黒髪の排水溝
そのアパート以外に、選択肢はなかった。
都心まで電車で三十分。駅からは徒歩十五分。築四十年という古ささえ我慢すれば、雫の薄給でも十分に払える家賃は、破格と言ってよかった。不動産屋の男が「リフォーム済みで綺麗ですよ」と繰り返した言葉通り、案内された「若葉荘」の二百三号室は、壁紙もフローリングも真新しく、南向きの窓から差し込む西日が、新生活へのささやかな期待を祝福してくれているようだった。
ただ一箇所、バスルームを除いては。
リビングから続くドアを開けた瞬間、雫は微かに眉をひそめた。新しいはずの部屋の中で、そこだけが明らかに異質だったのだ。ひんやりと冷たいタイルの床。目地に蜘蛛の巣のように張り付いた黒カビ。そして、ドアを開けた瞬間に鼻をつく、古い水と消毒液が混じり合ったような、陰鬱な匂い。まるで、ここだけが建物の記憶をすべて吸い込んで、澱のように沈殿しているかのようだった。
「まあ、この家賃なら仕方ないか」
愛想笑いを浮かべた雫に、不動産屋は「ええ、水回りだけは昔のままでして」と気まずそうに目を逸らした。その小さな棘のような違和感を、雫は新生活の高揚感で無理やり心の隅に押しやった。
引っ越しの荷解きで汗だくになったその晩、雫は初めてバスルームのシャワーを使った。安物のシャワーヘッドから噴き出す頼りない湯が、一日の疲れをじんわりと溶かしていく。目を閉じ、新しい暮らしに思いを馳せた。しかし数分後、足元に溜まり始めたお湯がくるぶしを浸していることに気づく。
「あれ、排水、悪いのかな」
シャワーを止めると、静寂の中で「こぽ、こぽ」と水がうまく流れていかない音だけが響いた。雫はため息をつき、嫌な予感を覚えつつ、プラスチック製の排水溝の蓋に指をかける。ぬるり、とした感触に顔をしかめながら蓋を開けると、その下には、息を呑む光景が広がっていた。
ヘドロと絡み合った黒い塊が、とぐろを巻いていた。
それは、自分の肩までの茶色い髪とは明らかに違う。腰まで届こうかというほど長く、一本一本がワイヤーのように太い、濡れ羽色の黒髪だった。生命力すら感じさせるような艶やかさが、薄暗い照明の下でぬめりを帯びた光を放っている。
「うわっ……」
思わず声が漏れた。前の住人のものだろう。そうに違いない。しかし、女の長い髪がごっそりと詰まっている光景は、生理的な嫌悪感を呼び覚ますには十分すぎた。雫はバスルームの隅に立てかけてあった割り箸を掴むと、塊の端を恐る恐るつまみ上げた。ず、と持ち上がった髪は、想像以上の重さを持っていた。まるで、水を吸った獣の尻尾のようだった。
ゴミ袋に捨て、固く口を縛る。それでも、指先に残るぬめっとした感触と、排水溝の闇にまだ残っているかもしれないという残像が、やけに不快だった。
新しい部屋での最初の夜。慣れない環境と肉体的な疲労で、雫の眠りは浅かった。時計の秒針の音すら大きく聞こえるほどの静寂の中、不意に、微かな音が聞こえてくるのに気づいた。
ゴボッ……ゴボッ……。
バスルームの方からだ。
古い水道管が空気を吸い込む音とは違う。もっと粘り気のある、何か密度の高い液体を、細い管で無理やり吸い上げているような、湿った音。
雫は寝返りを打ち、布団を頭まで引き上げた。「古いアパートだから」。そう自分に言い聞かせ、恐怖を打ち消そうと固く目を閉じた。しかし、一度意識してしまったその音は、まるで耳のすぐそばで鳴っているかのように、思考にこびりついて離れない。
結局、その音が途切れることはなく、雫は眠れないまま、窓の外が白んでいくのを虚ろな目で見つめていた。
新生活の初日にして、この家の静寂は、すでに安らぎではなくなっていた。闇の中に潜む何かが立てる物音に、ただ耳を澄ませるための、底なしの静寂に。
