九十八層 : 紅茶の温度.02
凌やユヴェに向けられたリーテの声は、変わらず穏やかだった。
だがその瞳は、まるで心の奥に直接問いかけるような鋭さを湛えていた。
第六裁判官という言葉に、リリーの視線が跳ねる。
驚きと警戒が入り混じったまま、彼女はじっと凌たちを見つめた。
「……ごめんなさい、お待たせしてしまって。お客様が来ることは知っていたのだけれど──話の切れが悪くて」
「……それって、ガットの話?」
しばらくぶりの自分の声に、一瞬、喉に手が伸びる。
ユヴェがその名を口にした瞬間、リリーからきつい眼差しが飛んでくる。
思わず一歩、凌の背へと身を寄せる。
リーテは目を伏せてから、わずかに頷いた。
「そうよ。……リリー、ここからは“個人的な話”になるから、少し席を外してくれるかしら?」
リリーは一瞬、抗議の色を浮かべたが、何も言わず、リーテに一礼して部屋を出ていった。
通り過ぎざまに、彼女の瞳が凌とユヴェを捉えた。
けれど、凌の眼差しとぶつかると、それはサッと逸らされた。
束の間だったが、凌は確かに見た。
──眼鏡の奥。そのわずかな隙間に覗いた瞳の、赤。
だが、眼鏡越しに見る限り、リリーの瞳は常に静かな黒に見える。
まるで、彼女の中の“禁忌”が、レンズ一枚を通して覆い隠されているように。
それが、彼女の今の心境を表しているようにも思えた。
扉が閉まる音が、どこか痛ましく、重く響いた。
デスクから立ち上がったリーテ。
ふたりは部屋の奥に置かれた、小さなティーテーブルへ促される。
その向かい、まるで春の陽だまりのような雰囲気をまとって、リーテが静かに微笑んでいた。
「お茶でもどうかしら?」
凌は首を横に振った。ユヴェも無言で座る。
リーテは、ティーカップを軽く持ち上げながら、まるで雑談の続きを口にするような声色で微笑んだ。
「そんなに緊張しなくていいわ」
その穏やかさには毒気もなければ圧力もない。
けれど、それこそがこの女の“裁定者”としての本質を物語っていた。
凌は答えず、鋭く目を細める。
気安く受け入れるには、あまりに用意が良すぎる。
たおやかさの中に計算高さが垣間見え、余計に凌は警戒心を抱いた。
「とはいえ、そうもいかないわよね。私と取引しに来たんでしょうから」
リーテは言葉の切れ目に紅茶を口に運び、静かに香りを味わう。
その動きに隙はない。
全てが“想定通り”の所作だった。
凌は、わずかに眉をひそめ、両手をポケットに入れた。
指先で鍵に触れる。
──でも、その金属の冷たさは、すでに凌の“形”ではないようだった。
ウフを縛られたからだけではない。
誓約破りの代償が、自らを証明するための“鍵”を変質させている。
手に、馴染まない。
「…それは、あんただろ」
それでも、包帯の手で鍵を握りしめる。
声に込められたのは、怒りでも苛立ちでもなかった。
ただ、“戻らないもの”に触れようとする相手を拒絶する、冷たい決定だった。
紅の瞳が真っ直ぐリーテを射抜く。
だが、眼鏡越しにその色は隠され、ただの黒に見えていた。
「監視の目を緩めて、わざと接触してきた。…何が目的だ?」
その一言に、ユヴェがほんのわずかに肩を震わせる。
飴を飲み込んだ凌の声は、いつもの空気に溶ける響きに戻っていた。
けれど、静かに火種を抱えたような緊張が混じっていた。
だが、リーテはまるで気に留めた様子もなく、軽やかに笑う。
「あなたたちの“探し物”を手伝ってあげようと思っただけよ」
ふわりとした笑み。
だがその奥に潜む意図は決して軽くない。
「……ガットのことは、残念だったわ。あなたたちより長く一緒に働いていた分、余計にね」
その声に、ほんのわずかな感情が混じった気がした。
けれど、それが何かを判断するには、あまりに言葉は整いすぎていた。
リーテは続ける。
「──ただ」
ティーカップが皿に戻る音が、小さく響いた。
「社会は慈悲だけでは回らない。秩序がなければ、かつての混沌へ戻ってしまう」
ユヴェが息を呑むように、小さく問いかけた。
「混沌…?」
リーテはゆっくりと視線を持ち上げた。
その瞳の奥に、何度も繰り返された争乱の記憶が滲んでいるようだった。
「ええ。特にこのウルネスの層は、大きな戦争が何度も勃発していた。天使と、悪魔の戦争が」
