九十六層 : 忘れじの鐘.04
ユヴェが、ふと立ち止まる。
そして、その目がゴーグルの下でわずかに見開かれた。
「……これ、レプリカだよ」
声は小さかったが、はっきりとした確信に満ちていた。
「……は?」
凌が眉をひそめて振り返る。
ユヴェは槍へ目線を向けたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「本物は、もっと……禍々しい。悪夢の結晶がこびりついてるから、歪んでて、重くて、陰ってた」
彼女は視線を壁の槍へ戻しながら、どこか遠いものを見るような目をしていた。
「私、ずっと獏の里に置かれていたの見てたもの」
「……」
「……あれは、見るだけで、胸の奥がざわついたの。こんなふうに、穏やかな気持ちでいられるわけ、ないよ」
凌は黙って槍を見つめる。
確かに、あまりにも“模範的”な美しさだった。
まるで象徴として作られた展示品のような。
周囲の悪魔は疑う素振りも見せていなかった。
彼らが祈っているのは、槍そのものではない。
信じたいものの象徴として、それを見ているように見えた。
「……じゃあ、本物は、どこにある」
「分からない。でも、ここにはない。少なくともこれは、“あれ”じゃない」
祈る悪魔たちの背を前に、ふたりはしばらく、その偽物の槍を見上げていた。
ふたりの前に広がるのは、祈りの音も、気配すらも凪いだ沈黙。
そのとき──
影が、動いた。
石柱のひとつから、ぬるりと這い出すように、黒衣の男が姿を現す。
その存在は、音もなく、空気を侵食してくるような“気配”を持っていた。
「…旦那、第五裁判官のヨミですぜ」
闇丸が小さく、死角から凌に耳打ちした。
祈りの空気を壊すことなく、石柱の影から現れた黒衣の男──ヨミは、しばらく無言でふたりを見つめていた。
言葉を交わすでもなく、ただその場に“在る”というだけで、空気が僅かに冷える。
ユヴェが慎重に一歩後ろへ下がり、凌が無言のまま彼女の前に出る。
手はポケットの中、だがすぐにでも動ける体勢だった。
目線を走らせる。
どうやってこの状態から逃げられるか。
ユヴェが戦闘には向いてないことは明らかだし、自分の鍵はすでに、先の誓約破りで影のウフを扱えなくなっている。
──影を使って逃げるのは無理だ。
悪夢を使うしかない。でも……
彼の瞳が、事態に気が付かず祈りを捧げる悪魔達へ向く。
──ここじゃ被害がでる。
わずかに、ポケットの中の指先が震えた。
「……思ったより、見つけるのが遅かったな」
問いかけると、ヨミはゆっくりと首を横に振る。
その仕草は、どこまでも静かで、どこか機械的ですらあった。
「……姉が。話があると」
低く、感情の起伏のない声だった。
それだけを言い残し、ヨミはくるりと背を向け、神殿の奥へ歩き出す。
「……姉って…?」
「第三裁判官リーテ・ジェンマント。ヨミの実の姉です」
ユヴェが小さく呟くと、すかさずどこからか闇丸の声がする。
凌はしばらくヨミの背を見つめていたが、ふと周囲に目を向けた。
信徒の姿は変わらずあったが、先ほどまでいた監視官たちの姿が、見えない。
気配すらない。
「……人払い、してあったのか」
ぽつりと呟いたその声に、ユヴェが目を丸くする。
「え?」
「気づかなかった。神殿の周囲、さっきから監視の目がひとつもない。……俺たちが入ってくるの、最初から“許可されてた”ってことだ」
ユヴェは息を呑み、小さくうなずいた。
ヨミの背中には、殺気も敵意もない。
ただ、目的だけを運ぶ使者のような、重さだけがそこにあった。
「……行こう。警戒はしておく。けど、聞く価値はある」
ほんの一瞬だけ、ユヴェの足が止まった。
けれどその目に浮かんだのは、迷いではなく、覚悟の色だった。
ふたりは、ヨミの後を静かに追って、神殿の裏手──光と影が交錯する薄闇の回廊へと足を踏み入れた。
彩度の低いステンドグラスには、星や月、狼、惑星や輪など、夜空や宇宙を思わせる意匠が多かった。
それらを横目に見ながら、蒼や金色に輝く廊下を進む。
ヨミは、回廊の先に佇む重厚な扉を開ける。
待ち構えていた天井の高いホールには、中央に惑星の連なりを思わせる、光る天球がいくつか吊るされている。
床には扉ほどの大きさの石柱が三本。
誰かを“呼ぶ”ための門のように、無言で立ち尽くしていた。
光の照射によって、柱の影が床に長く伸びている。
ヨミが立ち止まり、足元に伸びる柱の影へと視線を落とした。
その手には、細く黒い“帯のような紐”が握られている。
それはまるで、霧を糸にして編んだように、指先からもすり抜けてしまいそうな、曖昧な存在感があった。
「……“影紐”を」
ヨミがそれの名を呟いた。
影のウフ適性者が多い悪魔領で、影移動はよく使われている。
悪魔社会で使われる“影紐”は、影移動を他者に共有するための唯一の手段だった。
影のウフの適性がない者も、これを通じて、影のウフ適性者と共に影を渡ることができる。
ヨミは無言のまま、“紐の端”をふたりに向けて差し出した。
手渡すでも、説明するでもなく、それが“手続き”であるかのように。
ユヴェがためらいがちに指先を伸ばし、凌も静かにもう片端を取った。
その瞬間、紐はまるで意思を持ったように、三人を繋ぐようにゆるく締まる。
闇丸がすっと背後から近づき、凌の耳元で囁いた。
「旦那、あたしは別ルートで向かいますよ」
「……」
「調べたいことがありますんで」
そして、音もなく姿を消した。
その間に、ヨミが足を影の中へと沈める。
全身を影が包みこむ直前、わずかに唇が動いた。
「……第三区、ヴィタへ」
ゆらりと柱の影が揺れる。
紐が締まった瞬間──
“逃げ場は、もうない”。
そんな錯覚が、ほんの一瞬、脳裏をかすめた。
足元の影が液体のようににじみ、床が抜けるような感覚が足を包む。
ホールの扉の先から、鐘楼が時を刻む音が背中を追いかけてくる。
14時の鐘の音が影の中へ響くより先に──
三人の姿は完全に“影の道”へと吸い込まれていった。




