九十九層 : 紅茶の温度.03
リーテは淡く微笑んだまま、ゆっくりとティーテーブルへと戻ってきた。
「ガットの身柄は闇牢に捕らえられているわ。そこへ入って助け出すというのなら、そのついでに持ってきてほしいの」
「そんな軽く……」
思わず声を漏らしたユヴェに、リーテは目を伏せるようにして言葉を重ねる。
「もちろん、情報を持ち帰ってくれるのなら、協力は惜しまない」
椅子の背もたれを、細い爪がなぞる。
その滑らかな動きさえ、計算され尽くされているような美しさがあった。
なんでもない行為なのに……思わずユヴェはゾッとした。
「闇牢の出入り口は裁定の塔の中にしかない。私の部下に、そこまで同伴させる。そしてあなたたちがウルネス層を出るまでの間、拘束しないようにこちらで手を回すわ」
言い終えたリーテは、まるでこれが“対価として釣り合っている”と確信しているようだった。
「申し訳ないけれど、その先は自分たちで頑張って」
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
凌はしばらく目を伏せ、やがて低く呟いた。
「……ずいぶんなものが眠ってるみたいだな」
リーテの情報網は、安寧の森全土に広がっているはず。
その彼女が、“部外者に頼って”まで手に入れたがるなにか。
それだけで、塔の地下に隠されているものがどれほど厄介なものなのか、想像がつく。
しかもそれが──“死神”しか知り得ないことなら、尚更だ。
リーテは小さく頷く。
「……そうね。私は、キング・ハーウェンの悼む槍よりも、もっと恐ろしいものがそこにあると思っているわ」
言葉の熱量は淡々としているのに、その“重さ”だけが確かに残った。
「だから──槍についても少しばかり手助けはしてあげる。ただ、そっちは槍の置かれている場所まで案内するだけよ」
凌の視線がわずかに鋭くなる。
彼女のその一言だけで、多くの情報と可能性を孕んでいることに、気がついたから。
「……あんた、スロワで情報収集してたことも知ってたな」
「ええ」
リーテはあっさりと認める。
まるで、それも取引のうちだとでも言うように。
ユヴェはゴーグルの奥で眉をひそめた。
凌は更に、淡々と言葉を重ねる。
「そこで手にした情報も、すでにあんたの手の内だったって、俺は考えてる」
リーテは、否定しない。
ただ、肩をすくめて、少し悪戯っぽく笑っただけだった。
その様子に、ユヴェがわずかに狼狽えた。
全部、仕組まれてたってこと……?
けれど、凌は視線を逸らさず、言葉を繋ぐ。
「俺たちは最初から裁定の塔に侵入してもよかった。でも、その前に情報を必ず集めると、予想してただろ」
「……そうね。あなたなら、そうする」
リーテは確信している声色で呟き、紅茶を一口含んだ。
「ここは蜘蛛避けの毒だらけだ。女郎蜘蛛の情報網が使えない」
「……」
「スロワの賭博場に行くことを読んで──事前にいくつか噂を流してた」
「……噂?」
ふと、ユヴェは思い出す。
裁定の塔と、第二区ナジェムでのごたつき。
そして、第五区に運ばれた槍を見るため、悪魔たちが向かっていること。
槍の候補地が三か所もあれば、自然と、慎重な動きを強いられる。
「ナジェムと裁定の塔…死者が出るほどの騒動。それだけを耳にしてたら、俺らは次に、そのどちらかに向かってた」
「……」
「でも、まるではかったみたいに、チェリルが現れた」
──確かに。
ユヴェは背筋に氷を落とされたような気持ちになった。
今思うと、チェリルの登場は──あまりにタイミングが良すぎた。
自分たちが賭博場に着くのがもう少し遅ければ、彼女のゲームは始まっていて参加できなかったし。
逆に早過ぎれば、足りない情報を元に動くしかなかった。
ぞわりと鳥肌がたった。
目の前で、柔らかい笑みを浮かべて座る、ひとりの悪魔に。
「“祈るための飾り”なんてチェリルは言ってた。普通、それを聞けば真っ先に黄昏の神殿を思い浮かべる」
「……」
「悪魔領で生きていく上で──あそこ以上にハーウェンの“祈り”を捧ぐ場所はない」
リーテは、黙って紅茶に手を伸ばした。
第五区クレナインは、リーテの実の弟ヨミの管轄区。
そして、粛々と姉の指示に従う様子を見るに、彼はリーテの手足同然の存在だということがわかる。
「……あんたは、最初から、俺たちをここに誘導するつもりだった」
今度は、ゆっくりとカップが皿へと戻される。
洗礼されたその所作に無駄はなかった。
──カチャ。
陶器の音を静けさに響かせる。
「隠す必要はないから言うけれど──その通りよ」
リーテは静かに言った。
「私の蝙蝠は音を拾う。跳ね返るそれらで、ある程度のことを把握できるの」
「……」
「声を変えても、話し方や音の響かせ方は偽れない」
その語り口には、驚くほど抑揚がなかった。
ただ、事実を述べるように続ける。
「それに、チェリルは死神だけれど、まだ幼い。私が裁判官へ推薦したのもあって、色々とおしゃべりする仲なのよ」
「……」
「今回は偶然、有名菓子店カナリエのシュクトパイが手に入ってね?──ゲームにはちょうどいいわよねって、彼女の部下に声をかけておいたの」
凌は沈黙する。
その瞳に、わずかな怒りと冷静さが混じっていた。
リーテは少しだけ、申し訳なさそうな顔をして見せた。
「周りくどいことをしてごめんなさいね?でも、あなたたちが“どう動くか”を確認する必要もあったのよ」
その声には、どこまでも理性があった。
そして、その理性の下にある“諦めにも似た執着”が透けて見えるようだった。
もし、考えなしに行動するような者たちなら、そのまま捕らえてしまえばいい。
逆に、きちんと“彼女の手のひらの上で踊れる”なら、利用できる。
そういうことだ。
──この女は何一つ、信用ならない。
それが、凌の中で静かに下された結論だった。
街並みの美しさも、私邸の落ち着きも、紅茶の香りさえも──それら全てが、どこか“よくできすぎて”いる。
表向きの優しさには、確かな意図があった。
でもそれは、無償の慈悲ではない。
選び抜かれた秩序の飴だ。
“スロワの裁判官を推薦した“と語りながら“秩序ある社会を守りたい“と断言するその舌。
——あの歓楽街の地下で行われていた、死神の特権を濫用したゲームの、どこに秩序があった?
整った言葉、美しく取り繕われた正義。
それは“誠意”ではない。
ただ、耳ざわりのいい“秩序の装飾”にすぎない。
その“計算された正義”に、心はひとつも宿っていない。
死神だといっても、チェリルはまだ幼い。
だからこそ利用された。
それを知りながら、“あの子はおしゃべりなの”と笑って済ませるリーテに、凌は決して好意を抱けなかった。




