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異世界ビール物語~醸造家の異世界転生~  作者: 麦汁酵生


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10/13

第十話 淡き陽光、村の祝祭と白金の一杯 ―ミュンヘン・ヘレス―

グランエッジの朝は、どこかそわそわしていた。

 いつものように薪を割る音は聞こえるし、家畜の世話をする声もする。

 沢から水を運ぶ娘たちの笑い声も、鍛冶場から響く鈍い鉄音も、普段と変わらない。

 だが、その全部の底に、かすかな浮き立ちが混じっていた。

 それもそのはずだった。

 ついに、酒蔵小屋がひとまず完成したのだ。

 もちろん、“王都の大醸造所”などと比べれば、話にもならないだろう。

 木と石で組まれた、小さな仕込み場と保管棚と冷却槽を備えた程度のものだ。

 だが、最初に醸がこの村で鍋ひとつから始めたことを思えば、それは十分すぎる進歩だった。

 小屋の正面扉には、ボルドが作った厚い金具が打たれている。

 蝶番も留め具も頑丈で、樽棚は木工職人と鍛冶屋の合作だ。

 沢水を引いた冷却用の溝は村の若者たちが掘り、薬草師の老婆は防虫と清めの香を入口脇へ吊してくれた。

 つまり、この小屋は醸一人のものではなかった。

 村の手で作られた、村の酒蔵だ。

「……すごいねえ」

 ミーナが小屋の前でくるりと回る。

「昨日までまだ板とか縄とか散らばってたのに、今日見たらちゃんとしてる」

「ちゃんとしてるって何だよ」

 醸が苦笑する。

「でもまあ、言いたいことはわかる」

 新しく張られた屋根板は朝日を受けてまだ明るく、壁の木肌にも新しさが残っていた。扉の金具は黒く焼き締められ、取っ手にはボルドなりの装飾が少しだけ入っている。実用一点張りの男にしては珍しく、蔓草のような曲線がわずかに彫られていた。

「ボルドさん、ああいうの作るんだ」

 ミーナが取っ手を見ながら言う。

「意外」

「な。俺も少し驚いた」

「聞いたら、“村の顔になるなら無骨すぎてもつまらん”だって」

 レティシアが後ろから言ってきた。

「へえ」

「言うようになったわよね、あの人も」

「酒蔵に巻き込まれてるからな」

「巻き込んでるのは、あんたよ」

「……否定しにくい」

 レティシアは扉を軽く叩いた。

「でも、いい小屋」

「うん」

 醸は静かに頷く。

「本当に、いい小屋だ」

 前世では、自分の蔵なんて持てると思ったこともなかった。

 小さな町工場で、タンクの洗浄や配管の確認、仕込みの管理に追われる日々。

 それはそれで誇りはあった。

 だが、ここは違う。

 この扉の向こうには、自分の手で作った酒があり、村の手で支えられた設備があり、そしてこれから先の可能性がある。

 その事実が、胸の内側をじんわりと熱くした。

      

