第一話 山に落ちた醸造師と、最初のラガー
始めて投稿するので誤字脱字はご容赦ください。しばらくは1日1話で更新していきたいと思います。
ビールを片手に四で頂けると嬉しいです。
大麦 醸は、湯気と麦芽の香りに包まれて生きてきた男だった。
三十五歳。独身。実家もなく、呼べるほど親しい友人も多くはない。小さな町工場のようなクラフトビール醸造所で、仕込み、発酵管理、瓶詰め、清掃、出荷まで一通りをこなす毎日。華やかな仕事ではない。だが、彼はその地味さを嫌いではなかった。むしろ好きだった。麦を砕く音も、糖化槽をかき混ぜる重みも、ホップを入れた瞬間に立ちのぼる青く鋭い香りも、酵母が発酵しているタンクのかすかな息遣いも、すべてが愛おしかった。
誰かに必要とされることは少なくても、ビールは嘘をつかない。
丁寧に造れば、丁寧な味になる。手を抜けば、ちゃんと濁る。
それだけは、醸にとって救いだった。
事故が起きたのは、冬の終わりの仕込みの日だった。ラガー用の麦汁を仕込み終え、冷却器の点検をしていたとき、老朽化した足場が不意にきしみ、崩れた。咄嗟に手を伸ばしたが届かない。視界が傾き、ステンレスの配管と白い天井がぐるりと回った。
最後に感じたのは、冷たい床の硬さではなく、不思議なほど強い麦の香りだった。
――ああ、もったいないな。
せっかくいい仕込みだったのに。
そんな、職人らしいのか間抜けなのかわからない感想を最後に、彼の意識は暗闇へと沈んだ。
次に目を開けたとき、そこにあったのは、見慣れた醸造タンクでも病院の白い天井でもなかった。
青かった。
どこまでも高い空が、青かった。
「……は?」
醸は仰向けのまま、まばたきを繰り返した。耳に届くのは風の音。近くで沢が流れる音。土と草の匂い。頬に触れるのは、ひんやりとした山の空気。
体を起こす。途端に、背中に張りついていた草がざわりとこすれた。
「ここ……どこだ……?」
見渡す限り、山だった。急峻な斜面に針葉樹が並び、その合間に白い岩肌が覗いている。遠くには雪を戴いた峰。手前には野花の群生。人工物らしいものは何ひとつない。
頭を打ったのかと考えたが、痛みはない。むしろ、驚くほど体が軽い。事故前まで慢性的に重かった肩も、立ち仕事でこわばっていた腰も、妙に楽だった。
醸は立ち上がり、ポケットを探った。スマホはない。財布もない。作業着ではなく、見たこともない麻と革でできた簡素な衣服を着ている。足元は丈夫な革靴だ。
「……夢じゃ、ないよな」
呟いた瞬間、茂みの向こうで何かが吠えた。
低く、獣じみた声。
醸は反射的に振り返る。藪を割って現れたのは、狼に似た生き物だった。だが普通の狼ではない。肩の高さが醸の胸ほどもあり、毛は灰色ではなく岩のような黒。額の中央には短い角が一本生えている。唇の隙間からのぞく牙は、包丁より長く見えた。
「おいおいおい……!」
逃げようとした瞬間、足がもつれて転ぶ。斜面の小石が滑ったのだ。情けない声を上げる間もなく、角狼は飛びかかってきた。
死ぬ。今度こそ。
そう思ったそのとき、
「伏せろッ!」
鋭い女の声が山に響いた。
次の瞬間、銀色の閃光が横薙ぎに走った。角狼の体が宙でひねられ、血しぶきとともに地面へ叩きつけられる。間髪入れずに炎の矢が三本、一直線に飛来し、獣の肩と腹と喉元に突き刺さった。
轟、と火が上がる。
角狼は苦悶のうなりを漏らしながらなお立ち上がろうとしたが、最後は首筋に深く突き立てられた剣によって、完全に動きを止めた。
「……大丈夫?」
息を切らせながら現れたのは、赤茶の髪を後ろで束ねた若い女剣士だった。革鎧の上からマントを羽織り、片手剣を握っている。年は二十代半ばほど。目つきは鋭いが、声には気遣いがあった。
その背後には、杖を持った小柄な少女がいた。白金色の髪に、青いローブ。こちらはまだ十代のように見える。
「え、あ、はい……たぶん」
「たぶんじゃ困る。噛まれてない?」
「いや、なんとか」
「よかった……。でもこんな山の中で丸腰って、正気じゃないよ」
女剣士は呆れたように息を吐いた。
「私はレティシア。後ろにいるのがミーナ。山道の巡回依頼で来ていたの。あなたは?」
「……大麦、醸です」
「オーバク……?」
「あー、呼びにくければカモスで」
「カモスね」
レティシアは頷いたが、怪訝そうな顔を崩さない。
