立たなくなることがある。


 必要なのは、軽くしてもらうことじゃない。


 重いままでも、一歩出せることだ。


「よし」


 醸は鍋の湯気の向こうで笑った。


「これならいける」


     


 三日後。最奥聖堂。


 白と金の円形空間には、これまで以上の人が集まっていた。


 信徒代表の老夫婦。


 施療院の修道女たち。


 僧兵。


 内陣の修士。


 光冠座。


 そして大座首エルドリック。


 祭卓の上には、二つの黄金が置かれていた。


 一つは《降福の杯》。


 一つは、醸の Belgian IPA。


 どちらも美しい。


 どちらも明るい。


 どちらも祝福の顔をしている。


 だが、見つめていると違いがわかる。


 《降福の杯》は完璧な金だ。


 曇りなく、上から降る光そのもののような金。


 醸の酒は、陽だまりの金だった。


 風に揺れる麦の穂、洗濯物の乾く匂い、誰かの手のぬくもり。


 そういう地上のものを知っている光。


「では」


 エルドリックが告げる。


「祝福の本質を、杯に問おう」


 試飲が始まる。


 まず《降福の杯》。


 ひと口飲んだ者たちの顔が、ふっと和らぐ。


 肩の力が抜け、目元が潤み、胸の奥の固いものがほどけていく。


 ――ああ、私は許されている。


 ――私は包まれている。


 ――もうそんなに苦しまなくていい。


 そう思える。


 その感覚は、あまりにも甘美だった。


 施療院の若い修道女が涙をこぼす。


 僧兵のひとりが目を閉じ、深く息を吐く。


 信徒の老女が胸元で手を組む。


 次に、醸の Belgian IPA。


 ミーナが目を見開く。


 レティシアの唇が、わずかに動く。


 ベルナールは、初めて本当に驚いた顔をした。


 セラフィーナは杯を持つ手を止めたまま、しばらく動かなかった。


 強い。


 十分に強い。


 すっきりとした苦みの後に華やかで、花や果実を思わせる香りがあり、アルコールの芯が鮮やかに立つ。


 けれど、《降福の杯》のように“包み込んで終わる”感じではない。


 むしろ逆だ。


 胸の奥に、静かに火が灯る。


 自分の弱さも、迷いも、消えない。


 それでも不思議と、誰かのところへ戻りたくなる。


 謝りたくなる。


 働きたくなる。


 今日の一日を、ちゃんと生きたくなる。


「……これは」


 信徒代表の老夫婦のうち、老爺が呟いた。


「ありがたい、のに……」


「座り込んで祈る気分にはならないだろ」


 醸が言う。


 老爺は何度も頷いた。


「はい。むしろ、家へ帰って、妻に湯を沸かしたくなる」


 その言葉に、空気が揺れた。


 施療院の若い修道女が、涙をぬぐいながら言う。


「私は、赦してほしかったです。失敗したことも、怖かったことも」


「うん」


 醸は静かに頷く。


「でも今の酒は、それだけじゃなかっただろ」


「……はい」


 修道女は杯を見つめる。


「明日、患者さんの手を、もう少しちゃんと握ろうと思いました」


 ベルナールが深く息を吐く。


「祝福が、上から降ってこない」


「ああ」


「人の中で灯る」


「そうだ」


 醸は答えた。


「本物の祝福ってのは、そういうもんだろ。人をひれ伏させるんじゃなく、立ち上がらせるもんだ」


 エルドリックは長く沈黙していた。


 やがて、自ら二つの杯を持ち上げる。


「《降福の杯》は、赦しを与える」


 彼は言った。


「だが、あなたの酒は?」


「赦しを急がない」


 醸は答える。


「そのかわり、生きる方へ向かせる」


「苦しい者には、赦しが先に必要なこともある」


「あるさ」


 醸は認めた。


「でもな、大座首。上から“お前はもう祝福されてる”って言われ続けると、人は自分で人を愛さなくなることがある」


 エルドリックの目が、初めて鋭く揺れた。


「何?」


「祝福された気分になることと、祝福を生きることは違うって話だよ」


 最奥聖堂の空気は静まり返っていた。


 エルドリックは、ゆっくりと《降福の杯》を口にする。


 次に、醸の酒を口にする。


 そして、目を閉じた。


 その沈黙は長かった。


 彼の中で何が起きているのか、誰にもわからない。


 だがやがて、大座首は目を開ける。


 その眼差しには、初めて人間らしい疲れが見えた。


「私は……」


 彼は低く言った。


「祝福を守っていたつもりでした」


「うん」


「人が壊れぬよう、罪に潰れぬよう、上から包むことが必要だと信じていた」


「それも半分は本当だろう」


「しかし、いつからか」


 彼は祭卓を見た。


「人々を立たせるより、“我らが祝福を与える側であること”を守る方へ傾いていたのかもしれません」


 セラフィーナが、静かに目を伏せる。


 ベルナールはまっすぐ前を見た。


 ルシアンでさえ、今回は何も言わなかった。


「大麦 醸」


 エルドリックが言う。


「あなたの酒は、不遜です」


「だろうな」


「祝福を祭壇から奪う」


「違う」


 醸は首を振る。


「祭壇の上に閉じ込めないだけだ」


 その瞬間だった。


 最奥聖堂の後方、信徒たちの列の中から、小さな嗚咽が漏れた。