 昼前になると、村長が広場に人を集めた。

 村人たちは半円を描くように並び、完成した酒蔵小屋を見上げる。

 鍛冶屋ボルドは腕の火傷もだいぶ治り、相変わらず不機嫌そうな顔で腕を組んでいた。

 薬草師の老婆は杖をつきながら目を細め、子どもたちは「ここで酒がいっぱいできるの?」と無邪気に騒いでいる。

 村長はひとつ咳払いし、低く通る声で言った。

「皆、よく働いてくれた」

 ざわめきが少し収まる。

「最初、この村に酒を作る男が現れた時、正直に言って、わしは半分疑っておった」

「半分なのか」

 ボルドがぼそりと呟く。

「三分の二くらいだと思ってた」

「私もそれくらいだと思ってた」

 レティシアが続け、周囲に小さな笑いが起きる。

 村長は咳払いをし直した。

「……とにかく、疑っておった。だが今は違う。この小屋は、我らの村の新しい力だ。傷を癒やし、疲れを支え、夜を守り、外へ繋がる道を開きつつある」

 そこで村長は醸を見る。

「大麦 醸殿」

「はい」

「お主が来てから、この村は確かに変わった」

「……」

「だから今日は、小屋の完成を祝いたい」

 その一言に、広場の空気が一気に明るくなった。

「祝いだ!」

「やっと飲める!」

「おい、また酒のことしか考えてないぞ」

「だって酒蔵の祝いだろ!」

 口々に声が上がる。

 子どもたちは意味もなく跳ね、女たちは「なら料理を増やさなきゃ」と相談を始め、若者たちは樽運びを買って出た。

 醸は少し呆然としたまま、その光景を見ていた。

 祝う。

 酒蔵を。

 今までの酒は、何かしらの必要に迫られて生まれてきた。

 怪我人がいた。旅人が倒れた。兵士が消耗した。鍛冶屋が無理をした。

 だから酒を作った。

 けれど今度は違う。

 誰かを助けるためではなく、皆が嬉しいから、祝いたいから酒を作る。

 それは当たり前のことのはずなのに、醸にとっては妙に新鮮だった。

「どうしたの?」

 ミーナが覗き込む。

「いや……」

「嬉しくない?」

「嬉しいよ」

 醸は笑った。

「ただ、なんか不思議で」

「不思議?」

「今まで“必要だから作る”が多かったからな」

「今回は?」

「嬉しいから作る」

「いいじゃん」

 ミーナはにっと笑う。

「それ、すごくいい」

 その言葉に、醸もようやく素直に頷けた。

      

 祝いの酒に選んだのは、ミュンヘン・ヘレスだった。

 明るい金色。

 過剰に苦すぎず、派手すぎず、だが芯のある麦の旨味を持ったラガー。

 穏やかでやさしく、誰が飲んでも「うまい」と感じやすい。

 それでいて、きちんと上質。

 祝祭向けとしてはフェストビアがいずれ来る。

 だが今は、大がかりな祭りではなく、小さな村の小さな喜びにふさわしい酒が欲しかった。

 ヘレスは、その意味でちょうどいい。

「今回は明るいのね」

 レティシアが言う。

「うん。派手すぎない祝いの酒」

「白銀泡じゃ駄目なの?」

 ミーナが訊く。

「駄目じゃない。でも白銀泡は“見せる酒”なんだ」

「見せる?」

「商会とか外の人間に、格を見せるための酒」

「なるほど」

「今回は違う。村のみんなが、気負わずに飲める、それでいてちゃんと特別な酒がいい」

「難しいの?」

「……やっぱり難しい」

「知ってた」

 ミーナが即答し、レティシアが吹き出す。

 今回の仕込みでは、あえて極端な効能を狙わなかった。

 もちろん神麦を使う以上、何らかの作用は宿るだろう。

 だが最優先するのは、祝う場にふさわしい穏やかさと、明るさと、飲みやすさだ。

 粒ぞろいの神麦を選び、焙燥はごく浅く、麦のやわらかな甘みを残す。

 火を入れすぎず、重さを出しすぎず、ただし薄くはしない。

 明るく、なめらかで、村人たちが杯を重ねたくなるように。

 仕込み湯の中に麦を落とした瞬間、ふわりと立ち上った香りは、今までのどれとも違った。

 やさしい。

 そう思った。

 蜂蜜より軽く、パンより白く、草より穏やか。

 朝の光がそのまま匂いになったみたいな、やわらかな香りだった。

「……これ、好き」

 ミーナがすぐに言う。

「まだ早いぞ」

「匂いだけ!」

「でもわかる」

 レティシアも言った。

「今までの酒みたいな“目的”の尖りがない」

「そうしたいからな」

「なんていうか……普通においしそう」

「そこ最高の褒め言葉だからな」

 普通においしい。

 それは、奇跡や効能ばかりが先に立ってきたこの村の酒にとって、とても大切な言葉だった。

      

 祝いの準備は、仕込みと並行して村全体で進んだ。

 広場には長机がいくつか運ばれ、村の女たちが煮込みや焼き野菜を用意し、狩人たちは干し肉の良いところを切り分ける。木工職人は即席の看板まで作り、「グランエッジ醸造」と拙いながらも力強い文字を刻んだ。