「このあたりの人間じゃないわね。身なりも妙だし」
「それは……」
異世界転生です、などと口にして信じてもらえるだろうか。醸が言葉を選びかねていると、ミーナが杖の先でちょんと地面を叩いた。
「レティ、血」
「え?」
「この人、腕」
言われて醸は初めて、自分の左前腕に浅い裂傷があることに気づいた。転んだとき岩で切ったのだろう。痛みはたいしたことがないが、じわじわと血がにじんでいる。
「この程度なら治癒魔法で――」
「ミーナ、魔力残量は?」
「さっきのでかなり使った。村まで保たせたいなら節約したい」
レティシアが苦い顔をする。どうやら先ほどの炎の矢は彼女ではなくミーナの魔法だったらしい。
醸は傷を押さえながら、ふと鼻をひくつかせた。
香りがした。
風に混じる森の匂いでも、血の匂いでもない。もっと乾いて、甘く、そして芯のある香り。麦芽に似ている。いや、似ているどころではない。醸造所の仕込み室で、粉砕したての麦を両手で掬ったときの、あの香りだ。
彼は吸い寄せられるように周囲を見回した。そして斜面の一角、岩陰に群れて生えている背の高い穂を見つけた。
「……麦?」
金色に近い淡い色の穂。だが普通の大麦より粒が大きく、うっすらと光を帯びている。まるで朝露そのものが実になったような、不思議な輝きだった。
醸はふらふらと近づき、一穂を摘み取る。指先で揉むと、殻の内側から現れた粒は、確かに麦だった。ただし、彼の知るどの品種よりも香りが強い。
「神様の麦……?」
レティシアが目を見開いた。
「知ってるの?」
「いや、今初めて見た。でも……」
「でも?」
「これ、ビールになる」
沈黙。
山風がびゅうと吹き抜けた。
レティシアが真顔で言う。
「カモス。助けた命の恩人として忠告するけど、今は頭を打ってる場合じゃない」
「いや打ってないです。本気です」
「その草で?」
「草じゃなくて麦です」
「違いがわからない、ただの草じゃない」
「世界が違ってもそこは譲れない」
醸は思わず強く言い返していた。するとミーナが、こてんと首を傾げた。
「びーるって、なに?」
「麦を発酵させて造る酒だよ」
「お酒?」
「うん。でもただ酔うためだけのものじゃない。ちゃんと造れば、人を元気にする」
「怪しい薬売りみたい」
「否定できないな……」
自分でもそう思い、醸は苦笑した。
だが、胸の奥では確信が芽生えていた。この麦はただの麦ではない。香り、粒の張り、表面に宿る微かな熱。素材としての力が、異様なほど強い。
醸造師として長年鍛えられた感覚が、鐘のように鳴っていた。
――これで仕込め。
――これなら、できる。
レティシアはしばらく考え込んだのち、ため息をついた。
「とにかく、このまま山に置いていくわけにもいかない。村まで来なさい。事情はそこで聞く」
「助かります」
「その代わり、変なことしたら縛るから」
「普通のサラリーマンに言う台詞じゃないな」
「さらりーまん?」
「なんでもないです」
山裾の小村グランエッジは、十数軒の石造りの家と、木柵に囲まれた畑、それから小さな鍛冶小屋を持つだけの素朴な村だった。村の背後には深い森が迫り、前には清流が流れている。剣と魔法の世界、という言葉をそのまま形にしたような風景に、醸は歩きながら何度も目を見張った。
村人たちは見慣れない醸に警戒したが、レティシアの説明でひとまず納得したらしい。もっとも、「山で拾った」「草を見てビールと言い出した男」という紹介は、納得というより困惑を招いていた気もする。
醸は村の空き小屋をひとつ借りることになった。壁は粗い木板、屋根は藁葺き。だが雨風はしのげるし、裏手には清水を引いた桶まである。何より、部屋の片隅に古い銅鍋が置いてあった。
村の共同炊事場で使われなくなった大鍋だという。
醸の目が変わった。
「これ、借りていいですか」
「鍋を見てそんな顔する人、初めて見たわ」
レティシアが半歩引きながら言う。
「それと、できれば木桶と布、それから火に強い石釜……いや、簡易炉でもいい。あと麦を砕く道具、縄、広めの板、できれば発酵容器」
「待って、増えた」
「発酵がいるんです」
「知らない単語が増えた」
「大丈夫です、説明します。たぶん」
「たぶんって言ったわね今」