その日から、排水溝の掃除は雫の悪夢めいた日課となった。朝、身支度を整える前に、まずバスルームのドアを開け、ゴム手袋をはめ、割り箸で黒い塊をつまみ上げる。初日こそ叫び出しそうになったが、三日も経つ頃には、奇妙な諦めと共にその作業をこなす自分がいた。
おかしい、と明確に感じたのは、一週間が過ぎた頃だった。
髪の量が、日を追うごとに増えているのだ。昨日取り除いたはずなのに、今朝にはまた、それ以上の量がとぐろを巻いている。まるで排水溝の暗闇そのものが、栄養豊富な土壌であるかのように、黒々とした髪を生産し続けている。そして、匂いも変わった。最初はただの湿ったカビ臭だったのが、やがて生ゴミのような酸っぱい匂いに、そして今では、バスルームのドアを開けるたびに、傷んで放置された魚の腸のような、生々しい腐敗臭がむわりと頬を撫でるようになっていた。ドラッグストアで買った一番強力なパイプクリーナーも、高価な芳香剤も、その根源的な悪臭の前ではまったくの無力だった。
恐怖は、慣れという薄皮を突き破り、より直接的に雫の五感を攻撃し始めた。
ある晩、シャンプーの甘い香りに包まれ、ほんの少しだけ緊張を解いた瞬間だった。泡にまみれた指で頭皮をマッサージしていると、指先に、自分の髪とは明らかに違う、硬くぬるりとした異物が絡みついた。
「ひっ…!」
短い悲鳴を上げ、反射的に指を引き抜く。そこには、数本の長い黒髪が、まるで意思があるかのように雫の指にきつく巻き付いていた。パニックに陥り、シャワーの湯で必死に洗い流すが、そのぬめっとした蛇のような感触だけが、幻のようにいつまでも指先に残った。
それからだ。シャワーの「ザー」という水音が、別の音に聞こえ始めたのは。
無数の水滴が叩きつけられる音の向こう側、ホワイトノイズの層を一枚隔てた深淵から、微かな声が聞こえる。最初は耳鳴りのように意味をなさなかったそれは、徐々に、人間の声の周波数へと近づいてきた。
「…か…えし……て……」
水が、囁いている。雫は蛇口を捻り、ぴたりと音を止めた。静寂。心臓の音だけが耳を打つ。水滴がタイルを叩く音に混じり、今度はもっとはっきりと、耳の奥で反響した。
水気を含んだ、冷たい声だった。
風呂から上がり、タオルで体を拭いていると、湯気で真っ白になった鏡が目に入った。普段は自分の姿を見るのが怖くてすぐにバスルームを出るのだが、その日は何かに引かれるように、鏡の前に立った。そっと、手のひらで表面を拭う。
円く晴れた鏡面に、自分の顔が映っていた。その、すぐ背後だった。
自分の肩の上に、見知らぬ誰かの顎が乗っていた。濡れた黒髪が数本、自分の鎖骨あたりに垂れている。
時間が止まった。息ができなかった。瞬きすら忘れた雫の視界の中で、その顎がゆっくりと動き、口角が歪み、笑ったように見えた。
次の瞬間、雫はバスルームから飛び出していた。背後でガシャンと化粧品のボトルが倒れる音がする。リビングの壁に背中を打ち付け、荒い息を繰り返しながら、ただ震えることしかできない。十分ほど経って、恐る恐るバスルームを覗くと、そこには誰もいない。鏡は再び湯気で曇り、すべてが幻だったかのように静まり返っていた。
雫にとって、バスルームは完全に「敵地」となった。シャワーを浴びる行為は、息を殺して汚染区域を駆け抜けるような、極度の緊張を強いる苦行へと変わった。
そして、それと呼応するように、彼女自身の体に変化が現れ始めた。
髪が、抜ける。
朝、枕に落ちている抜け毛の量に息を呑み、洗面所で髪をとかせば、ブラシが茶色い毛で埋め尽くされる。ドライヤーをかけると、はらはらと抜け落ちた髪が、黒い服の上で無数に絡まっていた。