「うわ、本当に書いちゃった」

 ミーナが看板を見上げる。

「なんか急にそれっぽい」

「それっぽいって何だ」

 醸が苦笑すると、ボルドが横から鼻を鳴らした。

「村の顔ができたってことだ」

「珍しくうまいこと言うな」

「俺はいつでもうまいこと言う」

「無口のくせに?」

「必要があればだ」

 レティシアが看板を見て言う。

「悪くないわね」

「だろ」

 ボルドが言う。

「ただの小屋じゃなく見える」

「実際、もうただの小屋じゃないしな」

 醸も頷く。

 酒蔵の完成祝い。

 それは見た目にはささやかなものだ。

 けれど村の空気は確実に変わっていた。

 前は“村に不思議な酒がある”だった。

 今は“村に酒蔵がある”だ。

 その違いは大きい。

      

 仕込みから数日後、ヘレスは見事に目を覚ました。

 注いだ液体は、これまでで最も穏やかな金色だった。

 白銀泡のような緊張感のある輝きではない。

 もっとやわらかく、温かな光だ。

 泡は白く細かく、香りはやさしく、麦の甘みがすっと立ち上る。

 醸は一人で最初の一杯を口にした。

 ……うまい。

 派手な苦味はない。

 強烈な回復感もない。

 だが、口にした瞬間から喉へ落ちるまで、どこにも引っかかりがない。

 やわらかな麦の丸みが静かに続き、飲み終わったあとに、胸のあたりへほんのりと明るさが残る。

「どう?」

 いつの間にか後ろにいたミーナが訊く。

「いい」

「今日は“黙らせる酒”じゃない顔してる」

「そうだな」

 醸は笑った。

「今日は、“笑わせる酒”かもしれない」

「それ、いいね」

「うん、いいかも」

 レティシアも頷いた。

 その一言で、醸の中で何かがすっと定まった。

 このヘレスに宿った力は、回復でも、防衛でも、集中でもない。

 たぶんこれは、人の気持ちをやわらかくほぐし、喜びを素直に広げる酒だ。

 大げさな魔法ではない。

 だが、祝う場には一番大事かもしれない。

      

 夕方、広場に人が集まった。

 長机には料理が並び、焼いた根菜、肉の煮込み、固いが香ばしいパン、山菜の塩漬け、干した果実が皿に分けられている。子どもたちはまだ酒が飲めないので、蜂蜜水をもらって浮かれていた。