 見ると、ひとりの中年女が膝をついていた。どうやら巡礼者のひとりらしい。


 彼女は震える声で言う。


「私は……息子を許せませんでした」


 誰も止めない。


「兵役を嫌がって逃げたのです。私はそれを恥だと思って、家から追い出しました。ずっと“神さまが赦してくださるなら”と思って祈ってきました」


 彼女は顔を上げる。


「でも今、この酒を飲んだら……息子に会いに行かなきゃって、思いました」


 聖堂の空気が揺れる。


「赦された気分になるより先に、会って話さなきゃって」


 涙に濡れた顔で、彼女は言った。


「それが、祝福なんじゃないですか」


 その言葉が、最奥聖堂の中心へ落ちた。


 祈りでもなく、教義でもなく、ただの生身の言葉。


 だが、それはどんな荘厳な説法より強かった。


 エルドリックは長く目を閉じ、やがて聖杯へ向き直った。


「《降福の杯》の儀は、本日をもって停止します」


 聖堂にざわめきが走る。


「今後、祝福は配給されるものではなく、各院・施療院・信徒の生活の中で確かめられるものとする」


 ベルナールが息を呑む。


 セラフィーナが目を見開く。


「また、最奥聖堂の閉鎖を解き、記録の監査を受け入れる。ここが“上から降ろす祝福”の象徴であることを、もはや許さない」


 ルシアンがわずかに前へ出た。


「大座首、それでは権威が」


「落ちるだろう」


 エルドリックは穏やかに言った。


「だが、祝福の名で人を跪かせる権威なら、落ちてよい」


 その言葉とともに、最奥聖堂に満ちていた見えない圧が、ふっと抜けた気がした。


 誰かが息を吐く。


 誰かが泣く。


 誰かが隣を見る。


 誰かがようやく、自分の足で立っていることを思い出す。


 ミーナが、醸の袖を小さく引いた。


「終わった?」


「いや」


 醸は笑う。


「終わりじゃない。やっと始まるんだろ」


     


 その日の夕方、グラン=セル聖騎士府の門は大きく開かれた。


 巡礼者たちが出入りし、施療院の者が中庭へ机を運び、修士たちが記録箱を抱えて走り回る。僧兵は剣を持ったまま立っているが、その視線は以前より低い場所を見ていた。


 白い壁も、金の窓も変わらない。


 けれどそこに流れる空気は、もう別のものだった。


「結局、一番上にあったのが“赦し”だったの、いかにもって感じね」


 レティシアが言う。


「一番甘いからな」


 醸は答えた。


「甘いものほど、人を縛るときは厄介だ」


「でも、今回の酒も甘やかしじゃなかった」


 ミーナが嬉しそうに言う。


「うん。なんかこう……ちゃんと温かいのに、自分で歩かなきゃって思えた」


「それが大事なんだろ」


 醸は門の向こうを見た。


「祝福ってのは、誰かに上から注いでもらって終わりじゃない。飲んだあとで、自分がどう生きるかまで含めて祝福なんだよ」


 セリナはくすりと笑った。


「あなた、本当に商売にならない思想してるわね」


「なんでだ」


「依存させる方が儲かるのに」


「酒で依存作るのは二流だ」


「言うと思った」


 彼女は肩をすくめた。


 そのとき、アルノーが走ってくる。


「大麦さま!」


「なんだ?」


「大座首さまが、最後にこれをと」


 差し出されたのは、小さな白木の杯だった。簡素で、装飾はない。だが内側には金の薄い線が一周だけ引かれている。


「杯?」


「はい。“祭壇の上のものではなく、手の中で使われるべきだ”と」


「……へえ」


 醸はその杯を受け取り、夕日の方へかざした。


 白木の素朴さの中で、内側の金だけが静かに光る。


 まるで、祝福のあり方そのものだった。


 外から見ればただの器。


 だが内側にだけ、確かな光がある。


「似合うじゃない」


 レティシアが言う。


「そうか?」


「ええ」


 彼女は珍しく柔らかく笑った。


「あなたの酒みたい」


 醸は少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。


 白い城壁の向こうでは、山の稜線に夕日が落ちていく。


 褐色の沈黙も、黄金の陶酔も、夜の自己正当化も、上から降ろされる赦しも、すべてはここで一度区切りを迎えた。


 だが人間は、きっとまた迷う。


 また酔う。


 また間違える。


 だから酒は、これからも必要だ。


 傷を癒やすために。


 魔力を戻すために。


 本音を見せるために。


 責任を引き受けるために。


 夜を越えるために。


 そして、祝福を祭壇から日々の暮らしへ取り戻すために。


 大麦 醸は白木の杯を懐へしまい、門の外へ視線を向けた。


「さて」


 彼は小さく言った。


「次は、外の世界だな」


 グラン=セルの鐘が鳴る。


 その音はもう、上から降ってくる命令のようには聞こえなかった。


 誰かが立ち上がり、誰かが歩き出し、誰かが誰かのために火を起こす。


 そんな地上の営みへ向けて、静かに響く合図のようだった。


 祝福は、杯の上から降りてくるものではない。


 人が人へ返していく中で、ようやく本当の光になる。


 そのことを、黄金の酒は最後に教えてくれた。


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