「食べられてるんだ」
ある朝、洗面台の排水溝に溜まった自分の髪の毛を見ながら、雫は呟いた。非合理的だと頭の片隅で誰かが叫んでいる。でも、確信があった。失われていく自分の髪は、あの排水溝の闇で、黒髪の栄養分にされているのだ。
鏡に映る自分は、生気を失い、目の下には濃いクマが刻まれ、頬はこけていた。あの排水溝の闇が、自分自身を内側から蝕んでいる。その否定しようのない事実だけが、揺るぎない現実として、彼女の日常にのしかかっていた。
これ以上、この部屋にはいられない。しかし、ただ逃げ出すだけで、この闇は自分を解放してくれるのだろうか。答えは否だった。根源を断たなければ、きっと追いかけてくる。そう直感した雫は、最後の理性を振り絞り、震える足でアパートの大家の元を訪ねた。怪訝な顔をする大家に食い下がり、この部屋の過去について尋ねる。大家は渋々、数年前に「良くないこと」があったとだけ口にしたが、それ以上は頑なに語らなかった。
手掛かりを求め、雫は市立図書館の薄暗い書庫へと向かった。古びた地方新聞の縮刷版を、指が黒くなるのも構わずに一枚一枚めくっていく。そして、見つけた。五年前の、夏の日付。三面記事の、小さな囲み記事だった。
『アパートで女性の変死体』
その見出しを見た瞬間、心臓が氷水に浸されたかのように冷たく収縮した。記事の本文は、乾いた客観的な文章で、それゆえに狂気的な事実を克明に伝えていた。
——二十一日未明、若葉荘二百三号室にて、この部屋に住む無職、小夜子さん(当時二十四歳)が遺体の一部となって発見された。警察の調べによると、交際相手の男(二十八歳)が、痴情のもつれから小夜子さんを殺害。男は「長い髪が自慢の彼女が許せなかった」と供述しており、犯行時、ハサミで小夜子さんの髪を滅茶苦茶に切り刻んだという。その後、遺体を浴室で解体し、一部を排水溝に流したとみられている。なお、被害者の頭部は未だ発見されていない。
「だから、髪に……頭に執着するんだ」
雫の唇から、かすれた声が漏れた。すべてのピースが、最悪の形で嵌ってしまった。あの黒髪は、小夜子の怨念そのものだったのだ。頭部を失い、自慢の髪を奪われた女の、満たされることのない渇望。新聞を握りしめたまま、雫はその場に崩れ落ちた。図書館の静寂が、墓場のように重くのしかかってきた。
どうやって自室まで戻ったのか、記憶がおぼろげだった。部屋にたどり着いた雫の頭の中では、「逃げなきゃ」という単語だけが、壊れたレコードのように鳴り響いていた。荷造りをしなければ。しかし、何から手をつけていいか分からない。クローゼットを開けては閉め、段ボールを組み立ててはまた潰す。意味のない行動を繰り返すうち、思考は完全に千切れ、時間の感覚も曖昧になっていった。
ふと我に返ると、なぜか自分はバスルームの前に立っていた。
ドアノブを握る自分の手が、まるで他人のもののように見えた。青白く、細く、力なく震えている。違う、私じゃない。私の手は、こんな動きはしない。頭の中で必死に叫ぶが、その手は意志に反してゆっくりと、ぎ、と錆びた音を立ててノブを回していく。
記憶が、途切れた。
次に意識が浮上した時、雫は服を着たまま冷たいシャワーを浴びていた。
なぜ、いつからここにいるのか分からない。びしょ濡れのスウェットが鉛のように重く肌に張り付き、体の自由を奪っている。呆然とする彼女の目の前で、シャワーヘッドから流れ落ちる水が、ゆっくりと黒い粘性を帯びていく。最初は墨汁を垂らしたような一筋の黒。それが二筋、三筋と増え、やがて流れ落ちるすべてが、どろりとした黒い液体に変わっていた。
ゴボォッ!