 新しい酒蔵小屋の扉は開かれ、中の樽が見えるようになっている。

 看板の前では、村長が少し緊張した顔で立っていた。

「皆、静かに」

 村長が言うと、ざわめきが少しずつ収まる。

「今日、我らは新しい酒蔵小屋の完成を祝う」

 村長の声は、夕暮れの空気によく通った。

「この小屋は、ひとりの力でできたものではない。酒を作る者、樽を締める者、金具を打つ者、水を引く者、火を守る者、見張る者、支える者。皆の手でできた」

 そして彼は醸を見る。

「そして何より、その始まりを持ってきたのは、この村に落ちてきたひとりの醸造師だ」

「落ちてきたって言い方」

 ミーナが小声で笑う。

「事実だからな」

 レティシアが返す。

 村長は続けた。

「だから今宵は、必要に迫られてではなく、喜びのために飲もう」

 その言葉に、広場全体がふっと明るくなった。

 醸は樽の前に立ち、木栓を抜いた。

 しゅ、とやわらかい音。

 杯に注がれるヘレスは、夕陽を受けて白金のように見えた。

「きれい……」

 ミーナが思わず呟く。

 最初の一杯は村長へ。

 次にボルド、薬草師の老婆、レティシア、ミーナ……は未成年なので香りだけ。

 そのあと、村人たちへ次々に注がれていく。

 村長は一口飲み、目を細めた。

「……うむ」

「どうです?」

 醸が訊く。

「難しいことは言えん」

「はい」

「だが、飲んだら笑いたくなるな」

「……」

 それを聞いて、醸は少しだけ目を見開いた。

「やっぱり」

「やっぱり?」

 レティシアが訊く。

「この酒、そういう酒だ」

「そういうって?」

「嬉しい気分を素直にする」

「またずいぶん曖昧ね」

「でも、今の村長見たらわかるだろ」

「たしかに」

 レティシアがくすっと笑う。

 ボルドも一口飲み、珍しくすぐに二口目へ行った。

「……軽いな」

「うん」

「だが、薄くねえ」

「そうした」

「仕事終わりにちょうどいい」

「祝いの酒なんだけど」

「祝いの後も飲みたいって意味だ」

「それは嬉しいな」

 薬草師の老婆は、杯を両手で包むように持って飲んだ。

「これはいいねえ」

「どういい?」

 ミーナが訊く。

「胸の中に溜まった曇りが、ちょっと晴れる感じだよ」

「曇り」

「年寄りはね、嬉しくても素直に顔に出にくいんだ」

「そうなの?」

「そういうもんさ」

「じゃあこの酒、すごい」

「すごいよ」

 老婆は笑って、皺だらけの目元をさらに細めた。

 レティシアも飲んだ。

 彼女は最初の一口で、少し驚いたように眉を上げる。

「……あ」

「何だ」

「力が抜ける」

「悪い意味で?」

「違う。ちゃんと楽になる方」

「なるほど」

「剣を置いた後の酒って感じ」

「いいな、それ」

 醸は素直に頷いた。

「戦う前でも、戦った後でもなく?」

「うん。今日は戦う日じゃない、って体がわかる感じ」

 その言葉に、醸はじんとした。

 そうだ。

 たぶんこの酒が一番伝えたいのは、それなのだ。

 今日は、怖がらなくていい日だ。

 今日は、祝っていい日だ。

      

 宴は、思った以上ににぎやかになった。

 村人たちは普段よりよく喋り、よく笑い、普段なら口喧嘩になりそうな軽口も、今日は不思議と丸く収まる。子どもたちも大人の笑顔につられて騒ぎ回り、広場の空気そのものが明るくなっていた。

 ミーナは酒の代わりに蜂蜜水を片手に走り回り、誰にでも「それヘレスだよ、今日の新作!」と説明していた。完全に蔵付き看板娘である。

「お前、ずいぶん詳しくなったな」

 醸が言うと、ミーナはえへんと胸を張った。

「弟子ですから」

「最近それ便利な言葉にしすぎじゃない?」

「使えるものは使うの」

「商人かよ」

「セリナさんみたい?」

「ちょっと違う方向に育ってきたな……」

 一方、ボルドはいつもより口数が多かった。

 酒が軽いからか、祝いの空気に押されたのか、若い連中に酒蔵の扉金具の工夫を得意げに語っている。

「見ろ、この留め具」

 ボルドが指で示す。

「引くだけじゃ開かねえ。少し持ち上げてから押すんだ」

「なんでそんな面倒に?」

 若者が訊く。

「酔っ払いが適当に触っても勝手に開かねえようにだ」

「今その酔っ払い候補がいっぱいいますけど」

「だからだ」

「なるほど」

「あと見た目も悪くねえだろ」

「自分で言うんだ」

「俺が作ったからな」

 それを聞いて、レティシアが肩を震わせて笑っていた。

「ボルドさん、今日すごい喋る」

「ヘレス効いてるんじゃない?」

 ミーナが言う。

「陽気になる効果?」

「たぶんな」

 醸は頷く。

「でも酔って騒ぐ感じじゃない。素直に気持ちが前に出るだけだ」

「それ、すごくいい酒じゃん」

「うん。たぶん、かなりいい酒だ」

 ふと、醸は広場の隅を見る。

 そこには、これまで酒で助けられた村人たちがいた。

 傷を癒やされた者。

 疲れを支えられた者。

 夜を守った者。

 鍛冶場を支えられた者。

 皆が今、杯を手に笑っている。

 それを見た時、醸の胸の奥に、前世ではあまり感じたことのない温かさが満ちた。

 自分の作った酒が、人を救った。

 それはもちろん嬉しい。

 でも、自分の酒が、人を笑わせている。

 それはまた別の、深い嬉しさだった。

      