村長は最初難色を示したが、角狼の素材の処理を手伝う代わりに道具の貸与を認めてくれた。醸は礼を言い、その日のうちに神麦の採取に出た。レティシアが護衛につき、ミーナも興味津々でついてくる。
山道を登りながら、醸は穂を見極めて刈り取っていく。熟しすぎたものは外し、粒の詰まったものだけを選ぶ。指で軽くしごくたび、金色の粒が掌に落ち、陽光を受けてほのかに輝いた。
「そんなに選り好みするものなの?」
「する。原料は誤魔化せない」
「魔法より面倒ね」
「魔法より面倒だけど、うまくいった時はたぶん同じくらい感動する」
そう答えたとき、醸は自分でも驚くほど自然に笑っていた。
事故の前、自分はこんな顔をしていただろうか。
仕事は好きだった。けれど、生活は好きになりきれなかった。誰のためでもなく、ただタンクの前で歳を取っていく感覚。帰っても暗い部屋。コンビニ弁当。眠って、起きて、また働く。
だが今、山の風は冷たく、空は広く、手の中の麦は未知の光を宿している。
生きている、と強く思えた。
仕込みは翌朝から始まった。
まず神麦を天日で軽く乾かし、村から借りた石臼で粗く砕く。殻を活かしつつ中身を割るのが理想だが、道具が違う以上、完全にはいかない。それでも、砕いた途端に立ちのぼる香りは圧倒的だった。蜂蜜のような甘さに、青草の清さが混じる。
「すごい匂い……」
ミーナが目を丸くする。
「だろ」
「まだお酒じゃないよね?」
「まだ麦だよ。でも、この段階でいい香りのものは強い」
「強い?」
「飲み物として」
醸は大鍋に水を張り、温度を確かめながら砕いた神麦を入れる。本来なら温度管理はもっと厳密にしたい。だが温度計はない。手と目と経験だけが頼りだ。
ゆっくりとかき混ぜる。糖化。デンプンを糖に変える、大事な工程だ。
鍋の中身は次第にとろみを帯び、香りは柔らかく変化していく。焼きたてのパンにも似た甘い匂いが小屋中に満ち、外で見ていた村人たちまでそわそわし始めた。
「なんか、腹減ってきた」
「それ、成功の兆候です」
醸はどこか誇らしげに言った。
濾して麦汁を取り出し、煮沸する。普通ならホップが必要だ。だがこの世界にホップがあるかもわからない。仕方なく、今回は神麦の持つわずかな野性味だけで組み立てることにした。あくまで最初の試験醸造。狙うのは複雑さより、素直さと清らかさ――つまり、彼にとっての“基本のラガー”だった。
「これで本当にできるの?」
レティシアが腕を組む。
「酵母がいれば」
「こうぼ?」
「発酵させる小さな働き手みたいなものです」
「見えないの?」
「見えない」
「じゃあ魔法と変わらないじゃない」
「……確かに」
醸は苦笑しつつ、冷ました麦汁を木桶に移した。問題は酵母だ。市販酵母も純粋培養もないこの世界で、自然に存在する微生物に頼るしかない。
だが、神麦の穂をよく観察したとき、表面にほのかな白い粉のようなものが付いていた。野生酵母。あるいは、この世界特有の何かか。
賭けだった。
醸は選り分けた穂を少量だけ麦汁に浸し、祈るような気持ちで桶に蓋をした。
その夜、彼はほとんど眠れなかった。
桶の中で何が起きているのか。腐敗か、発酵か。もし失敗すれば、ただの怪しい男で終わる。けれど成功すれば、ここで生きていけるかもしれない。
朝日が昇る前に起きて、小屋へ駆け込む。
耳を澄ませる。
かすかに、ぷく、ぷく、と音がした。
「……っ!」
醸は思わず息を呑んだ。
蓋をわずかに開ける。中から立ち上る香りは、昨日までの甘い麦汁とは違う。青い果実のような発酵香。その下に、整った麦の芯がある。
生きている。
酵母が、生きている。
「できる……!」
誰に聞かせるでもなく叫んだ声に、外からミーナが飛び込んできた。
「なに、爆発!?」
「いや、発酵!」
「似てるようで全然わかんない!」
結局、村人たちまで集まってくる騒ぎになった。醸は説明し、待ち、香りを確かめ、また待った。数日の発酵を経て、簡易的に澱を沈め、さらに冷たい沢水に桶ごと浸して落ち着かせる。
本来のラガーほど低温で長くは熟成できない。だがこの世界の神麦は、常識を少し飛び越えていた。液体は驚くほど早く澄み、金色の輝きを増していった。
そして七日目の夕方。
醸は木のカップに、その液体を注いだ。
泡は粗い。透明度も完璧ではない。設備不足を思えば、出来栄えは七十点。それでも、夕陽を受けたその色は、確かにビールだった。