獣の呻きのような轟音と共に、シャワーヘッドから噴出したのは、もはや液体ではなかった。ヘドロと混じり合った大量の黒い髪の毛が、激しい勢いで雫の顔と体に叩きつけられる。同時に、足元の排水溝からも黒髪が猛烈な勢いで逆流してきた。それはもはやただの髪ではない。無数の黒い蛇のように蠢きながら、足首に、ふくらはぎに、太ももに絡みつき、抵抗する暇もなく雫を冷たいタイルの上に引き倒した。
「——っぐ!」
悲鳴を上げようとした口を、天井の換気扇から垂れ下がってきた髪の束が、鷲掴みにするように塞いだ。鼻にも流れ込み、呼吸ができない。髪は全身を拘束し、身動き一つ許さない。闇の中で、水気を含んだあの声が、今度は脳内に直接、歓喜の叫びとなって響き渡った。
『み……つ……けた……』
窒息の苦しみの中、薄れゆく雫の視界の端で、バスルームの鏡が、湯気とは違う何かの力で、ゆっくりと、円を描くように曇りを晴らしていくのが見えた。
窒息の苦しみで、雫の視界は白く明滅していた。髪の毛に塞がれた口から漏れるのは、もはや声にならない呼気だけ。全身を拘束する黒髪は、まるで祝福の産着のように優しく、それでいて確実に彼女の命を絞め上げていく。薄れゆく意識の中、雫の視線は、何かに引き寄せられるようにバスルームの鏡に釘付けになった。
鏡は、水垢一つなく磨き上げられたように澄み渡り、その表面に、地獄を映していた。
そこにいるのは、髪の毛が一本残らず抜け落ち、頭皮が炎症を起こして赤く爛れた、見るも無残な自分。恐怖に歪むその顔の背後に、ゆっくりと姿を現す女がいた。
女は、雫が失った以上の、腰まで届く豊かで艶やかな黒髪を持っていた。その顔は、この世のものとは思えないほどの満足感に満ちた、歪んだ笑みを浮かべている。女の細い指が、鏡の中の雫の、つるりとした頭を愛おしそうに撫でた。
ああ、これが、欲しかったんだ。
最後の最後に、雫はすべてを理解した。そして、ぷつり、と意識の糸が切れた。
数日後、無断欠勤を続ける雫を案じた会社の同僚が、警察官と共にアパートを訪れた。何度呼びかけても応答はなく、ドアチェーンが掛かったままのドアを、警察官が特殊な工具でこじ開ける。部屋に踏み込んだ彼らが最初に感じたのは、部屋中に充満する、耐え難いほどの腐敗臭だった。
異臭の元は、バスルームだった。
床に倒れていた雫は、かろうじて生きていた。しかし、その姿は誰もが言葉を失うほどに変わり果てていた。極度に衰弱し、そして、頭部には一本の髪の毛も残されてはいなかった。
病院へ緊急搬送されるストレッチャーの上で、雫は虚ろな目を開けた。その焦点の合わない瞳は、天井の無機質な照明を捉えている。付き添う救急隊員の呼びかけにも応じず、ただ、乾ききってひび割れた唇から、か細い声が繰り返し漏れていた。
「かえして……わたしの、かみを……かえして……」
それはもう、小夜子の怨念の声ではなかった。髪を奪われ、すべてを失った雫自身の、新たな呪いの産声だった。
誰もいなくなった若葉荘二百三号室のドアには、黄色い規制線が冷たく張られている。
部屋の中は、警察の現場検証を終え、がらんどうになっていた。すべてが終わったかのような、不気味なほどの静寂が支配している。
その静寂の源、バスルーム。
すべての元凶である排水溝の闇には、相変わらずおびただしい量の黒髪が、まるで排水溝そのものが髪でできているかのように、渦を巻いて沈黙している。
しかし、その中心に、僅かな、だが決定的な変化があった。
渦を巻く黒髪の、その中心から。
これまでそこにはなかった一本の「茶色い髪の毛」が、まるで呪われた土壌から新しい芽が出るかのように、ゆっくりと、ぬるりと生え始めていた。
小夜子の怨念は、雫の怨念を取り込み、さらにその呪いを深くしたのだ。
そして、次の住人が、この部屋のドアを開ける日を、静かに、ただ静かに待ち続けている。