言葉に熱はない。
だが、その静けさがかえって重みを持っていた。
彼女の深い紺色の瞳が伏せられる。
長いまつ毛がかすかに震えた。
まるで、その頃の悲劇を思い出しているように。
「その頃に戻りたくないのよ、私たち悪魔はね」
冷えた紅茶をそっと置くように、彼女は次の言葉を置いた。
「でも……今回のガットの処置は、自分で結んだ誓約書破りという禁忌といえど、また天使社会との諍いの火種になることは明白だわ」
ユヴェの表情が微かに曇る。
「第二裁判官のソルヴァンは、それを秘密裏に処理しようとしている。でも、いずれ情報は──天使領へ必ず届く」
リーテの視線が、紅茶越しに凌を射抜いた。
「私は、秩序ある社会を守りたいのよ」
その一言に、凌は短く息を吐いた。
言葉の端々に嘘はないように思えた。
だが、それが“正しさ”と同義かどうかは、また別の話だ。
頭が不思議と冴えていた。
冷水でも浴びているかのように、冷たく研ぎ澄まされていく。
──秩序ある社会、ね。
内心で舌打ちして、凌はゆっくりとまぶたを閉じた。
「……それで」
静かに、けれど警戒を解かぬまま、凌は言った。
その声には、“その先を聞く覚悟”が滲んでいた。
リーテは、言葉を選ぶようにして静かに続けた。
夜の色をした瞳は、まっすぐにふたりを見つめていた。
「あなたたちが追っているのは──ガットと悼む槍、そうでしょう?その手伝いをしてあげる。……その代わり、私にも協力してもらうわ」
静かな言葉の中にある、揺るがない決意。
それは取引というよりも、ある種の“共犯関係”を提案するような響きだった。
凌の目が細められる。
「……それで」
凌の声が、静かに落ちる。
紅茶の香りが消えた気がした。
「…なにをさせる気だ?」
その問いに、静かに椅子を引き、リーテは立ち上がる。
迷いなく本棚へと歩み寄る姿は、記憶を辿るようだった。
背を向けたまま、まるで独白のように語り出した。
「裁判所の“闇”について。裁定の塔の地下で起きていることを、公にしてほしい」
その言葉に、室内の空気が静かに揺れた。
ユヴェは、ふと視線を凌へ向けた。
けれど、凌のまなざしはリーテを推し量るように見つめていて、交わらない。
どちらも、言葉を発することなく、その意味の重さを測っていた。
凌が口を開く。
「……裁定の塔の下には闇牢があるはずだ。それ以外にも、何かあるって?」
リーテは振り返り、頷く。
「そうよ。第一区──中央都市ネスタは、最高裁判官ダーツの管轄にある。その多くは、実際にはソルヴァンが担っているけれど……裁定の塔とその地下“闇牢”については、ダーツのみが全ての権限を所有する」
その名が出た瞬間、凌のまなざしがわずかに陰る。
彼の中にある“死神”への言い知れない感情が、じくじくと疼くように。
リーテはそんな変化にも気づいていたが、あえて目を伏せたまま言葉を継ぐ。
「一切の光が届かない、暗闇の無限監獄。そこは秩序を乱す者たちに沈黙を与え、罰を償わせるための施設。……でも、その中で、おかしな噂があるのも事実なのよ」
机の上に置かれた紅茶の香りが、わずかに空気を和らげる。
だが、その言葉は、飾られた紅茶の香りとは裏腹に、氷刃のように鋭く、芯に突き刺さる。
本棚に整然と並ぶ背表紙を指先でなぞりながら、リーテはゆったりとした動きで歩く。
「あなたたちが最初に立ち寄ったスロワ。そこでまことしやかに囁かれていること…私も小耳に挟んでる。裁定の塔の下には──“研究所”があるって」
凌の眉が動く。
ユヴェもわずかに姿勢を正し、リーテの次の言葉を待った。
「……研究所?」
「詳しくは分からない。でも、その研究所の“研究内容”が、私にも、ソルヴァンにも、知らされていない」
その言葉は、明らかに“異常”を孕んでいた。
ソルヴァンですら把握できないものが、裁判所の心臓部にある。
リーテは再びふたりを正面から見据えた。
その瞳には、わずかな憂いと──微かに宿った、ためらいの光。
「私はそこの、研究資料がほしい」
静かに、しかしはっきりとそう告げられた言葉が、部屋に落ちる。
聞こえないはずの蝙蝠の羽音が、ひとつ聞こえたような気がした。




