九十七層 : 紅茶の温度.01
影から抜けると、まず感じたのは、“音の柔らかさ”だった。
まるで水の底に沈んだような、街全体が厚い膜で包まれているかのような静けさが、鼓膜に沁みこんでくる。
陽光は差しているのに、どこか鈍く、陰りを帯びて見えるのは、木々の葉を透過して届く淡い光のせいかもしれない。
三人は、広い街路の一角に立っていた。
淡い茶色の石畳が広がる道沿いに、規則正しく並ぶ建物はどれも控えめな意匠で、悪魔の街とは思えない穏やかさが漂っている。
静けさの中にも、人の営みがたしかに息づいている。
抑えられた音が、かえって存在の確かさを教えてくれるようだった。
──第三区、ヴィタ。
安寧の森の中にあって、まるで“知性の避難所”のような空間。
学者たちの歩く姿、子どもたちの朗読する声。
ダランやスロワ、クレナインといった他都市とは、また別な角度で”悪魔領らしい”確かな秩序を感じさせる雰囲気だった。
街の上空を飛ぶ小さな影たち。
ひゅ、と低く旋回するそれは、黒い蝙蝠。
それらの影の多さだけが、ただの優しい街ではないと思わせた。
「……蝙蝠おおいね」
ユヴェが見上げながら、ぽつりと呟いた。
蝙蝠たちは、気づかれることもなく、静かに軌道を変えながら空を巡っていた。
その様子には、ただの動物ではない“意志”のようなものが宿っているようで──
まるでこの街の鼓動を、空から見張っているようだった。
「……聴かれてる」
凌が低く呟く。
蝙蝠たちの──正確には、その目を借りた持ち主の視線を感じる。
それは、店長の蜘蛛と似て非なるものを思わせた。
だが、敵意は感じない。
ただ、静かに“監視”されている──それだけだった。
凌とユヴェは口の中のチャメっ声飴を飲み込んだ。
ここまできて、声を変える必要はなかった。
都市の中央には学環館と呼ばれる複合教育施設があった。
その外縁部──蝙蝠たちが飛び交う羽音街のはずれに、リーテの私邸はある。
ヨミは立ち止まり、一軒の家の前に視線を向けた。
一見して裁判官の邸宅とは思えない、控えめな造り。
外壁は淡い灰茶色の石材で統一され、門も塀もなく、誰でも近づけるように開かれていた。
それが逆に、この家の主が“本当に恐れるべき存在”であることを匂わせる。
「……こちらへ」
短くそう告げると、ヨミは音もなく扉を押した。
その手には、余計な力も、威圧もない。
ただ、“それが日常の一部であるかのように”、何のためらいもなく。
中から流れてきたのは、甘い紅茶の匂い。
そして、まるで三人が来ることを予期していたように並ぶ、複数の使用人たちがいた。
一糸乱れず、まるで同じ鋳型から抜かれたような顔。
その視線は、見ていないようで、見透かしてくるような“穴”だった。
中は、外観以上に簡素だった。
無駄な装飾はなく、茶や紺を基調にした玄関ホール。
そこもまた、天井から天体を彷彿させる光の天球が吊り下げられていた。
けれどその柔らかい光のウフの照明は、月の冷たい銀ではなく、温度を忘れたような柔らかな光が、部屋を淡く満たしていた。
「こちらへどうぞ」
控えめな声と共に、使用人がひとり、三人の前へ進み出る。
ヨミは慣れた動作で使用人の後を歩き始めた。
凌とユヴェも、静かにその後を追う。
奥まった小さな部屋へ通されると、扉の前で使用人が履け、ヨミは立ち止まった。
扉の影の中、壁に溶けるように立ち、ヨミはそっと目を閉じた。
その姿は、まるで静止した時計のようだった。
まるで役目が終わったかのように沈黙する姿に、凌は一瞥だけして、扉へ手を伸ばす。
扉が開かれた先、部屋には既に誰かの声があった。
「……やっぱり納得いきません。彼がこの四十年──いや、“四律動”という枠の中で、どれだけ貢献してきたか──」
その声は、怒りの輪郭で滲まないよう必死に縁取られていたが、そこに溢れたのは、涙の湿度だった。
その主は、部屋の奥に置かれた執務机の傍らに立っている。
肩の長さで切りそろえられた黒髪、凛とした雰囲気の女性。
漆黒の装いは動きやすさを重視しており、文官とは程遠い。
──リリー。
ガットの直属の補佐兼監視役として、裁判所に派遣されていた悪魔。
今は、再び第三の管轄に戻されていた。
「……リリー、その件はもう話したでしょう?」
重厚なデスクに向かって座る女…リーテが目を伏せた。
黒く波打つ柔らかな髪が、ふわりと揺れる。
黒い繊細なレースのフォーマルドレスには紋章すらなく、何の権威も身にまとっていない。
それでも彼女の存在は、空間そのものを静かに傾けるような、抗いようのない重さを放っていた。
リーテは柔らかく、しかし決して否定を許さない声で言った。
「ですが、リーテ様……!彼は任務にも忠実でしたし、記録にだって不審な点は──」
「……“誓約破り”という事実は、動かせないわ。彼がここで働く上で、納得の上結んだものよ」
「…っ」
「……だからこそ、彼は闇牢に送られた。──例外は作れない。それが、秩序というものだから」
その言葉に、リリーは唇を噛んだ。
一拍だけ沈黙が落ちる。
リーテはペン先を机に落としたまま、視線を動かさなかった。
まるで──
──心のどこかで“例外”を願い、なおそれを押し殺しているように。
けれどそれを口にしない。
一切の私情を見せず、“穏やかで正しい第三裁判官”として、揺るがない。
そんなリーテの視線が、扉から現れた来訪者たちに移った。
深い紺の瞳が、柔らかな光を抱いている。
「……やっぱり来てくれたのね。ようこそ、ヴィタへ」
その声は、歓迎にも、試すようにも聞こえた。
部屋の空気が、少しだけ沈む。
光の粒子は揺れていたが、どこか重さを帯びていた。
ユヴェは足を止め、ほんの少しだけ唇を引き結ぶ。
凌は視線を外さず、答えぬまま沈黙を返した。
リーテの瞳は、眼鏡の奥からまっすぐに彼らを見つめていた。
その奥にあるものが、どれほど深いのか──まだ、ふたりにはわからなかった。