「これが……びーる」
ミーナがごくりと喉を鳴らす。
「酒なんでしょう? 村で飲ませて大丈夫なの?」
レティシアはまだ半信半疑だ。
醸は一度目を閉じ、香りを取った。麦の甘み、ほのかな草のような清涼感、野生酵母由来と思われる微かな果実香。口に含む。軽い。だが薄いわけではない。清らかな飲み口の奥に、神麦そのものの生命力が流れている。
――うまい。
素朴で、未完成で、けれど確かに、世界で最初の一杯だった。
「レティシア」
「なによ」
「腕、出して」
「は?」
「こないだの戦いで切ってただろ。浅いけど」
レティシアは顔をしかめたが、左手首のあたりを差し出した。確かに薄く傷が残っている。
「これを飲んでみて」
「実験台?」
「まあ、そうとも言う」
「正直ね……」
周囲の視線が集まる中、レティシアは覚悟を決めたようにカップを受け取り、ひと口飲んだ。
「……え」
彼女の目が見開かれる。
「なにこれ、冷たい。山水みたいなのに、もっと……すっと入る」
「傷は?」
「え?」
レティシアは自分の手首を見た。
薄い切り傷が、見る間に淡い金の光を帯び、じわりと塞がっていく。新しい皮膚が下から生まれるように、みるみる傷痕が薄れていった。
しん、と小屋が静まり返る。
「……治った」
レティシアが呆然と呟く。
「ほんとに?」
ミーナが覗き込む。
「治ってる。痛みもない」
次の瞬間、村人たちがどっとざわめいた。
「治癒薬だ!」
「いや、酒だろ!?」
「酒で傷が治るわけが」
「でも今、見ただろ!?」
ミーナが目を輝かせた。
「ねえ、魔力切れにも効く?」
「それはまた別の造り方が要る気がする」
「造れるの?」
「たぶん」
醸は答えながら、手の中のカップを見つめた。
ラガー。
彼の世界では、最も広く親しまれ、最も基本とされるビールのひとつ。それがこの世界では、疲労や傷を癒やす“回復薬”になった。
ならば、エールなら。ホップやスパイスを使えば。小麦を混ぜれば。燻せば。長く熟成させれば。
ビールの数だけ、奇跡があるのではないか。
村長がふらつく足取りで一歩前に出る。
「カモス殿」
「はい」
「これは、あんたが造ったのか」
「造りました」
「もう一度、造れるか」
「原料と道具があれば」
「なら、うちの村を救ってくれ」
年老いた村長は、深く頭を下げた。
「この山は魔物が多い。薬は高い。怪我人が出るたび、町まで何日も運ばねばならん。あんたの酒が本物なら、何人もの命が助かる」
醸は言葉を失った。
前の世界で、彼のビールは“美味しいですね”と言われることはあっても、それ以上の意味を持つことは少なかった。もちろん、それで十分だった。十分なはずだった。
けれど今、自分の造った一杯が、誰かの命を救うと言われている。
胸の奥が熱くなる。
「……わかりました」
醸は静かに答えた。
「俺、造ります」
「おお……!」
「ただし、適当にじゃない。ちゃんと設備を整えて、原料を選んで、もっと安定して造れるようにする。そうしないと続かない」
「それはもちろん」
「あと」
「あと?」
「できれば、ちゃんと味にもこだわりたい」
一瞬の沈黙のあと、レティシアが吹き出した。
「命を救う酒に必要かそれ?」
「大事だろ」
「……まあ、飲んでわかったわ。たしかに大事ね」
ミーナが元気よく手を挙げる。
「わたし、飲む係やる!」
「それは誰でもやりたがるだろうな」
笑いが広がった。
小さな村の小さな小屋で、金色の液体が夕陽を映して輝く。
大麦 醸は、その光を見つめながら思った。
自分は死んだはずだった。何も残せず終わるはずだった。
だが、もしこの世界がもう一度やり直す機会をくれたのなら――今度こそ、ただ生きるだけじゃない人生にしたい。
ビールで、人を救う。
ビールで、居場所を作る。
ビールで、この異世界に自分の名を刻む。
その始まりは、山の神麦から造った、素朴な一杯のラガーだった。
まだ誰も知らない。
この無名の醸造師が、やがて王国中で“ビール薬師”と呼ばれることを。
そして、その奇跡の酒を巡って、数多の欲望と陰謀が渦巻くことを。
けれど今はまだ、第一歩でいい。
木のカップを掲げ、醸は小さく笑った。
「乾杯だ」
異世界の風が、小屋の窓を抜けていった。
麦の香りを運びながら。