 夜が更ける頃、広場の喧騒は少しだけ落ち着いていた。

 焚き火の周りにはまだ人が残り、穏やかに話し込んでいる。子どもたちはもう眠たそうに親へ寄りかかり、ミーナもさすがに少し疲れた顔で木箱に腰掛けていた。

 醸は、酒蔵小屋の前に一人立っていた。

 新しい扉。

 看板。

 中に並ぶ樽。

 夜気の中に残る、麦と木と火の匂い。

「逃げないのね」

 レティシアが隣に来た。

「何から?」

「こういう時、一人でぼーっとしてると、だいたい考え込んでるでしょ」

「逃げてるわけじゃないよ」

「似たようなもの」

「厳しいな」

「知ってる」

 彼女は小さく笑ってから、酒蔵小屋を見上げた。

「いい夜ね」

「うん」

「今までみたいに、誰かが怪我してるからとか、何かに備えるからじゃないのが、いい」

「そうだな」

「たぶん村のみんなも、それが嬉しいのよ」

「……だろうな」

 少し沈黙が落ちる。

 焚き火の向こうで、ボルドの低い笑い声が聞こえた。

 珍しい。かなり珍しい。

「レティ」

「なに」

「俺さ」

「うん」

「前の世界で、こういう酒をちゃんと作れてたか自信ない」

「こういう酒?」

「喜ぶための酒」

「……」

「うまい酒は作ろうとしてた。でも、誰かの顔を思い浮かべながら作るって感覚は、今ほど強くなかった気がする」

「それは」

 レティシアは少し考えてから言った。

「今の方が、近いからじゃない?」

「近い?」

「飲む人が。助かる人が。喜ぶ人が」

「……ああ」

「工場で遠くに出す酒と、村で顔が見える人に渡す酒は、違うでしょ」

「違うな」

「だから、今のあんたの方が向いてるのかも」

「そんな簡単に言う?」

「簡単じゃないわよ」

 レティシアは肩をすくめた。

「でも、見てればわかる。今の方が、あんた幸せそうだもの」

 その言葉に、醸は返事ができなかった。

 幸せ。

 そんな言葉、前世で自分に使うことはほとんどなかった。

 けれど今、酒蔵小屋の前に立って、村の笑い声を聞いていると、否定もしきれなかった。

      

 宴の最後、村長が再び杯を上げた。

「今日はよく働き、よく笑った」

 村人たちが顔を上げる。

「酒蔵はできた。だが、これは終わりではない。始まりだ」

「また始まりか」

 ボルドがぼそりと呟く。

「この村、最近ずっと始まってるな」

「いいことじゃない」

 薬草師の老婆が笑う。

 村長は続けた。

「これから先、この酒蔵がどこまで行くかは、まだわからん。町へ行くか、王都へ届くか、あるいは面倒ごとを呼ぶかもしれん」

「面倒ごとは確実に来るわね」

 レティシアが小さく言い、醸は苦笑した。

「だが今夜だけは、それを忘れて祝おう」

 村長の声が、静かに力を帯びる。

「この村が、この村の手で、新しい力を持ったことを」

 醸はヘレスの注がれた杯を見つめた。

 やわらかな金色。

 白い泡。

 胸を少し軽くする香り。

 この酒は、誰かを劇的に救うわけではない。

 けれど、人が嬉しい時に、その嬉しさをちゃんと広げてくれる。

 それは決して小さな力ではないと思った。

 人は、戦うためだけに生きるわけじゃない。

 耐えるためだけでもない。

 笑うため、祝うための時間があるから、また明日を頑張れる。

「乾杯」

 醸は静かに言った。

 今までの乾杯とは、少し違う響きだった。

 決意の乾杯でも、勝利の乾杯でもない。

 ただ、今この瞬間を嬉しいと思うための乾杯。

 皆の声が重なり、白金の酒が夜の灯りを受けて揺れる。

 その光を見ながら、醸は思った。

 酒蔵は、確かに形になった。

 なら次は、この酒蔵が村に何をもたらせるか。

 守るだけでなく、喜ばせるだけでなく、もっと大きな場へ繋げていく段階が来る。

 祭り。

 収穫。

 外から来る商人。

 そして、この村の名を持って外へ出る酒。

 今夜のヘレスは、そのための優しい入口なのだろう。

 夜風が吹き、新しい看板がわずかに鳴った。

 グランエッジ醸造。

 その名はまだ小さい。

 けれど、確かに村の中で根を張り始めていた。


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